第十四話 古い戦友
情報の取引が成立した翌日。
探偵事務所の机には、昨夜までとは比べ物にならないほど大量の資料が並べられていた。
中央に置かれているのは、一枚の紙。
そこには四つの名前が記されている。
ザルガ・ヴァルケイン。
セレネ・リュミエール。
グルム・アイアンハンド。
ヴァルド・グラウゼン。
その中でも、所長たちが最初に目をつけたのはセレネだった。
エルフの生産管理を取り仕切る女。
麻薬カルテルの原材料生産を管理し、各地の生産拠点を繋いでいるとされる人物。
問題は――。
「……何もないな」
所長が資料をめくりながら呟いた。
「ありませんね」
リリスが答える。
「本当に?」
「本当にありません」
「住所」
「不明」
「家族」
「不明」
「出身地」
「不明」
「所属していた組織」
「不明」
「好きな食べ物」
「それは調べる必要がありますか?」
「ないな」
「でしょうね」
リリスは淡々と資料を閉じた。
向かいでは女刑事が腕を組んでいる。
「警察の方も同じだ」
「エルフの国に照会したんだろ?」
「ああ」
「返事は?」
「来た」
「おっ」
「『回答できない』だ」
「……」
「それだけ」
所長は深く息を吐いた。
「ずいぶん親切な国だな」
「エルフは昔から排他的なんだよ」
女刑事が苛立たしそうに言った。
「人間側の警察がエルフの国内事情を調べようとすれば、まず門前払いだ」
「犯罪捜査だぞ」
「向こうからすれば、こちらの都合だ」
「面倒だな」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題だ?」
「外交問題になる」
「もっと面倒だな」
所長は椅子に背を預けた。
リリスが別の資料を取り上げる。
「マフィアの方はどうでしょう」
「そっちも駄目だった」
女刑事が答える。
「エルフ領に商売上の伝手は?」
「ない」
マフィアの幹部からも同じ返事が来ていた。
「エルフは外部の犯罪組織とも距離を置いてるらしい」
「つまり」
所長が指を一本立てる。
「警察、駄目」
二本目。
「マフィア、駄目」
三本目。
「俺たち、当然駄目」
四本目を立てようとして、所長はやめた。
「……詰みだな」
「認めるんですね」
リリスが言った。
「認めるしかないだろ」
所長は机に肘をついた。
「エルフの国は閉じてる。こっちには内部に入る伝手がない」
「セレネという名前しか分かっていません」
「そう」
「これでは捜査のしようがありませんね」
「全くだ」
しばらく三人とも黙っていた。
事務所の壁時計だけが、一定の間隔で音を立てている。
やがて。
「……あ」
所長が呟いた。
「何か思いつきましたか?」
「一人いる」
「エルフですか?」
「ああ」
所長は立ち上がった。
「俺の知り合いだ」
女刑事が顔を上げる。
「エルフの?」
「そう」
「そんな人脈があったのか?」
「昔の知り合いだ」
所長は机の引き出しを開けた。
中から古びた書類の束を取り出す。
「軍にいた頃の同僚だ」
リリスが少しだけ興味を示した。
「軍人時代の?」
「そう」
所長は紙を一枚ずつめくる。
「特殊作戦部隊にいた」
「オーガの?」
「俺が?」
「いえ、その方です」
「エルフだ」
女刑事が目を丸くした。
「エルフの軍人?」
「珍しいか?」
「いや……エルフの軍人自体はいるだろうけど」
「そいつは普通の兵士じゃない」
所長は一枚の記録を抜き出した。
「狙撃手だ」
紙には、古い軍用の記録が残っていた。
名前。
所属。
射撃技能。
作戦参加記録。
所長はその名前を指で叩いた。
「ミレイア・アルヴェン」
リリスが名前を読み上げる。
「ミレイア・アルヴェン……」
「ああ」
「現在の所属は?」
「たしか――」
所長は記録の端を見る。
「軍の機密訓練所」
女刑事が眉をひそめた。
「機密訓練所?」
「特殊部隊向けの施設だ」
「そんなところに?」
「昔から優秀だったからな」
所長は笑った。
「狙撃の腕だけなら、俺が知ってる中でもトップクラスだった」
「所長より?」
「……」
「所長?」
「まあ、そういう時もある」
「負けてたんですね」
「リリス」
「はい」
「それ以上言うな」
「承知しました」
女刑事が吹き出した。
「お前、昔からそんな感じだったのか?」
「昔の話だ」
所長は書類をまとめた。
「問題は、まだあいつがそこにいるかどうかだ」
「でも連絡先は分かるんですね?」
「ああ」
所長は古い電話帳を取り出した。
「訓練所の番号なら残ってる」
「そこへ連絡するんですか?」
「する」
女刑事が嫌そうな顔をする。
「機密施設なんだろ?」
「だからこそだ」
「どういう意味だ?」
「そこにいるエルフなら、普通のエルフより内部事情に詳しい可能性が高い」
所長は電話機へ手を伸ばした。
「少なくとも、俺たちが知らないエルフ社会の事情は知ってる」
