CASE140 最後の酒
ホテルのバー。
深夜になり、客もほとんどいなくなっていた。
所長はカウンターで酒を飲んでいる。
その隣には魔王夫妻。
しばらく三人とも黙っていたが、やがて魔王が静かに口を開いた。
「……改めて、礼を言わせてくれ」
所長はグラスを傾けながら横目で見る。
「まだ言うのか?」
「言わせてくれ」
魔王は真剣な顔だった。
「君には、本当に感謝している」
王妃も静かに頷く。
「リゼットが、あんなに楽しそうに笑っているのを……久しぶりに見ました」
その声が少し震える。
「旅行へ出る前は、あの子が本当に楽しめるのか心配していたんです」
「ずっと遠慮していましたから」
王妃は目尻を拭う。
「でも、この数日……」
「海へ行って、街を歩いて、笑って、食べて……」
「今日なんて、帰りたくないと言っていたくらいです」
魔王も苦笑しながら頷く。
「以前のあの子なら、そんなことを口にすることすらなかった」
「君たちに任せて、本当によかった」
王妃の目から、また涙がこぼれる。
所長はそれを見て、肩をすくめた。
「……今日の俺の周り、泣いてる奴ばっかりだな」
「ふふ……」
王妃が涙を拭いながら笑う。
「そうかもしれませんね」
所長も笑った。
「まあ、楽しんだんならそれでいいだろ」
「それだけで十分だ」
魔王はグラスを持ち上げる。
「ありがとう」
「おう」
二人のグラスが軽くぶつかった。
しばらく酒を飲んでいると、魔王がふと思い出したように言う。
「そういえば……」
「ん?」
「また旅行をするときには、君たちに護衛を頼めないだろうか」
所長は少し考える。
「受けてやってもいいぞ」
「本当か?」
「ああ」
そしてニヤリと笑う。
「ただ、次はたぶん王女から依頼が来るんじゃねぇか?」
魔王は一瞬きょとんとした。
それから、苦笑する。
「……そうかもしれないな」
「名刺も渡しといたしな」
「抜け目がないな、君は」
「仕事だからな」
所長は酒を飲む。
魔王はそんな所長を見ながら、少し真面目な表情になる。
「ならば、いつでも魔族の国へ来てくれ」
「ん?」
「君が来ることを歓迎する」
魔王は胸を張った。
「君に恨みを持つ者たちについては、私が何とか抑えよう」
「安心して来てくれ」
所長は目を丸くした。
「おぉ」
「それは助かる」
そして、何気ない調子で続ける。
「今度は公爵をぶち殺しに行かなきゃいけねぇからな」
「…………」
魔王の表情が固まった。
王妃も止まる。
所長は楽しそうに続ける。
「邪魔する奴が少なくなるなら楽だ」
「…………」
「いやぁ、助かるぜ」
魔王はゆっくりと肩を落とした。
「……本気だったのか」
「何が?」
「公爵を……その……」
「ぶち殺す」
「やはり本気か……」
王妃も困ったように微笑む。
「あなた……」
「頼む」
魔王が所長を見る。
「頼むから、戦場にだけはしないでくれ」
所長はグラスを傾ける。
「そりゃ状況次第だな」
「状況次第って……」
「俺だって、好き好んで戦争したいわけじゃねぇよ」
「…………」
「まあ」
所長はニヤリと笑う。
「旅行の間くらいは、楽しくしてやったんだ」
「後のことは後で考えりゃいい」
魔王は深々とため息をついた。
「……君は本当に変わらないな」
「褒め言葉か?」
「半分くらいは」
王妃が小さく笑う。
「でも……」
「こういう人だからこそ、リゼットを任せられたのかもしれませんね」
所長は少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……そういうことにしとけ」
三人は再びグラスを掲げる。
旅行最後の夜。
騒がしく、危なっかしく、それでも確かに楽しかった数日間の締めくくりに――。
静かな乾杯の音が、ホテルのバーに響いた。