第三十六話 やり残し
最後の一人が坑道から這い出した。
地上へ出た瞬間、全員がしばらく動けなかった。
長い地下道を這ってきた疲労。
崩落の轟音。
そして、いつ崩れてくるか分からない恐怖。
それらからようやく解放されたのだ。
「……」
リリスは息を整えながら、周囲を見回した。
「全員いますか?」
ドワーフたちが人数を確認する。
「こちらは全員いる!」
「こっちもだ!」
「怪我人は?」
「軽傷が数名。大きな怪我はない!」
「人質は?」
「全員いる!」
その言葉が出た瞬間。
一人の人質が、その場に座り込んだ。
「……助かった」
小さな声だった。
だが。
それを聞いた別の人間が、震える声で続ける。
「俺たち……助かったのか?」
「ああ」
「もう……戻らなくていいのか?」
「もう終わった」
その瞬間。
一人のエルフが泣き出した。
「……よかった」
それを見ていた別の者も。
目を押さえる。
「家に帰れる……」
「本当に……?」
「もう誰にも働かされないんだ……」
抱き合う者。
肩を叩き合う者。
その場に座り込んで泣く者。
長い間、カルテルに拘束されていた人々が。
ようやく自由になったことを実感し始めていた。
その中には、精製設備に関わっていたドワーフの技術者たちもいた。
彼らは崩壊した施設を見つめている。
巨大な建物。
自分たちの技術を利用して作られた精製設備。
それが今では、瓦礫の山だ。
「……終わったんだな」
一人が呟いた。
「ああ」
隣の仲間が答える。
「もう、あんな場所で働かなくていい」
「俺たちの技術が……あんなものに使われていた」
技術者は拳を握った。
「……ずっと、嫌だったんだ」
涙を拭う。
「でも、家族を人質に取られていた」
「分かっている」
「逃げることもできなかった」
「もういい」
仲間が肩を叩く。
「終わったんだ」
技術者は。
何度も頷いた。
「……ああ」
周囲では、人質たちが互いに喜びを分かち合っている。
その光景を。
リリスは静かに見ていた。
鉄仮面のような普段の表情も。
ほんの少しだけ柔らかくなっている。
「……よかった」
小さく呟いた。
だが。
「……」
ふと。
リリスは気づいた。
「……所長は?」
周囲を見回す。
いない。
「所長?」
返事がない。
「所長!」
少し離れた場所。
瓦礫の向こう。
巨大なオーガが立っていた。
所長は崩壊した施設を眺めている。
「……」
「所長!」
リリスが呼ぶ。
所長が振り返った。
「ああ」
「何をしているんです?」
「考えてる」
「何を?」
所長は施設を指差した。
「やり残しがある」
「……え?」
「ちょっと戻ってくる」
「戻る?」
「施設に」
リリスの顔が引きつる。
「もう崩壊していますよ?」
「だからだ」
「何をするんですか?」
所長は煙草を咥える。
「掃除だ」
「……」
リリスは頭を抱えた。
「所長の言う『掃除』ほど信用できない言葉はありませんね」
「すぐ戻る」
「危険ですよ」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ」
所長は手を上げる。
「先に行ってろ」
そう言うと。
巨大なオーガは。
一人で崩壊した施設へ戻っていった。
*
正門。
先ほど所長が真正面から破壊した鉄門は、見るも無惨な姿になっていた。
巨大な鉄板が歪み。
蝶番も外れ。
片側が大きく傾いている。
所長はそれを見て。
「……」
少し考える。
「これじゃ誰でも入れるな」
自分で壊したことを完全に棚に上げて。
所長は門へ手を掛けた。
「よっと」
ギギギギギ……。
鉄が悲鳴を上げる。
所長が力を込める。
歪んでいた門が。
少しずつ元の形へ戻っていく。
「もうちょい」
さらに力を込める。
ガキンッ!
