第四十二話 黒き血
応接室には、静かな時間が流れていた。
先ほどまで張り詰めていた空気は、少しずつ柔らかくなっている。
長い年月を経て、ようやく再会した親子。
伯爵と夫人は、目の前にいるリリスから視線を離せずにいた。
何度も顔を確かめる。
声を聞く。
仕草を見る。
それでも、まだ信じられない。
そんな二人を眺めながら。
所長は少し離れたところに立っていた。
そして。
壁際に置かれていた黒い瓶へ視線を向ける。
瓶には。
『黒き血』
と刻まれている。
「……なあ」
所長が口を開いた。
伯爵が振り向く。
「何でしょう?」
「あれ」
所長が瓶を指差す。
「黒き血だろ?」
「ええ」
「飲んでいいか?」
リリスが呆れたように所長を見る。
「所長……」
「家族の再会を邪魔するつもりはねえ」
「……」
「だから端っこで飲んでる」
伯爵と夫人が顔を見合わせる。
やがて。
夫人が小さく笑った。
「もちろんです」
「ありがとうございます」
所長は素直に頭を下げた。
「じゃあ遠慮なく」
近くにいた女中へ声をかける。
「悪いが、これを一杯」
「はい」
「あと、なくなったら次を頼む」
「……はい?」
「次々持ってきてくれ」
「かしこまりました」
女中が黒き血を注いだグラスを渡す。
所長はそれを受け取ると、部屋の隅に置かれた椅子へ座った。
そして。
まず香りを嗅いだ。
「……」
一口。
舌の上でゆっくりと味を確かめる。
苦味。
香ばしさ。
麦の甘み。
そして。
後から残る深いコク。
「……上等だな」
小さく呟く。
そしてもう一口。
今度は少し大きく。
「うまい」
それだけ言うと。
所長は親子の会話へ一切口を挟まなくなった。
女中が空になったグラスを見つける。
「おかわりはいかがでしょう?」
「頼む」
「かしこまりました」
新しいグラスが置かれる。
所長はまた飲む。
そして。
親子の会話が続いている間に。
また一杯。
また一杯。
黒き血は凄まじい速度で減っていった。
しかし。
所長は騒がない。
酔って絡むこともない。
ただ静かに。
味を確かめながら飲んでいる。
その一方で。
リリスは両親と向き合っていた。
「……戦争が始まった時」
伯爵が静かに話し始める。
「我々は、お前を連れて避難するつもりだった」
「はい」
「だが、途中で魔族領内への攻撃が始まった」
「……」
「人の流れが一気に崩れた」
夫人が続ける。
「あなたの手を握っていたの」
「ずっと」
「でも」
夫人の声が震える。
「一瞬だけ手を離してしまった」
「その後」
「どれだけ探しても、見つからなかった」
リリスは黙って聞いている。
「私たちは戻ろうとした」
伯爵が言う。
「だが、戦場になっていた」
「戻ることすらできなかった」
「……」
「戦争が終わってからも探した」
「何年も」
「あなたが生きている可能性が少しでもあるなら」
伯爵の拳がわずかに震える。
「探し続けた」
リリスは俯いた。
「私も」
「……」
「お二人が生きていると思っていました」
夫人が顔を上げる。
「ずっと?」
「はい」
「でも」
リリスは少しだけ苦笑する。
「見つかりませんでした」
伯爵夫妻の目に涙が浮かぶ。
「私も」
リリスは続ける。
「戦争の途中で一人になりました」
「避難している途中で道を外れて」
「何日も逃げ続けました」
「食べるものもなくて」
「眠る場所もありませんでした」
夫人が胸元を押さえる。
「そんな……」
「その時です」
リリスは。
部屋の隅を見る。
所長は黒き血を飲んでいる。
こちらを見ていない。
「所長と出会ったのは」
「……」
「最初は怖かったです」
リリスは少し笑った。
「ものすごく大きかったですし」
所長がグラスを置く。
「おい」
「事実でしょう」
「そうだが」
「それに」
リリスは続ける。
「とても乱暴そうでした」
「おい」
「実際、乱暴でしたし」
「……」
伯爵夫人が思わず笑う。
「でも」
リリスの表情が柔らかくなる。
「助けてくれました」
「食事をくれて」
「眠る場所をくれて」
「何も聞かずに面倒を見てくれました」
「その後」
「私は事務所で働くようになりました」
伯爵が所長を見る。
「……あなたが」
「まあな」
所長は黒き血を飲みながら答えた。
「娘を育ててくれたのですね」
「育てたってほどじゃねえ」
「……」
「勝手に育った」
リリスが苦笑する。
「そういう言い方をするんです」
「事実だろ」
「違います」
「何が?」
「所長が色々教えてくれました」
「……」
「仕事も」
「世の中のことも」
「自分で生きる方法も」
伯爵夫妻は。
静かに聞いていた。
そして。
夫人がリリスの手を握る。
「……苦労したのね」
「はい」
「でも」
夫人は微笑む。
「立派になったわ」
「……」
リリスの目から。
一筋の涙が落ちた。
「ありがとうございます」
伯爵も。
静かに頷く。
「本当に」
「生きていてくれてよかった」
「……はい」
三人は。
しばらく何も言わなかった。
ただ。
互いの手を握っていた。
失われた年月。
知らなかった時間。
それを一つずつ埋めるように。
話は続いた。
幼い頃の思い出。
好きだった食べ物。
家の庭にあった木。
母親に叱られたこと。
父親と出かけた日のこと。
小さな思い出を語るたび。
笑顔が増えていく。
そして。
その間。
所長はずっと壁際にいた。
黒き血を飲んでいた。
女中が瓶を一本置く。
また一本。
また一本。
「……」
リリスが一度だけ振り返る。
所長の周囲には。
いつの間にか空瓶が並んでいた。
「……所長」
「ん?」
「飲みすぎでは?」
「うまいぞ」
「そういう話ではありません」
「まだ大丈夫だ」
「何を基準に?」
「俺」
「基準になりません」
所長は。
気にせずグラスを傾ける。
「黒き血」
「はい?」
「気に入った」
「……そうですか」
「帰りに買って帰ろう」
「好きにしてください」
「何本?」
「知りません」
「じゃあ全部」
「やめてください」
そんなやり取りをしながらも。
リリスは少し嬉しそうだった。
家族と再会できた。
そして。
隣には。
昔から変わらない所長がいる。
それだけで。
今は十分だった。
やがて。
親子の話が一段落する。
伯爵はリリスを見つめ。
「……本当に帰ってきてくれたのだな」
「はい」
リリスが頷く。
夫人も笑う。
「これからは、ゆっくり話しましょう」
「はい」
暖かな空気が。
部屋を包む。
所長は。
最後の一口を飲んだ。
グラスを置く。
そして。
しばらく。
何かを考えているようだった。
リリスがそれに気づく。
「どうしました?」
「……いや」
所長は立ち上がる。
巨大な身体をゆっくりと動かす。
そして。
伯爵を見る。
「伯爵」
「はい?」
「娘さんをください」
――応接室が。
完全に静まり返った。