第十話 昼食と情報料
警察署を出た頃には、昼を少し過ぎていた。
所長は歩きながら、大きく伸びをした。
「腹減ったな」
「朝食を食べたばかりでは?」
「朝飯は朝飯だ」
「数時間しか経っていませんが」
「それでも腹は減る」
「……そうですか」
リリスは呆れたように答えた。
二人が向かったのは、事務所から少し離れた小さなイタリア料理店だった。
昼時ということもあって店内はそこそこ混んでいたが、幸いにも奥の席が空いていた。
二人で席につく。
所長はメニューを開くなり、ほとんど迷わず言った。
「肉だな」
「私はパスタにします」
「肉は?」
「朝食べたばかりですから」
「俺は朝も肉だったぞ」
「知っています」
「じゃあお前も肉でいいだろ」
「所長と私では胃袋の構造が違います」
「そうか?」
「そうです」
リリスは淡々とメニューを眺める。
「季節野菜のパスタにします」
「俺は牛肉のグリル」
「それだけですか?」
「前菜も」
「はい」
「あとパン」
「はい」
「それとスープ」
「朝食べていましたよね?」
「昼は昼だ」
「……そうですか」
注文を済ませる。
しばらくして料理が運ばれてきた。
所長の前には、香ばしく焼かれた牛肉のグリル。
その横には前菜、パン、スープ。
リリスの前には、色鮮やかな野菜のパスタとサラダが並んだ。
「いただきます」
リリスが小さく頭を下げる。
ナイフとフォークを手に取る。
背筋は伸び、料理を扱う所作にも一切の無駄がない。
パスタをフォークだけで丁寧に巻き取り、音を立てることなく口へ運ぶ。
サラダを食べるときも、皿の上を乱すことなく綺麗に食べ進めていく。
どこかの上流階級の令嬢と言われても、その姿だけなら疑う者はいないだろう。
一方の所長はというと――。
「うめえ」
かなり大きく切った肉を口へ放り込んでいた。
「……」
リリスがちらりと所長を見る。
「何だ?」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「ありません」
「そうか」
所長は気にせず、もう一切れ肉を切る。
しばらく食事を続けたところで、リリスが口を開いた。
「ところで所長」
「ん?」
「今回の件ですが」
「ん?」
「結局、どれくらい儲かったんですか?」
所長のナイフが止まった。
「儲かった?」
「はい」
「……」
「私が警察署に残っている間に、何か取引をしていたんですよね?」
「ああ」
「具体的な金額までは聞いていません」
「そうだったな」
所長は肉を切りながら考え込む。
「えーっと……」
「覚えていないんですか?」
「いや、覚えてる」
「ならいいですが」
「最初に俺が向こうに提示したのが……」
所長は少し考える。
「八千ゴールド」
「八千?」
「そう」
「何に対してです?」
「倉庫の生産設備や薬、それに関連する物資をまとめてだ」
「なるほど」
リリスは頷く。
「それで?」
「そのまま八千ゴールド」
「値引きは?」
「してない」
「満額?」
「満額」
リリスが少し驚いた顔をする。
「随分強気な商談だったんですね」
「俺は最初からそのつもりだったからな」
「それで相手も納得した、と」
「まあな」
「では八千ゴールド」
「ああ」
所長は肉を食べる。
しかし、リリスはそこで少し考えた。
「それとは別に、エルフたちについては?」
「エルフ?」
「はい。昨日連れて帰ってきた八人です」
「ああ」
所長は一瞬黙る。
「一人三百ゴールドだったかな」
「かな?」
「最初はな」
「最初は?」
「向こうが高いって言ったから下げた」
「いくらに?」
「二百三十」
「二百三十ゴールド……」
リリスが頭の中で計算する。
「八人なら、一千八百四十ゴールドですね」
「そうなるな」
「それもマフィアから?」
「ああ」
「では八千と合わせて……」
リリスは指で軽く数える。
「九千八百四十ゴールド」
「それくらいだ」
「それくらいって……」
「細かいところは帳簿をつければ分かる」
「その帳簿をつけるのは私ですよね?」
「優秀だからな」
「褒めても仕事は減りません」
「そうか」
リリスは呆れながらパスタを食べる。
「それ以外には?」
「それ以外?」
「はい」
「銃器は売ってない」
「……売らなかったんですか?」
「ああ」
「所長なら売るのかと思っていました」
「銃は別だ」
「なるほど」
「車も売ったわけじゃない」
「そうですか」
「俺が使う」
「そうですか」
リリスはそれ以上聞かなかった。
所長の頭の中には、売却した金額と、自分の手元に残したものがそれぞれ整理されている。
しかしリリスにとっては、今聞いた話が初めて知る内容だった。
「では、帳簿にはその金額を記載しておきます」
「頼む」
「八千ゴールド」
「ああ」
「エルフ八人、一人二百三十ゴールド」
「ああ」
「合計九千八百四十ゴールド」
「そう」
「それと、今回の依頼料について」
所長の手が止まった。
「……」
「所長?」
「それはまだ全部受け取ってない」
「またですか?」
「まあ、まだ商談の余地がある」
「さっきの金額とは別なんですね?」
「ああ」
「分かりました」
リリスは頷く。
「では、それは別途記録しておきます」
「そうしてくれ」
「それから経費も」
「弾薬、燃料、車両の修理費」
「はい」
「食事代」
「依頼中の食事なら一部は経費にできます」
「よし」
「ただし、所長が個人的に頼んだ追加の肉料理まで全部経費にできるとは思わないでください」
「……」
「何です?」
