第四十三話 婿入りの条件
「娘さんをください」
その一言が。
応接室に落ちた。
「…………」
伯爵は固まった。
夫人も。
リリスも。
女中も。
誰一人として、すぐには言葉を返せなかった。
ただ一人。
所長だけが平然としている。
しかも、かなり酔っている。
「……所長」
最初に口を開いたのはリリスだった。
「はい?」
「今、何と言いました?」
「娘さんをください」
「聞こえていました」
「じゃあ問題ないな」
「問題しかありません!」
リリスの顔が真っ赤になる。
伯爵は頭を抱えた。
「……少し待っていただけますか」
「いいぞ」
所長は素直に待った。
待ちながら。
黒き血を飲んだ。
「……」
伯爵は娘を見る。
そして所長を見る。
もう一度娘を見る。
「なぜ……」
伯爵がようやく声を絞り出した。
「なぜ突然、そのような話に?」
「突然じゃねえ」
「では、いつから?」
「さっき思いついた」
「それを突然と言うのです!」
リリスが叫ぶ。
「まあ落ち着け」
所長は鷹揚に手を振った。
「俺にも考えがある」
「聞きたくありません」
「そう言うな」
所長はリリスを見る。
「お前さん」
「……はい」
「ゆくゆくは、ここ継ぐんだろ?」
「……」
リリスが瞬きをする。
「……何の話です?」
「醸造所だよ」
所長は真顔だった。
「伯爵様は魔族で唯一、酒造をやってるんだろ?」
「ええ……」
「ってことはだ」
所長は人差し指を立てた。
「お前さんが跡を継ぐ」
「まあ、そうなる可能性はありますが……」
「なら簡単だ」
「何がです?」
「婿になれば」
所長は。
満面の笑みを浮かべた。
「黒き血が飲み放題だ」
「…………」
リリスの顔から。
表情が消えた。
伯爵も。
夫人も。
女中も。
全員が沈黙する。
「……所長」
「ん?」
「私との結婚を」
「うん」
「酒のために考えているんですか?」
「それだけじゃねえ」
所長は胸を張った。
「飯もうまそうだ」
「…………」
「所長」
「なんだ?」
「帰りましょう」
「なんでだ?」
「恥ずかしいからです」
「そうか?」
「そうです」
伯爵夫人は。
とうとう笑いを堪えきれなくなった。
「ふふ……」
伯爵も。
深々とため息をついた。
しかし。
その表情には。
先ほどまでの警戒心はなかった。
「……君は、本当に娘のことを大切に思っているのかね?」
「思ってるぞ」
所長は即答した。
「じゃあ問題ないだろ」
あまりにも迷いがない。
その言葉に。
リリスは少しだけ黙った。
そして。
「……もう」
小さく呟いた。
怒っているようで。
どこか嬉しそうだった。
その後。
伯爵家では夕食が用意された。
長い食卓。
磨き上げられた銀食器。
温かい料理。
そして。
当然のように黒き血も並べられていた。
所長は嬉しそうに瓶を眺める。
「いい家だな」
「そこですか?」
リリスが呆れる。
「重要だろ」
「何がです?」
「酒がある」
「……」
夕食が始まる。
所長は料理を食べ。
酒を飲み。
料理を食べ。
酒を飲む。
「肉、うまいな」
「ありがとうございます」
「酒もうまい」
「それは父の自慢です」
「いい仕事してるな」
「父に言ってください」
「そうする」
伯爵は苦笑していた。
夫人も楽しそうに眺めている。
リリスは呆れながらも。
久しぶりの家族との食卓を楽しんでいた。
食事が終わる頃。
伯爵がリリスへ声をかける。
「今日はここに泊まっていきなさい」
「……」
リリスは所長を見る。
所長は黒き血を飲みながら頷いた。
「いいんじゃねえか」
「所長は?」
「俺は別のところに泊まる」
「どうしてです?」
「昔馴染みに会ってくる」
「昔馴染み?」
「ああ」
所長は軽く頷く。
「昔の知り合いだ」
リリスは少し考える。
「魔界に昔馴染みがいるんですか?」
「いる」
「どんな方です?」
「昔、ちょっと世話になった奴だ」
「……」
それ以上は話さなかった。
実際には。
その「昔馴染み」とは。
所長が軍人だった頃から付き合いのある魔族だった。
当時。
軍の物資を横流しする際に。
何度も取引をした相手。
酒。
武器。
食料。
その他、表には出せない物資。
所長にとっては。
今でも使える古い伝手の一つだった。
「じゃあ」
所長は立ち上がる。
「また明日な」
「はい」
リリスが頷く。
「気をつけてください」
「分かってる」
そう言って。
所長は屋敷を出た。
そして。
車に乗り込む。
「さて……」
エンジンをかける。
ポケットには煙草。
後部座席には酒。
そして。
昔馴染みのいる場所へ向かう。
だが。
所長は途中で少し考えた。
「……」
「まあ、今日はやめとくか」
昔馴染みに会うのは明日にすることにした。
そして。
街道沿いのモーテルへ向かった。
完全に飲酒したまま。
車を走らせる。
幸い。
この程度で止める者はいなかった。
モーテルに到着すると。
受付で金を払い。
部屋へ入る。
「疲れたな……」
ベッドに倒れ込む。
煙草に火をつける。
そして。
そのまま眠りについた。
――深夜。
魔界の街は静まり返っていた。
モーテルの廊下にも。
人の気配はない。
その時。
部屋の外で。
小さな音がした。
――カチッ。
数秒後。
轟音。
爆発。
壁が吹き飛んだ。
窓ガラスが砕け。
ベッドが宙を舞う。
煙と炎が部屋を包み込む。
モーテル全体が揺れた。
しばらくして。
瓦礫の中から。
「…………」
所長が起き上がった。
頭から埃をかぶっている。
服も煤だらけ。
所長は周囲を見回す。
そして。
床に落ちていた煙草を拾う。
先端は折れていた。
「……」
しばらく煙草を眺める。
それから。
ゆっくり立ち上がった。
「俺の寝床を吹っ飛ばしたな?」
その声には。
先ほどまでの酔いが。
少しも残っていなかった。