アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case40 黒き血を追え

第四十一話 黒き血の伯爵

 

 国境の検問を抜けてから、しばらく。

 

 一台の車が、魔界の街道を走っていた。

 

 運転しているのはリリス。

 

 助手席では、所長が相変わらず酒を飲んでいる。

 

「……なあ」

 

「なんです?」

 

「さっきの検問」

 

「はい」

 

「よく通れたな」

 

「……」

 

 リリスは前を向いたまま答える。

 

「正式な依頼状があったからでしょう」

 

「いや、それだけじゃねえだろ」

 

「何がです?」

 

「俺、指名手配犯なんだぞ」

 

「忘れていたのは所長でしょう」

 

「それはそうだが」

 

 所長は酒瓶を傾ける。

 

「魔族の兵士が、俺の顔を見た瞬間に銃を向けた」

 

「はい」

 

「なのに依頼状を見せたら、渋々とはいえ通した」

 

「……」

 

「結構な大物なんじゃねえのか?」

 

 リリスは少し考える。

 

「そうですね」

 

「やっぱりか」

 

「依頼主は伯爵です」

 

「……」

 

 所長の動きが止まった。

 

「伯爵?」

 

「はい」

 

「思ってたより上等な相手じゃねえか」

 

「そうでしょうね」

 

「おい」

 

「なんです?」

 

「俺、この格好でいいのか?」

 

 所長は自分の服を見る。

 

 使い古した外套。

 

 ところどころ傷んだシャツ。

 

 丈夫さだけを重視したズボン。

 

 そして。

 

 長年使い込まれたブーツ。

 

 探偵というより。

 

 どう見ても裏路地の用心棒だった。

 

「……」

 

 リリスはちらりと横を見る。

 

「今さらですか?」

 

「伯爵だろ?」

 

「そうですね」

 

「着替えた方がいいか?」

 

「当然です」

 

「やっぱりか」

 

「どんな依頼主であっても、最低限の身だしなみは整えてください」

 

「でもよ」

 

 所長は少し考える。

 

「もし、その伯爵が本当にお前の親だったら?」

 

「……」

 

 リリスの手がわずかに止まる。

 

「その場合は」

 

「そこまで気を遣わなくてもいいだろ?」

 

「まあ……」

 

 リリスは少しだけ考えた。

 

「もし本当に両親だったなら、確かにそうかもしれません」

 

「だろ?」

 

「ですが」

 

「ん?」

 

「依頼主が誰であろうと、格好には気を遣ってください」

 

「……」

 

「所長は普段から雑すぎます」

 

「俺はいつもこれだぞ」

 

「だからです」

 

「別に汚れてねえだろ」

 

「清潔かどうかだけの問題ではありません」

 

 リリスは淡々と言う。

 

「相手への敬意です」

 

「……」

 

「依頼人が伯爵ならなおさらです」

 

「面倒だな」

 

「所長」

 

「分かった分かった」

 

 所長は渋々、外套の襟を整えた。

 

 髪を手で撫でる。

 

 そして。

 

「これでいいか?」

 

「……」

 

 リリスは所長を見る。

 

「少しはマシです」

 

「少しだけかよ」

 

「はい」

 

「厳しいな」

 

「事実です」

 

 それからしばらく。

 

 二人は魔界の街道を進んだ。

 

 魔界側の景色は、これまで所長が見てきたどの国とも違っていた。

 

 黒い岩山。

 

 紫がかった草原。

 

 ところどころに赤い花を咲かせる奇妙な植物。

 

 遠くには煙を吐き続ける巨大な山々。

 

 街道沿いには魔族の集落が点在し、その間を商人や旅人の荷馬車が行き交っている。

 

 その中でも、妙に目につくものがあった。

 

 巨大な木樽を積んだ荷馬車だ。

 

 何台も連なっている。

 

「……酒か?」

 

 所長が荷馬車を目で追う。

 

「でしょうね」

 

「多くねえか?」

 

「この地域は酒造が盛んですから」

 

「へえ」

 

 リリスは少し考えた。

 

「今回の依頼主も、酒造に関わる貴族だと聞いたことがあります」

 

「そうなのか?」

 

「魔界ではかなり珍しいですよ。貴族が大規模な酒造業を営むのは」

 

「ほう」

 

「特に有名なのが――」

 

 リリスが言いかけたところで。

 

 所長が先に答えた。

 

「黒き血」

 

「……知ってるんですか?」

 

「酒場で聞いた」

 

「いつの間に」

 

「魔界に入った時から気になってた」

 

「それ、国境を越えた直後ですよね?」

 

「だから早めに聞いた」

 

「……」

 

 リリスは呆れた。

 

「『黒き血』は、この地域の伯爵家が作っている黒ビールです」

 

「どれくらい有名なんだ?」

 

「魔界では知らない者の方が少ないと言われるほどです」

 

「へえ」

 

「魔族の酒造家としては唯一、大規模な醸造所を持っている家です」

 

「なるほど」

 

 所長は顎に手を当てる。

 

「……飲んでみてえな」

 

「依頼が先です」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「……」

 

 リリスがため息をつく。

 

 その時だった。

 

