翌朝。
探偵事務所の一階には、普段とは少し違う緊張感が漂っていた。
所長は大きな机の上に荷物を並べ、一つずつ確認していた。
「拳銃」
オーガである所長の体格に合わせた大型拳銃。
続いて弾薬。
「ライフル」
愛用のライフルを手に取り、弾倉を確認する。
「よし」
そして最後に、壁へ立てかけてあった鉈を手に取った。
刃を軽く確認し、そのまま腰へ固定する。
「これも持っていく」
向かいで荷物を整理していたリリスが顔を上げた。
「それ、必要ですか?」
「必要になるかもしれん」
「何に?」
「いろいろだ」
「……所長らしい答えですね」
リリスは呆れたように言いながら、自分の装備を確認する。
護身用の拳銃。
ナイフ。
予備の弾薬。
最低限の道具。
それだけだった。
「私はこれで十分ですね」
「ああ。無理に重装備にする必要はない」
「分かりました」
その横で所長は別の荷物を開いた。
中から酒瓶を取り出す。
「あと酒」
リリスが手を止めた。
「……それは必要ですか?」
「俺には必要だ」
「捜査に?」
「違う。俺に」
「……」
所長は酒瓶を丁寧に包んで鞄へ入れる。
続いて煙草を数箱取り出した。
「煙草も」
「そちらも所長用ですね」
「ああ」
「ずいぶん楽しそうな旅行ですね」
「旅行じゃねぇ。捜査だ」
「酒と煙草を持っていく捜査があるんですね」
「ある」
即答だった。
リリスは何も言わず、食料の袋を確認する。
「食料は三日分ほどあります」
パン。
保存肉。
乾燥果物。
缶詰。
水。
簡単な調理道具。
「これなら何かあっても大丈夫でしょう」
「よし」
所長は満足そうに頷いた。
「準備完了だ」
「三日分も必要でしょうか?」
「念のためだ」
「所長の『念のため』は大抵、何か起きる前提ですよね」
「探偵だからな」
「便利な言葉ですね」
荷物をまとめ、二人は車へ向かった。
後部座席へライフルケースや食料を積み込む。
酒と煙草も所長の荷物として積み込まれた。
車が事務所を出発する。
目的地は軍の基地。
昨日、ミレイアを迎えに行くと約束していた。
◇
基地へ到着すると、昨日と同じ受付の兵士が所長を見つけた。
「来ましたか」
「おう」
「ミレイアは準備を終えています」
「じゃあ連れてきてくれ」
「はい」
しばらくして、ミレイアが現れた。
「待たせたな」
しかし――。
「……」
リリスが目を丸くする。
昨日までのミレイアは、軍人らしい制服姿だった。
だが今日は違う。
華やかなエルフらしい衣装を身につけていた。
淡い色の布地。
細かな刺繍。
森を思わせる装飾。
長い髪も整えられている。
普段の軍人としての鋭さとは違う、エルフらしい優雅な雰囲気があった。
「とてもお似合いです」
リリスが素直に言う。
「……そうか?」
「はい。とても綺麗です」
「ありがとう」
ミレイアが少し照れたように答える。
その様子を見た所長が――。
「ぶっ……!」
笑い出した。
「お前、何だその格好!」
「……何か?」
「いや、悪い悪い!」
所長は腹を抱える。
「昨日まで軍服で格好つけてた奴が、今日はずいぶん華やかじゃねぇか!」
「所長」
リリスがたしなめる。
「笑いすぎです」
「だってよ!」
「……」
ミレイアの目が細くなる。
「もう一度言ってみろ」
「何を?」
「その格好について」
「いや、似合ってると思うぞ」
「最初からそう言え」
「ははは!」
所長がまた笑った。
次の瞬間。
ミレイアは腰から散弾銃を抜いた。
「え?」
リリスが声を漏らした。
轟音。
「ぐおっ!」
散弾が所長の腹へ叩き込まれる。
所長の巨体が後ろへよろめく。
「所長!」
リリスが慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「……痛ぇ」
所長は腹を押さえる。
少し血が滲んでいる。
「だから言っただろう」
ミレイアが冷静に銃を下ろす。
「私の服を笑うな」
「お前、昨日も撃っただろ!」
「今日は腹が立った」
「理由が雑すぎる!」
「自業自得だ」
リリスは所長の腹を確認する。
「大丈夫そうですね」
「ああ」
所長は立ち上がった。
「行くぞ」
「切り替えが早いですね」
「いつものことだ」