「セレネのことも?」
「そこまでは期待してない」
所長は受話器を取った。
「ただ、何か知ってるかもしれん」
番号を回す。
しばらく呼び出し音が続いた。
やがて。
『――こちら軍事訓練施設』
無機質な声が返ってきた。
『所属と用件を』
「元アルヴェリア軍」
所長は少し姿勢を正した。
「特殊作戦部隊所属、退役軍人だ」
『氏名を』
「所長」
『……』
「どうした?」
『確認します』
電話の向こうで何かを確認する音がする。
女刑事が小声で聞く。
「本当に名前それで通るのか?」
「通る」
「本当に?」
「ああ」
しばらくして。
『確認が取れました』
「そうか」
『ご用件を』
「ミレイア・アルヴェンに会いたい」
電話の向こうが沈黙した。
『……ミレイア・アルヴェン』
「ああ」
『現在も当施設に所属しています』
所長の口元が少し緩んだ。
「生きてたか」
『健在です』
「そうか」
『面会理由を』
「個人的な用件」
『軍務に関係しますか?』
「多少」
『具体的には?』
「麻薬カルテル」
女刑事が思わず所長を見る。
リリスも顔を上げた。
『……』
「何か知ってるかもしれん」
『機密情報に触れる可能性があります』
「分かってる」
『情報提供を保証することはできません』
「それも分かってる」
『それでも面会を?』
「ああ」
所長は即答した。
「昔の戦友に話を聞きたい」
再び沈黙。
やがて。
『確認を取ります』
「頼む」
通話が切れた。
所長は受話器を置く。
「どうだった?」
女刑事が聞く。
「返事待ち」
「会えそうなのか?」
「たぶんな」
「昔の同僚って、どんな人なんです?」
リリスが尋ねた。
所長は少し考えた。
「腕のいい狙撃手」
「それは先ほど聞きました」
「無口」
「なるほど」
「真面目」
「所長とは正反対ですね」
「お前、最近ちょくちょく俺に厳しくないか?」
「事実を述べています」
「そうかよ」
所長は苦笑した。
「あと、性格が悪い」
「狙撃手なのに?」
「狙撃手だからだ」
「どういう理屈ですか」
「敵を撃つ前に、どうすれば一番嫌がるかを考える奴だった」
「……」
「戦場では頼りになった」
所長の表情が少しだけ変わった。
普段の軽薄な笑みではない。
昔を思い出している顔だった。
「俺たちが敵陣に潜り込んだ時も、何度か助けられた」
「仲が良かったんですね」
「まあな」
「今も?」
「どうだろうな」
所長は窓の外を眺めた。
「最後に会ってから、かなり経つ」
「それでも連絡するんですね」
「昔の戦友だからな」
リリスが静かに頷いた。
「では、期待できますね」
「分からん」
「どうしてですか?」
「昔のあいつなら、俺が突然現れたらまず銃を向ける」
「敵と間違えるんですか?」
「違う」
所長は笑った。
「俺だから撃つんだ」
「……」
女刑事が呆れた顔をする。
「本当に仲が良かったのか?」
「たぶんな」
その時。
電話が鳴った。
所長がすぐに受話器を取る。
『――先ほどの件ですが』
「ああ」
『ミレイア・アルヴェンとの面会を許可します』
「いつ?」
『明日の午前』
「早いな」
『ただし、施設内への武器の持ち込みは禁止です』
「分かってる」
『所持品検査があります』
「それも分かってる」
『面会時間は三十分』
「十分だ」
『なお、施設内で知り得た機密事項については――』
「外には漏らさない」
『……承知しました』
通話が切れる。
所長は受話器を置いた。
「明日だ」
女刑事が頷く。
「よし」
「エルフの国に入る必要はないんですか?」
リリスが尋ねる。
「まずはミレイアから聞く」
「それでセレネに繋がる情報があれば?」
「そこから先を考える」
「なるほど」
所長は机の上の資料をまとめた。
セレネ・リュミエール。
エルフの生産管理者。
麻薬カルテルの原材料を支配する女。
その行方を追うためには、閉鎖的なエルフ社会の内側を知らなければならない。
そして、そのための最初の扉が――。
かつて戦場を共にした、一人のエルフだった。
「しかし」
女刑事が言った。
「お前、軍人時代にそんな連中と一緒に戦ってたんだな」
「ああ」
「オーガのあんたと、エルフの狙撃手か」
「他にも色々いたぞ」
「どんな部隊だったんだ?」
所長は少し考える。
「変な奴ばっかりだった」
「今のお前みたいだな」
「俺はまともだった」
「それはない」
女刑事とリリスの声が重なった。
「お前らな……」
所長が呆れる。
だが、その顔には少しだけ懐かしそうな笑みが浮かんでいた。
明日。
久しぶりに会う。
戦場で背中を預けた、古い戦友に。
そして、その女が――。
今回の事件の鍵を握っているかもしれない。
所長はセレネの名前をもう一度眺めた。
「さて」
資料を閉じる。
「昔の仲間に、ちょっと昔話でも聞きに行くか」
その声には、いつもの軽さとは少し違うものが混じっていた。