「見えてきました」

 

 リリスが前方を指差す。

 

 街道の先。

 

 巨大な黒い鉄門が見えていた。

 

 その向こうには広大な敷地。

 

 さらにその奥。

 

 小さな城と見間違えるほど巨大な屋敷が建っている。

 

「……でけえな」

 

 所長が呟いた。

 

 屋敷は黒い石材を基調とした三階建て。

 

 中央には尖塔。

 

 左右には翼のように建物が広がっている。

 

 屋根には魔族らしい鋭角的な装飾が施され、正面玄関へと続く長い階段の両脇には、巨大な魔獣の石像が置かれていた。

 

 広大な庭園には黒い葉を持つ木々や、紫、青、赤といった色鮮やかな花々が植えられている。

 

 しかし。

 

 所長がもっとも興味を示したのは屋敷そのものではなかった。

 

 敷地の奥。

 

 いくつもの巨大な建物が並んでいる。

 

 そこから煙が上がっている。

 

 巨大な煙突。

 

 無数の樽。

 

 荷馬車。

 

 そして醸造所。

 

「……あれか?」

 

「そうでしょうね」

 

「でかいな」

 

「当家の醸造施設でしょう」

 

「黒き血を作ってるのか」

 

「はい」

 

 所長はしばらく眺めていた。

 

「……帰りに買えるかな」

 

「依頼主に頼めばいいでしょう」

 

「お前、珍しく気が利くな」

 

「私が飲みたいわけではありません」

 

「俺のためか?」

 

「……さあ」

 

 車が門を抜ける。

 

 敷地内へ入ると、使用人が何人か待っていた。

 

 車を停める。

 

 リリスが先に降りる。

 

 続いて所長も降りた。

 

 使用人の一人が所長を見上げる。

 

「……」

 

 明らかに困惑している。

 

 無理もない。

 

 二メートルを優に超えるオーガ。

 

 分厚い肩。

 

 太い腕。

 

 使い込まれた服。

 

 そして。

 

 どこか野蛮な雰囲気。

 

「……こちらへ」

 

 使用人は何とか表情を取り繕い、二人を案内する。

 

 屋敷の中も壮観だった。

 

 玄関ホールには巨大なシャンデリア。

 

 床には深紅の絨毯。

 

 壁には歴代当主らしき肖像画。

 

 銀細工の燭台。

 

 大きな暖炉。

 

 壁際には黒い液体が入った瓶が何本も並べられている。

 

 瓶には。

 

 『黒き血』

 

 と刻まれていた。

 

 所長の足が止まる。

 

「……」

 

「所長?」

 

「いや」

 

 所長は瓶を眺める。

 

「本当にあるんだな」

 

「何がです?」

 

「黒き血」

 

「だから言ったでしょう」

 

「ちょっと欲しい」

 

「帰りにしてください」

 

「分かった」

 

 二人は再び歩き出した。

 

 長い廊下を抜ける。

 

 壁には古い武具や魔族の歴史を描いた絵画。

 

 窓からは広大な庭園と、その向こうにある醸造施設が見える。

 

 所長は明らかに落ち着かなかった。

 

 リリスが小声で尋ねる。

 

「緊張していますか?」

 

「してねえ」

 

「そうですか?」

 

「こういう場所が苦手なんだよ」

 

「所長にも苦手なものがあったんですね」

 

「あるわ」

 

「意外です」

 

「俺だって人間だぞ」

 

「オーガですが」

 

「細けえな」

 

 やがて。

 

 二人は大きな扉の前へ案内された。

 

「こちらでお待ちください」

 

 使用人が扉を叩く。

 

「伯爵様。お客様をお連れしました」

 

「入れ」

 

 低い声が返ってきた。

 

 扉が開く。

 

 所長が中へ入る。

 

 その瞬間。

 

 後ろにいたリリスの姿が。

 

 ほとんど完全に隠れた。

 

 応接室の奥。

 

 一人の魔族の男が立っていた。

 

 五十代ほど。

 

 黒髪には白いものが混じり、額からは立派な角が伸びている。

 

 黒い礼服。

 

 胸元には伯爵家の紋章。

 

 その隣には一人の女性。

 

 黒い長髪。

 

 上品なドレス。

 

 気品のある立ち姿。

 

 二人は。

 

 まず所長だけを見た。

 

「……」

 

「……」

 

 伯爵の眉がわずかに動く。

 

 夫人も同じだった。

 

 明らかに。

 

 あまり歓迎していない。

 

「……あなたが」

 

 伯爵が言った。

 

「今回の依頼を受けた探偵か?」

 

「ああ」

 

 所長は平然と答える。

 

「俺が所長だ」

 

「……」

 

 伯爵は所長をじっと見る。

 

 夫人も。

 

 明らかに戸惑っていた。

 

 そして。

 

 夫人が小さく呟く。

 

「……随分と」

 

 そこで言葉を止める。

 

 所長が眉を上げた。

 

「何だ?」

 

「いえ……」

 

 夫人は言葉を濁した。

 

 どう見ても。

 

 貴族の屋敷に呼ぶような人物には見えない。

 

 粗野。

 