三人は車へ乗り込んだ。
所長が運転席。
リリスが助手席。
ミレイアが後部座席。
車は基地を出発した。
◇
山道をしばらく走る。
やがて周囲の景色が変わってきた。
人間の国では見慣れないほど深い森。
巨大な樹木。
道端に咲く色鮮やかな花。
リリスは窓の外を眺めながら尋ねた。
「ミレイアさん」
「何だ?」
「リュネリア共和国について、もう少し教えてもらえますか?」
「ああ」
ミレイアは窓の外を見る。
「リュネリア共和国は、エルフが中心となって作った国だ」
「共和国ということは王様はいないんですよね?」
「ああ。各地域の代表が議会を作り、国の方針を決めている」
「かなり民主的なんですね」
「表向きはな」
ミレイアの声が少し低くなる。
「問題は、外部に対してかなり閉鎖的なことだ」
所長が運転しながら口を挟む。
「だからエルフ以外は入りにくい」
「そうだ」
「俺とリリスは?」
「私が同行していれば、規則上は入国できる」
「規則上?」
「歓迎されるとは限らない」
「なるほど」
リリスが少し考える。
「では、セレネさんのような開国派は珍しかったんですね」
「そうだ」
「国の中では有名な方だった?」
「開国派では中心人物だった」
「それなのに、カルテルに利用されている」
「周囲の人間を人質に取られているからな」
ミレイアは苦い顔をする。
「本人の意思で協力しているわけではない」
「カルテルは、かなり前からリュネリアに入り込んでいたんですよね」
「ああ」
所長が続ける。
「エルフが原材料を作る。ドワーフの機械で精製する。魔族側へ運んで港から流す」
「そして、それをまとめている奴らがいる」
「そういうことだ」
リリスは頷いた。
「かなり大きな組織ですね」
「だからこそ、セレネから辿る必要がある」
ミレイアは黙って窓の外を見た。
しばらくして、道の先に巨大な検問所が見えてくる。
「もうすぐ国境だ」
ミレイアが言う。
「ここから先がリュネリア共和国だ」
所長は前方を見る。
「ずいぶん厳重だな」
「閉鎖的な国だからな」
車が検問所へ近づく。
「停止!」
兵士が手を上げた。
所長はブレーキを踏む。
車が停止する。
所長はポケットから煙草を取り出した。
一本咥え、火をつける。
リリスが横を見る。
「所長」
「ん?」
「検問ですよ」
「見れば分かる」
所長はニヤニヤしながら煙を吐き出した。
緊張感などまるでない。
むしろ検問所の兵士たちを面白がって眺めている。
兵士が車へ近づいてくる。
「身分証を」
ミレイアが提示する。
「軍所属、ミレイア・アルヴェン」
兵士は身分証を確認した。
続いて車内を見る。
「同行者は?」
「私の知人だ」
「オーガと魔族……?」
「ああ」
兵士の手が武器へ伸びかける。
「私が責任を持つ」
ミレイアが静かに言う。
「……分かった」
兵士は所長を見る。
「入国の目的は?」
「……」
ミレイアが一瞬言葉に詰まった。
ここでカルテルの捜査と言えば、警戒される。
かといって嘘をつくわけにもいかない。
「目的は?」
兵士が再び尋ねる。
ミレイアが口を開こうとした。
その瞬間。
「父親への挨拶だ」
所長が横から言った。
「…………」
車内が凍りついた。
ミレイアの表情が完全に固まる。
リリスも目を瞬かせた。
「父親への……?」
兵士が聞き返す。
「ああ」
所長は煙草を吸いながらニヤニヤしている。
「久しぶりの里帰りだ。親父さんにもちゃんと挨拶しないとな」
「所長」
ミレイアの声が低くなる。
「何だ?」
「その言い方はやめろ」
「何が?」
「分かっているだろう」
ミレイアは内心で頭を抱えていた。
リュネリアは閉鎖的な国だ。
外部の人間が少ない地域では、誰がどこへ行ったかなどという話はあっという間に広まる。
まして――。
オーガの男が、エルフの女の父親へ挨拶に来た。
この言い方なら、どう考えても普通の里帰りには聞こえない。
結婚の挨拶。
そう受け取られる可能性が極めて高い。
そして、この検問所の兵士がそれを誰かに話せば。
その日のうちに噂が広まるかもしれない。
明日には父親の耳に入っている可能性だってある。
ミレイアは拳を握った。
――余計なことを……!
