第二十五話 父親への挨拶と、帰国前の土産
農場を包んでいた緊張が、ようやく解けていく。
長い間、カルテルに囚われていたエルフたちは、まだ何が起きたのか完全には実感できていないようだった。
けれど。
もう、誰も彼女たちを拘束する者はいない。
武器を持った見張りもいない。
逃げ出す必要もない。
農場の門は開かれている。
セレネは、その門をじっと見つめていた。
「……本当に、終わったんですね」
その隣で、ミレイアが頷く。
「ええ」
「私たちは……自由なの?」
「はい」
ミレイアは、はっきりと言った。
「もう誰にも、あなたたちを命令させません」
セレネは目を閉じる。
何かを噛みしめるように、長く息を吐いた。
そして。
「……ありがとう」
ミレイアの手を取った。
「ミレイア」
「はい」
「本当に……ありがとう」
ミレイアは少し困ったように笑った。
「私一人ではありません」
そう言って、少し離れた場所を見る。
そこにはリリスが立っていた。
いつもの無表情。
いつもの眼鏡。
いつもの鉄仮面。
感動的な再会を前にしても、表情はほとんど変わらない。
「リリスさんも?」
「もちろんです」
リリスは淡々と答えた。
「私は所長の助手ですから」
「……それだけ?」
「それ以上でも、それ以下でもありません」
そう言いながら。
ほんの一瞬だけ。
リリスの目元が柔らかくなった。
ミレイアはそれを見逃さなかった。
「……あなたも嬉しいんですね」
「気のせいです」
「そうですか?」
「気のせいです」
「そういうことにしておきます」
セレネが小さく笑った。
その笑顔を見て。
リリスも、ごく僅かに口元を緩めた。
――その時だった。
遠くから、何かが近づいてくる音がする。
ガラガラガラ……。
「?」
全員が振り返った。
音は徐々に大きくなっていく。
そして。
森の向こうから一台の車が姿を現した。
ボンネットは大きくへこんでいる。
フロントガラスにはひびが入り。
片方のヘッドライトは完全に割れている。
車体には無数の擦り傷。
どう見ても、まともな運転をしてきた車ではない。
その車が、盛大な音を立てながら止まった。
ドアが開く。
「……」
所長が降りてきた。
全身、返り血まみれだった。
服にも血。
顔にも血。
腕にも血。
それなのに本人はまるで気にしていない。
煙草を一本咥える。
火をつける。
そして。
ミレイアたちへ向かって、軽く手を上げた。
「よお」
「…………」
「終わったか?」
ミレイアは無言で所長を見る。
「……何ですか、その格好」
「仕事着」
「車は?」
「ちょっとぶつかった」
「ちょっと?」
リリスが車を見る。
「所長」
「なんだ?」
「右側面が完全に潰れています」
「そうだな」
「屋根もへこんでます」
「そうだな」
「後部座席もありません」
「なくなったな」
「どうしてですか?」
「敵の車に突っ込んだ」
「…………」
リリスが深いため息をつく。
セレネが恐る恐る尋ねた。
「……あなたが、所長さんですか?」
「ああ」
所長は煙草を吸いながら答えた。
「よろしく」
「……」
セレネはミレイアを見る。
ミレイアは頭を抱えた。
「この人です」
「……なるほど」
「何がなるほどだ?」
「いえ……」
セレネは苦笑した。
「とても個性的な方ですね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてません」
リリスが即座に否定した。
「そうか」
所長は気にせず煙草を吸った。
*
その後。
一行は安全な場所へ移動し、セレネから改めてカルテルについての情報を聞き出した。
生産拠点。
精製施設。
輸送ルート。
魔族側の港。
それぞれについて分かっている範囲で情報を整理していく。
「カルテルの上層部がどこにいるかは?」
ミレイアが尋ねる。
「私には分かりません」
セレネは首を振った。
「農場を管理していた者たちも、上層部と直接会うことはありませんでした」
「徹底していますね」
リリスが呟く。
「ええ」
セレネが答える。
「私たちは、ただ原材料を作らされていただけです」
所長は煙草を吸いながら地図を眺めていた。
「つまり、まだ本丸には届いてない」
「そうなります」
「まあいい」
所長は地図を畳む。
「今回の目的は人質の救出だ」
「はい」
「それが終わったなら十分だ」
ミレイアはセレネを見る。
「これから、どうしますか?」
「まずは仲間を安全な場所へ」
セレネが答える。
「それから……国へ戻ります」
「そうですね」
ミレイアも頷いた。
ようやく。
長い間離れていた故郷へ帰れる。
そのことを考えたミレイアの表情は、少しだけ穏やかだった。
そして。
「所長」
「なんだ?」
「私も、一度実家へ戻ります」
「そうか」
「父に報告しなければいけません」
「ああ」
所長は何でもないように返事をした。
だが。
少し考えて。
「じゃあ、俺も行くか」
「……え?」
「父親に挨拶しないとな」
「…………」
ミレイアが固まる。
リリスも一瞬だけ所長を見る。
「所長」
「なんだ?」
「それは……」
「何だ?」
「分かって言っていますか?」
「もちろん」
所長はニヤニヤする。
「娘さんをください、ってやつだろ?」
「違います!」
ミレイアが即座に叫んだ。
「私はそんな話を一度もしていません!」
「検問で言っただろ」
「あなたが勝手に言ったんでしょう!」
「まあ細かいことはいい」
「よくありません!」
セレネが困ったように笑う。
リリスは無表情のまま所長を見る。
「……本当に行くんですか?」
「ああ」
「なぜです?」
「面白そうだから」
