第三十九話 魔界からの依頼
所長は、机の上に置かれた手紙を眺めていた。
白い封筒。
上質な紙。
そして封蝋には、魔界のとある貴族家の紋章が刻まれている。
「……」
所長は煙草を咥えたまま、しばらく手紙を睨んでいた。
「所長」
「なんだ?」
「開けないんですか?」
「面倒くせえ」
「依頼の手紙ですよ」
「だから面倒なんだ」
「……」
リリスは無表情のまま所長を見る。
所長はしばらく悩んだ末、ようやく手紙を手に取った。
「まあ、読むだけ読んでみるか」
封蝋を指でへし折る。
中から一枚の便箋。
そしてもう一つ。
小さな革袋が出てきた。
「……金?」
所長が革袋を振る。
チャリン。
金貨の音が響く。
「手付金まで入ってやがる」
「かなり本気の依頼のようですね」
「そうかもな」
所長は便箋を開いた。
そこには簡潔な文章だけが記されていた。
――アストリア王国にて名を知られる探偵、所長殿。
――貴殿に依頼したき儀がある。
――詳細については、直接お会いした際に説明する。
――手付金として、指定の金額を同封する。
――魔界にある我が屋敷まで来られたい。
――依頼を受けるか否かは、話を聞いた上で判断されたし。
それだけだった。
依頼の内容は。
何一つ書かれていない。
「……」
所長は便箋を読み終える。
そして。
ぽいっ。
机の上へ放り投げた。
「面倒だな」
「……」
リリスが便箋を拾う。
「まだ依頼を受けるかどうかも決めていないでしょう」
「手付金は貰った」
「だからといって、内容も分からない依頼を受けるんですか?」
「受けるとは言ってねえ」
「では、なぜ手紙を投げるんですか」
「面倒だから」
「……」
リリスは呆れながら、依頼人の名前を確認する。
そこには。
貴族家の家名だけが書かれていた。
「……」
リリスの目が止まる。
「どうした?」
「この家名……」
リリスは、もう一度その文字を確認した。
忘れるはずのない名前だった。
ただし。
それだけでは確信できない。
「知ってるのか?」
「……はい」
リリスは静かに答えた。
「私の両親と同じ家名です」
「……」
所長がリリスを見る。
「親?」
「ですが、本人とは限りません」
「どういうことだ?」
「手紙には名前がありません」
「家名だけか」
「はい」
リリスは便箋を見つめる。
「ですから、両親本人なのか」
「それとも親戚なのか」
「あるいは、同じ家名を持つ別の一族なのか……」
「分からねえってことか」
「はい」
リリスは少しだけ目を伏せた。
「ただ……可能性はあります」
「……」
「私の両親とは、戦争の時に離れ離れになりました」
所長は黙って聞いていた。
「避難の途中でした」
「……」
「街が襲撃されて」
「人が一斉に逃げ始めて」
「その混乱の中で、両親とはぐれました」
リリスの声は淡々としていた。
だが。
その言葉の奥には、遠い記憶があった。
「私はまだ幼かったので、何が起きているのかも分かりませんでした」
「ただ逃げました」
「人の波に押されて」
「何度も転んで」
「それでも起き上がって」
「……」
所長は何も言わない。
「その後は、避難民の列からも外れてしまいました」
「気が付いた時には、周りに誰もいませんでした」
「食べる物もなく」
「安全な場所もなく」
「ただ、死にたくない一心で逃げていました」
そして。
その逃亡の先で。
一人の巨大なオーガと出会った。
「その時に」
リリスが所長を見る。
「所長と出会いました」
「……」
「軍事法廷から逃げてきたばかりだったそうですね」
「まあな」
「当時の私は、そんなことも知りませんでしたが」
「そりゃそうだ」
「所長に拾われて」
「それから……今まで」
リリスは静かに息を吐く。
「両親が生きているのか」
「亡くなったのか」
「それすら分からないままです」
所長はしばらく黙っていた。
やがて。
「なるほどな」
短く呟く。
「だから、この家名を見て気になったわけか」
「はい」
「でも、確証はない」
「ありません」
「親戚かもしれない」
「はい」
「他人かもしれねえ」
「その可能性もあります」
所長は手紙を見る。
「……」