「父親への挨拶とは?」
兵士が尋ねる。
所長は笑顔で答える。
「そのまんまだ」
「……」
「親父さんに会いに来た」
「所長!」
「何だよ」
「余計なことを言うな!」
「別に嘘は言ってないだろ」
「意味が違う!」
「何が?」
「分かっているだろう!」
ミレイアの顔が赤くなる。
リリスは二人のやり取りを黙って聞いていた。
そして――。
所長の頬をつねった。
「いでっ」
所長が顔をしかめる。
「何だよ!」
リリスは無表情。
「……所長」
「はい」
「今の発言の意味を理解していますか?」
「もちろん」
「そうですか」
むにっ。
「痛い痛い!」
リリスは無表情のまま頬をつねり続ける。
「リリス、何でお前まで怒るんだ?」
「怒っていません」
「じゃあ離せ!」
「嫌です」
「何でだよ!」
「知りません」
表情は変わらない。
だが、指先には妙に力が入っている。
リリスは「父親への挨拶」という言葉の意味を理解していた。
それが単なる親への挨拶ではなく――。
結婚を前提とした挨拶を匂わせる言葉だということも。
そして、所長がそれをミレイアに対して面白半分で使ったことも。
だからこそ、ほんの少しだけ胸の奥がざわついた。
ミレイアもそれに気づいたのか、リリスをちらりと見る。
「……」
そして、ほんの少しだけ苦笑した。
「リリス」
「はい」
「気にするな」
「気にしていません」
「そうか」
「はい」
即答。
だが、所長の頬をつねる手はまだ離れない。
「痛いんだが」
「もう少しです」
「何がだよ」
「反省するまでです」
「俺は十分反省してる!」
「では、あと少し」
「理不尽だ……」
ミレイアは呆れながらも、どこか安心したように息を吐いた。
やがて兵士が咳払いをする。
「……入国目的は?」
ミレイアは諦めたように答えた。
「私の故郷への帰還と、同行者の案内だ」
「分かった」
兵士は身分証を確認する。
しばらくして返却した。
「入国を許可する」
「ありがとう」
車が再び動き出す。
検問所を抜ける。
リュネリア共和国。
ミレイアの故郷。
そしてカルテルの闇が根を張る国。
車内では所長が新しい煙草に火をつけた。
ミレイアは深いため息をつく。
「……父に何と説明すればいいんだ」
「普通に言えばいいだろ」
「何を?」
「俺が挨拶に来たって」
「だから、その言い方をやめろ!」
所長は楽しそうに笑った。
リリスは無表情のまま、もう一度だけ所長の頬をつねった。
「痛っ!」
「……余計なことを言うからです」
「お前、まだ根に持ってんのか?」
「何のことでしょう」
リリスは窓の外へ視線を戻す。
表情はいつものままだった。
ただ――。
その頬には、ほんのわずかに不機嫌そうな気配が残っていた。