「…………」
リリスは何も言わなかった。
ただ。
所長の袖を掴んだ。
「痛い」
「知りません」
「なんでだよ」
「知りません」
*
こうして。
一行はミレイアの故郷へ向かった。
ミレイアの実家。
そこは、共和国の中でも由緒ある家だった。
門をくぐった瞬間。
ミレイアの表情が少し硬くなる。
「……父は厳しい人です」
「そうか」
「失礼なことは言わないでください」
「努力する」
「本当に?」
「たぶん」
「不安しかありません」
屋敷へ入る。
そして。
父親との対面。
所長は妙に姿勢を正した。
「初めまして」
ミレイアの父親が所長を見る。
「……」
「私は娘さんの――」
「所長」
ミレイアが小声で止める。
「なんだ?」
「余計なことを言わないでください」
「分かった」
所長は頷く。
「私は娘さんの将来を――」
「所長!」
「冗談だ」
ミレイアの父親が目を細める。
「……話は聞いている」
「何を?」
「共和国での騒動も」
ミレイアの顔が引きつる。
「……」
父親は続ける。
「そして、国境での一件も」
ミレイアが顔を覆った。
「もう広まってる……」
所長は笑いを堪えながら肩を震わせる。
「お前、人気者だな」
「誰のせいですか!」
「俺だな」
「自覚してるなら謝ってください!」
「嫌だ」
父親が咳払いをした。
「……二人とも」
「はい」
「少し静かにしなさい」
「申し訳ありません」
ミレイアが頭を下げる。
所長は横でニヤニヤしていた。
*
実家での報告と挨拶を終え。
いよいよ帰国の準備となった。
その夜。
宿の部屋。
所長は一人で窓際に立っていた。
ミレイアとセレネは別室。
リリスも別の部屋で荷物を整理している。
所長は懐から小さな携帯電話を取り出した。
「……」
周囲を確認する。
誰もいない。
番号を入力する。
しばらく呼び出し音が鳴った。
『……誰だ?』
「俺だ」
『所長か?』
「ああ」
『何の用だ』
「ちょっと商売の話がある」
『商売?』
「原材料を売る」
電話の向こうが沈黙した。
『……まだ持っていたのか?』
「多少な」
『いくらだ?』
「一箱百ゴールド」
『高いな』
「嫌ならいい」
『待て』
即答だった。
所長はニヤリと笑う。
「じゃあ買え」
『……何箱ある?』
「お前らが欲しいだけ」
『……』
「ただし、受け渡しはこっそりやる」
『分かった』
「共和国を出る前に場所を指定する」
『了解した』
所長は電話を切る。
「……さて」
そして。
もう一度、懐から別の紙を取り出した。
カルテルが使っていた密輸ルート。
それを見ながら、所長は考える。
「これも売れるな」
*
翌日。
一行が共和国を出る準備をしている間。
所長だけが少し姿を消した。
「所長は?」
ミレイアが尋ねる。
リリスは即答した。
「知りません」
「……」
「たぶん、ろくでもないことをしています」
「でしょうね」
セレネも苦笑する。
しばらくして。
「お待たせ」
所長が戻ってきた。
「どこへ行っていたんですか?」
リリスが聞く。
「ちょっと買い物」
「何を?」
「秘密」
「……」
リリスは目を細める。
「嫌な予感しかしません」
「気のせいだ」
「所長の『気のせい』は信用できません」
「そうか」
所長は笑った。
もちろん。
その時点では。
誰も知らなかった。
所長が共和国を出る前に、マフィアへ原材料を一箱百ゴールドで売却したことも。
カルテルが使っていた密輸ルートを、そっくりそのまま渡したことも。
すべて。
所長がこっそり済ませていた。
*
そして。
国境。
検問を抜ける。
ミレイアは最後に一度だけ、リュネリア共和国を振り返った。
「……」
セレネが隣に立つ。
「寂しい?」
「少しだけ」
「また来ればいい」
「そうですね」
リリスが車へ乗り込む。
「所長、出発しますよ」
「ああ」
所長が運転席へ座る。
煙草を咥える。
エンジンをかける。
車がゆっくりと走り出した。
「……」
誰もいなくなった国境を見ながら。
ミレイアは小さく息を吐いた。
「ようやく帰れる」
所長は前を向いたまま言った。
「帰ったら仕事だぞ」
「……」
「何だ?」
「せめて今日は休ませてください」
「無理だな」
「なぜです?」
所長はニヤリと笑った。
「リリスが帳簿をつけるからだ」
「……所長」
リリスの声が冷たい。
「はい」
「帰ったら、まず何をしたのか全部説明してください」
「……」
「全部です」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「所長」
「はい」
「私は本気ですよ」
「……はい」
車内に静寂が落ちる。
そして。
しばらくして。
リリスが小さく呟いた。
「……でも」
「ん?」
「帰ってこられて、よかったです」
所長は前を向いたまま。
「……ああ」
短く答えた。
窓の外を、リュネリア共和国の景色が遠ざかっていく。
セレネは故郷へ帰る。
ミレイアもまた、日常へ戻る。
リリスは事務所へ戻れば大量の帳簿と格闘することになる。
そして所長は。
――こっそり売った原材料の代金を、どう帳簿に書くか考えていた。
「……」
所長が煙草を吸う。
「どうしたんです?」
リリスが尋ねる。
「いや」
所長は少し考えて。
「帳簿って、多少なら誤差があってもいいよな?」
「ダメです」
「即答かよ」
「ダメです」
「……」
所長は諦めたように前を向く。
こうして。
一行は、人間の国へ帰っていった。
そして共和国に残されたのは。
解放されたエルフたち。
崩壊したカルテルの農場。
そして――。
新しい密輸ルートを手に入れたマフィアだった。