 無骨。

 

 そして。

 

 野蛮そう。

 

 そんな印象を抱くのも無理はなかった。

 

 伯爵も少し困ったように息を吐く。

 

「噂では聞いていましたが」

 

「何を?」

 

「荒事専門の探偵だと」

 

「そうだ」

 

「……なるほど」

 

 所長は特に気にしていない。

 

 しかし。

 

 夫人は。

 

 どこか落ち着かない。

 

 何かを言おうとして。

 

 その視線が。

 

 ふと。

 

 所長の肩越しへ向いた。

 

「……?」

 

 ほんの少し。

 

 黒い髪が見えた。

 

 眼鏡。

 

 女性。

 

 夫人の目が。

 

 止まる。

 

「あなた……」

 

 伯爵が振り返る。

 

「どうした?」

 

 夫人は答えない。

 

 ただ。

 

 所長の後ろを見つめている。

 

 伯爵も。

 

 ゆっくりと視線を移した。

 

 そこで。

 

 所長が少し横へ動いた。

 

「……」

 

 隠れていたリリスの姿が。

 

 初めて。

 

 二人の前に現れた。

 

「……」

 

 伯爵の顔から。

 

 表情が消えた。

 

 夫人も。

 

 息を呑む。

 

 リリスは。

 

 目の前の二人を見つめている。

 

 記憶の中に残る姿とは違う。

 

 当然だ。

 

 あれから長い年月が経っている。

 

 髪には白いものが混じっている。

 

 顔にも歳月が刻まれている。

 

 それでも。

 

 分かった。

 

 目の前にいるのは。

 

 自分が幼い頃に見ていた二人だった。

 

 リリスの唇が震える。

 

「……」

 

 伯爵の声が。

 

 震えた。

 

「……リリス?」

 

 その名前を聞いた瞬間。

 

 リリスの目が大きく揺れた。

 

 そして。

 

 小さく。

 

 震える声で。

 

「……お父様」

 

 夫人が。

 

 口元を押さえた。

 

「……リリス……?」

 

「……お母様」

 

 誰も。

 

 しばらく言葉を発することができなかった。

 

 伯爵は。

 

 何度もリリスの顔を見る。

 

 信じられない。

 

 そう顔に書いてある。

 

「生きて……いたのか」

 

「はい」

 

「……」

 

「私は……」

 

 リリスは言葉を探す。

 

「ずっと、生きていました」

 

 夫人の目から涙が落ちる。

 

 伯爵も。

 

 拳を強く握った。

 

「……何年だ」

 

「分かりません」

 

「どこにいた?」

 

「……」

 

 リリスは。

 

 隣に立つ所長を見る。

 

 所長は何も言わない。

 

 ただ。

 

 いつものように腕を組んでいる。

 

 リリスは再び両親を見る。

 

「戦争の時」

 

「避難している途中で、家族とはぐれました」

 

「その後……」

 

 少しだけ。

 

 声が震えた。

 

「一人で逃げていたところを」

 

「この人に拾われました」

 

 伯爵夫妻の視線が。

 

 所長へ向く。

 

「……」

 

 所長は肩をすくめた。

 

「拾っただけだ」

 

「……」

 

「死にそうだったからな」

 

 伯爵は。

 

 ゆっくりと所長を見る。

 

 先ほどまであった警戒。

 

 野蛮そうだという印象。

 

 そんなものが。

 

 少しずつ消えていく。

 

「……あなたが」

 

「まあな」

 

「娘を……」

 

「育てた?」

 

「はい」

 

 リリスが答えた。

 

 伯爵は。

 

 深く頭を下げた。

 

「……感謝します」

 

「いい」

 

「しかし」

 

「本当にいい」

 

 所長は困ったように頭を掻く。

 

「俺はあいつを拾っただけだ」

 

「それでも」

 

 伯爵は顔を上げる。

 

「娘が生きている」

 

「それだけで十分です」

 

 リリスの目に。

 

 少しだけ涙が浮かぶ。

 

 所長はそんな二人を見て。

 

 気まずそうに視線を逸らした。

 

「……まあ」

 

 そして。

 

「依頼の話は後でいいか?」

 

 リリスが所長を見る。

 

「所長?」

 

「せっかく再会したんだ」

 

 所長は部屋を見回す。

 

 そして。

 

 壁際に置かれていた一本の瓶を見る。

 

「それより」

 

「……」

 

「黒き血って」

 

 所長の目が輝いた。

 

「飲めるのか?」

 

「……」

 

 リリスは額に手を当てる。

 

「所長……」

 

 伯爵夫人が。

 

 涙を拭きながら。

 

 思わず笑った。

 

「ふふ……」

 

 伯爵も。

 

 小さく笑う。

 

「ええ」

 

「もちろんです」

 

「では」

 

 所長は満面の笑みを浮かべた。

 

「話が早い」

 

 リリスは呆れながらも。

 

 ほんの少しだけ笑った。

 

 長い年月を越えた再会。

 

 それは。

 

 所長の酒好きという。

 

 どうしようもなくいつもの一面によって。

 

 少しずつ。

 

 いつもの空気へと戻っていった。

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