しばらく考え。
そして。
「行くか」
リリスが顔を上げた。
「……よろしいんですか?」
「ああ」
「依頼内容も分かっていませんよ」
「手付金は貰った」
「それだけですか?」
「それに」
所長は肩をすくめる。
「お前が気になるなら、確認するくらいはしてやる」
「……」
「親なのか」
「親戚なのか」
「それとも全然関係ねえ奴なのか」
「行けば分かるだろ」
リリスはしばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
所長は立ち上がる。
「それより魔界だ」
「はい」
「昔の知り合いにも会えるかもしれねえ」
「軍人時代の方々ですか?」
「ああ」
所長は煙草を咥え直す。
「昔、裏取引をしてた連中がいる」
「カルテルについて何か知っている可能性が?」
「あるかもしれねえ」
「なるほど」
「せっかく魔界まで行くんだ」
所長がニヤリと笑う。
「ついでに聞いてみるか」
「……結局、そちらも目的なんですね」
「当然だろ」
「依頼が本題では?」
「それも本題だ」
「カルテルの情報収集は?」
「ついでだ」
「……」
リリスは呆れたようにため息を吐く。
「まあ、いいでしょう」
「よし」
所長は事務所の奥へ向かった。
「旅支度するぞ」
「はい」
「魔界じゃ武器は持ち込めねえからな」
「そうですね」
「拳銃も?」
「おそらく難しいでしょう」
「ライフルは?」
「論外です」
「鉈は?」
「絶対に駄目です」
「……」
所長は腕を組んだ。
「じゃあ酒だな」
「なぜそうなるんですか」
「武器が駄目なら仕方ねえだろ」
棚を開く。
酒瓶。
煙草。
さらに酒。
また煙草。
「……」
リリスは嫌な予感がした。
「所長」
「なんだ?」
「それは旅支度ではなく……」
「旅支度だ」
「ほとんど酒ですよ」
「タバコもある」
「そういう問題ではありません」
所長は酒瓶を次々と鞄へ詰めていく。
一つ。
二つ。
三つ。
そして煙草を何箱も押し込む。
「そんなに必要ですか?」
「必要だ」
「何日滞在するつもりです?」
「分からん」
「……」
「足りなくなるよりいいだろ」
「食料は?」
「現地で買う」
「衣類は?」
「最低限」
「……」
リリスは深いため息を吐いた。
だが。
所長はそんなことを気にしない。
鞄がパンパンになるまで酒と煙草を詰め込む。
「よし」
「……本当にこれで行くんですか?」
「ああ」
所長は鞄を担ぐ。
ずっしりとした音がする。
中で酒瓶がぶつかった。
「……」
リリスはその音を聞きながら、もう一度手紙を見る。
そこにあるのは。
自分の両親と同じ家名。
だが。
名前はない。
自分宛てでもない。
両親が自分の存在を知っているという証拠もない。
ただの偶然かもしれない。
それでも。
ほんのわずかな可能性がある。
もし。
本当に両親だったなら。
長い年月を隔てて。
もう一度会えるかもしれない。
だが。
同時に。
怖くもあった。
両親が自分を覚えているのか。
なぜ今まで生きていると知らせてくれなかったのか。
そもそも。
本当に生きているのか。
何一つ分からない。
「リリス」
「はい?」
「行くぞ」
「……はい」
「何をそんなに考えてる」
「いえ」
リリスは首を振る。
「少し緊張しているだけです」
「親かもしれねえんだろ?」
「……はい」
「なら、会ってから考えりゃいい」
「簡単に言いますね」
「簡単だろ」
「……」
所長は煙草を咥えた。
「それに」
「はい?」
「お前が何を言われようが」
「何を聞こうが」
「俺は俺だ」
「……」
「困ったら言え」
リリスは少しだけ目を見開いた。
「……はい」
「よし」
所長は事務所の扉を開ける。
「行くぞ」
「はい」
二人は事務所を後にした。
向かう先は魔界。
そこに待っているのは。
ただの依頼人なのか。
それとも。
長い戦争によって引き裂かれたリリスの家族なのか。
まだ何も分からない。
ただ一つ確かなのは。
依頼人がリリスの存在を知らないまま。
悪名高い探偵へ送った一通の依頼が。
長い年月を隔てた親子を。
再び同じ場所へ引き寄せようとしていることだった。