鉄門が大きく軋んだ。
そして。
「よし」
元の位置へ戻った。
だが。
「鍵がねえな」
所長は周囲を探す。
適当な鉄片を拾うと。
門の機構へ無理やり差し込んだ。
「これでいい」
ガチャリ。
門が固定された。
外側からは簡単には開けられない。
「誰も入れねえな」
満足そうに頷く。
そして。
施設内部へ進んでいく。
*
瓦礫の中。
「う……」
かすかな声。
所長が足を止める。
カルテル兵だった。
崩壊から生き残っていたらしい。
兵士は所長を見上げる。
「お前……」
所長は無言で見下ろす。
「黒……鷲……」
「その名前を口にするな」
「……」
「お前らが見たのは黒鷲騎士団だ」
男は意味が分からないという顔をした。
だが。
所長はそれ以上説明しなかった。
今回の襲撃について。
カルテルに残す情報は一つだけ。
黒鷲騎士団が襲撃した。
それだけだ。
生き残った者がいれば。
余計な情報を話す。
所長は。
それを許さなかった。
瓦礫の中をさらに進む。
別の場所。
そこにも生存者がいた。
所長は一人ずつ確認していく。
そして。
施設の中から。
外へ戻れる者を残さない。
やがて。
静かになった。
「……」
所長は煙草に火をつける。
「これでいい」
*
次に。
所長は施設内を歩き回る。
「さて」
目についたものを確認する。
カルテルの紋章。
帳簿。
連絡記録。
人員名簿。
取引記録。
運搬経路。
施設の設計図。
精製設備に関する資料。
「……」
所長の目が細くなる。
「これは使えるな」
資料をまとめる。
「こっちは警察向け」
別の資料。
「こっちは……」
少し考える。
「マフィア向けだな」
さらに奥へ進む。
武器庫。
そこには大量の銃火器が並んでいた。
「……」
所長が無言になる。
目が輝いた。
「これはいい」
拳銃。
ライフル。
弾薬。
予備部品。
ナイフ。
軍用装備。
使えそうなものを次々と回収していく。
「これは使える」
銃を一丁。
「これも」
もう一丁。
「弾もいるな」
弾薬箱。
そして。
「……」
金庫を見つける。
「金か?」
所長は金庫を開けた。
中には。
大量の金貨。
「……」
しばらく沈黙。
そして。
「掃除に来て正解だったな」
金貨を袋へ詰める。
さらに。
カルテルの証拠となる書類を回収する。
ただし。
黒鷲騎士団に繋がるものは残さない。
使用した弾薬。
装備。
痕跡。
その他の証拠。
所長は可能な限り消していく。
今回の襲撃が。
黒鷲騎士団によるものだと断定できる証拠を。
残さない。
「……」
最後に。
所長は施設中央へ戻る。
そこで。
自分が使っていた鉄柱を発見した。
少し曲がっている。
「お前も持って帰るか」
鉄柱を拾う。
肩に担ぐ。
さらに。
使えそうな武器。
金貨。
資料。
そして。
一台の通信機を拾う。
電源を確認する。
「まだ生きてるな」
所長は通信機をポケットへ入れた。
「これも使える」
これで。
やり残したことはほぼ終わった。
所長は崩壊した施設を最後に見回す。
「……」
もう。
ここからカルテルが何かを回収することは難しい。
黒鷲騎士団の痕跡もほとんどない。
人質も救出した。
精製設備も潰した。
十分だ。
「帰るか」
*
外。
リリスたちは。
人質たちと一緒に所長を待っていた。
「……遅いですね」
一人のドワーフが言う。
「いつものことです」
リリスはため息を吐く。
「所長は仕事が終わったと思ってからが長いんですよ」
「そうなのか」
「ええ」
「何をしているんだ?」
「たぶん」
リリスは施設を見る。
「何か拾ってます」
「……」
「武器とか」
「……」
「金とか」
「……」
ドワーフは苦笑する。
「本当に探偵なのか?」
「私も時々分からなくなります」
その時。
瓦礫の向こうから。
ズシン。
ズシン。
足音が響いてきた。
リリスが振り返る。
「……来ました」
巨大なオーガが姿を現した。
肩には二メートル近い鉄柱。
背中には大量の銃火器。
手には金貨の入った袋。
そして。
脇には大量の書類。
「……」
リリスは。
無言で所長を見る。
「所長」
「なんだ?」
「何をしてきたんですか?」
「掃除」
「……」
「ちゃんと綺麗にしてきたぞ」
リリスは深いため息を吐いた。
「その言葉の意味を、いつか普通の意味にしてください」
「無理だな」
所長は平然と答える。
そして。
回収した資料を眺める。
「さて」
「はい?」
「これ」
所長は書類を軽く叩いた。
「売れるかな」
「……情報のことですか?」
「ああ」
「マフィアに?」
「他に誰がいる?」
「人質を助けて、施設を潰して、そのうえ情報まで売るんですか?」
「情報はタダじゃねえだろ」
「まあ……そうですが」
所長はニヤリと笑う。
「せっかく手に入れたんだ」
資料を懐へしまう。
「有効に使わねえとな」
「本当に抜け目がないですね」
「褒め言葉か?」
「いいえ」
「そうか」
所長は気にした様子もなく煙草を吹かす。
そして。
「帰るぞ」
歩き出した。
リリスも後を追う。
「王族への報告がありますからね」
「ああ」
「今回の作戦についても説明しないと」
「分かってる」
「それから、回収した資料についても整理を――」
「その前に酒だな」
「……」
「飲みてえ」
「はいはい」
リリスは呆れながらも歩調を合わせる。
その後ろでは。
救出された人質たちが。
互いに喜びを分かち合っていた。
泣きながら抱き合う者。
仲間の無事を確認する者。
長い拘束から解放され。
ようやく笑顔を取り戻した者。
そして。
そのさらに向こう。
崩壊した地下施設は。
静かに土煙を上げていた。
精製設備は完全に破壊された。
人質は全員解放された。
カルテルの兵士も。
黒鷲騎士団の痕跡も。
ほとんど残っていない。
残ったのは。
崩壊した施設と。
カルテルの大量の証拠。
そして。
所長が持ち帰った大量の武器と金。
最後に。
その情報をどう金に換えるか考えている。
そんな。
いつも通りの所長だった。