「お前、細かいな」
「帳簿ですから」
リリスは淡々とパスタを食べる。
「帰ったら帳簿をつけなければなりません」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
「以前もそう言って三日放置しました」
「……」
「その前は一週間です」
「……」
「さらにその前は帳簿そのものが見つからなくなりました」
「よく覚えてるな」
「私が探しましたから」
「優秀だなぁ」
「褒めても帳簿は消えません」
「分かった分かった」
所長はパンを一口食べた。
「帰ったらちゃんとやる」
「約束ですよ」
「ああ」
食事を続ける。
しばらくすると、リリスはパスタを食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
ナプキンで口元を軽く拭う。
最後まで所作は綺麗だった。
所長はその様子を眺める。
「お前、本当に食い方綺麗だな」
「ありがとうございます」
「俺の食い方は?」
リリスは所長の皿を見る。
肉はほとんどなくなっている。
パンの皿にはソースが残り、スープの皿も空になっている。
「……豪快です」
「褒めてるか?」
「そう受け取っていただいて構いません」
「そうか」
所長も食事を終える。
「じゃあ帰るか」
「はい」
「帳簿書かないとな」
「覚えていましたか」
「覚えてる」
「よかったです」
「それと」
「はい?」
「依頼料のことも忘れないようにしないとな」
「そこは忘れないんですね」
「金は大事だからな」
リリスは小さくため息をついた。
「そういうところだけはしっかりしていますね」
「褒めてる?」
「褒めていません」
「そうか」
二人は店を出た。
午後の日差しが街を照らしている。
所長は満腹になった腹をさすりながら歩いていた。
「さて」
「はい」
「帰ったら帳簿」
「はい」
「依頼記録」
「はい」
「それから――」
所長が突然足を止めた。
「あ」
「どうしました?」
「思い出した」
「何をです?」
「女刑事だ」
「……」
「電話する」
「今ですか?」
「今だ」
「食事をしたばかりですが」
「だから今なんだよ」
「意味が分かりません」
所長はポケットから携帯を取り出した。
女刑事の番号を探す。
リリスは呆れた顔をしながら隣に立っている。
発信。
しばらく呼び出し音が鳴る。
『……何?』
女刑事が出た。
声が冷たい。
「よう」
『何だ』
「ちょっと話がある」
『今度は何?』
「情報を買わないか?」
『……は?』
「情報だ」
『それは聞こえた。何の情報?』
「昨日の倉庫についてだ」
『……』
「お前、今朝踏み込んだんだろ?」
『そうだけど』
「もぬけの殻だった」
『そうよ』
「証拠は持ち帰った」
『そう』
「事件化もした」
『そうよ』
「でも、全部は分かってない」
『……何が言いたい?』
所長は口元を上げる。
「俺は知ってることがある」
『……』
「ただで教えるのもな」
『また金か』
「当然だろ」
『お前な……』
「探偵なんだから」
『……』
電話の向こうで女刑事が深く息を吐く。
『それで?』
「買うか?」
『情報の内容による』
「そりゃそうだ」
『いくら?』
「それは内容を聞いてから決めろ」
『お前が値段を決めるんだろ』
「まあな」
『……本当に腹が立つな、お前』
「よく言われる」
所長は楽しそうに笑った。
「ただ、今回はそっちにも得がある話だ」
『どういう意味?』
「昨日の倉庫で何が起きていたのか」
『……』
「それを知りたくないか?」
女刑事が黙る。
所長はその沈黙を楽しむように待った。
『……話だけ聞く』
「よし」
『まだ買うとは言ってないからな』
「まあいい」
『よくない!』
「詳しい話は事務所でする」
『分かった』
「じゃあな」
『ちょっと待て』
「何だ?」
『お前、また妙なこと考えてないだろうな?』
「考えてる」
『即答するな!』
「冗談だ」
『お前の冗談は信用できない』
「そうか」
『そうだ!』
電話が切れた。
所長は携帯をしまう。
「商談成立」
「成立していません」
リリスが即座に否定した。
「まだ情報料について何も決まっていません」
「細かいな」
「重要なことです」
「まあいい」
所長は歩き出す。
「帰ったら帳簿だ」
「はい」
「それから情報の整理」
「はい」
「それで女刑事に高く売る」
「売れるとは限りません」
「売る」
「……」
「売れる」
リリスは小さく息を吐いた。
「せめて、何を売るのかは整理してからにしてください」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「……」
「何だ?」
「何でもありません」
二人はそのまま事務所へ向かって歩いていった。
今回の取引で得た金は、合計九千八百四十ゴールド。
八千ゴールドは生産設備や薬などの取引によるもの。
残る一千八百四十ゴールドは、八人のエルフを一人二百三十ゴールドで引き渡した代金だった。
銃器は売っていない。
所長が自分用に確保した薬三箱も、当然ながらこの売上には含まれていない。
そしてリリスは今、初めてその取引内容を知ったばかりだった。
――だからこそ。
事務所へ戻ったら、聞いたばかりの数字を一つずつ帳簿に書き込まなければならない。
その一方で所長は、もう次の商売のことを考えていた。
今度は女刑事相手の「情報料」。
いったい、いくらふっかけてやろうか。
そんなことを考えながら、所長は上機嫌で事務所への道を歩いていた。