昼下がり。
事務所の窓から差し込む陽射しは、薄汚れたガラス越しに柔らかく床を照らしていた。
リリスは机に向かい、帳簿を整理している。
所長はソファに寝転がり、新聞を読んでいた。
珍しく、平和な午後だった。
「暇ですね」
「そうだな」
「昨日まで銃の手入れをしていた人とは思えない発言ですね」
「銃は仕事じゃねえ」
「では何です?」
「趣味だ」
「そうですか」
リリスはそれ以上追及しなかった。
その時。
事務所の扉が開いた。
「邪魔するぞ」
入ってきたのは女だった。
濃紺の制服。
腰には拳銃。
肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、鋭い目つきをしている。
警察官。
しかも、この街ではそれなりに名の知れた刑事だった。
「おう」
所長が新聞から目を離す。
「珍しいな」
「近くまで来たからな」
女刑事は勝手知ったる様子で椅子に座った。
「茶は?」
「自分で淹れてください」
「相変わらず冷たいな、秘書さん」
「あなたが図々しいだけです」
「そうか」
女刑事は肩をすくめる。
所長とは何度も顔を合わせている。
警察と探偵。
本来なら仲良くするような関係ではない。
しかし、所長の事務所が扱う仕事には、警察だけでは手が回らないものも多い。
違法すれすれの情報収集。
裏社会への接触。
暴力沙汰。
そして、警察が正式に動くには証拠が足りない事件。
そういう時、女刑事は所長を頼ることがあった。
「で?」
所長が新聞を畳む。
「今日は何の用だ?」
「別に用はない」
「じゃあ帰れ」
「相変わらず失礼だな」
女刑事が苦笑する。
その時だった。
再び扉が開いた。
「失礼する」
低い男の声。
今度入ってきた男を見て、女刑事の顔から笑みが消えた。
「……」
「……」
男も女刑事を見る。
「これはこれは」
男は黒いスーツを着ていた。
年齢は四十前後。
後ろには部下が二人。
その胸元には、裏社会の人間であることを示すような小さな徽章が見える。
以前、所長が五千ゴールドの債権を五百ゴールドで買い取った相手。
あのマフィアの幹部だった。
「お前がここに来るとはな」
女刑事が言う。
「それはこちらの台詞だ、刑事さん」
「警察の人間が探偵事務所に来ちゃ悪いか?」
「悪いとは言っていない」
「なら黙ってろ」
「そちらこそ」
二人の間に、露骨な敵意が漂う。
リリスはため息をついた。
「……所長」
「なんだ?」
「どうしてこうなるんですか?」
「俺に聞くな」
所長は二人を見る。
「お前ら知り合いか?」
「知ってる」
「腐れ縁だ」
二人が同時に答えた。
「仲がいいな」
「よくない!」
「よくない」
また同時だった。
所長は笑った。
「で、今日は何だ?」
マフィアの幹部が懐から小さな袋を取り出した。
透明な小袋。
中には白い粉末が入っている。
それを机の上に置いた。
「これを調べてもらいたい」
女刑事の目が細くなる。
「薬物?」
「そうだ」
「あなたたちが持ち込んだの?」
「違う」
幹部は不機嫌そうに答えた。
「うちの縄張りで、最近妙な薬が出回っている」
「それで?」
「出所を探してほしい」
所長は小袋を見る。
「なるほど」
女刑事も腕を組む。
「私も似たようなものを追っている」
「偶然だな」
「偶然じゃないでしょうね」
「何がだ?」
「あなたたちが知らないところで流通経路が変わっているなら、警察としても放置できない」
「こっちは商売の邪魔になる」
「そこですか」
「当然だ」
幹部が鼻を鳴らす。
「俺たちは薬を売っているわけじゃない」
「信用しろと?」
「信じなくていい」
所長が小袋を手に取った。
「で、これが出所を探してほしい薬か」
「ああ」
「報酬は?」
「成功報酬で百ゴールド」
「悪くねえ」
所長は小袋を眺める。
「他に情報は?」
「それがほとんどない」
「どこで手に入れた?」
「うちの人間が、とある酒場で見つけた」
「売っていた奴は?」
「逃げた」
「名前は?」
「分からん」
「特徴は?」
「帽子を被っていた」
「雑だな」
「悪かったな」
所長は小袋を指先で持ち上げた。
そして。
何のためらいもなく封を開ける。
「ちょっと」
女刑事が止める。
「何をする気?」
「調べる」
「どうやって?」
「こうやってだ」
所長は袋の中身を少量取り出した。
女刑事の眉が動く。
「待て」
しかし遅かった。
所長は白い粉を鼻から吸い込んだ。
「……」
沈黙。
リリスが眼鏡の奥から所長を見る。
女刑事も固まっている。
マフィアの幹部ですら、呆気に取られていた。
「……おい」
女刑事が低い声を出す。
「何してる?」
所長は鼻を擦る。
少し考え。
「……上物だな」
「感想を聞いているんじゃない!」
「いや、かなり上等だぞ」
「だから!」
女刑事が立ち上がる。
「お前、それ違法薬物だろうが!」
「知ってる」
「知ってて吸ったのか!」
「味を確かめるためだ」
「鼻で味が分かるか!」
「分かる」
「分かるわけないだろ!」
マフィアの幹部が額を押さえた。
「……本当にこいつに頼んで大丈夫なのか?」
リリスが淡々と答える。
「私も時々そう思います」
「秘書なら止めろ」
「止めました」
「聞いてねえ」
所長が平然と返す。
女刑事は頭を抱えた。
「お前な……」
「なんだ?」
「仮にも探偵だろ」
「だから調べてる」
「普通は鑑定所に持っていくんだよ!」
「それじゃ遅いだろ」
「だからって自分で吸う馬鹿がどこにいる!」
「ここにいる」
「威張るな!」
所長は小袋を眺める。
さっきまでのふざけた表情が消えていた。
「だが」
声が低くなる。
「これは妙だ」
「……何が?」
「混ぜ物が少ねえ」
女刑事が黙る。
「街で出回ってる安物じゃない。精製もかなり丁寧だ」
所長は袋を指で揺らす。
「これだけ上等なものを、こんな小袋に入れて売ってる」
「つまり?」
「末端向けじゃねえ」
マフィアの幹部が身を乗り出した。
「どういう意味だ?」
「金持ち向けか、組織向けだ」
所長は小袋を机に置く。
「しかも、これを売っていた奴が自分で作ったとは思えねえ」
「根拠は?」
「包装だ」
所長が袋を見る。
「簡単すぎる」
「簡単?」
「素人が小分けした感じじゃねえ。逆に、組織が大量に用意した感じでもない」
女刑事が考え込む。
「じゃあ誰が?」
「分からん」
所長は立ち上がった。
「だから探すんだろ」
「……」
「酒場の名前を教えろ」
幹部が紙を差し出す。
「ここだ」
所長が受け取る。
「分かった」
「頼めるか?」
「ああ」
所長は紙を懐に入れた。
「百ゴールドだな」
「ああ」
「前払いで五十」
「……」
「嫌か?」
「いや」
幹部は金貨を五十枚取り出し、机に置いた。
所長はそれを確認する。
「よし」
女刑事が立ち上がった。
「私も行く」
「なんでだ?」
「警察として追ってる事件だからよ」
「じゃあ勝手についてこい」
「それから」
女刑事が小袋を指差す。
「その薬、二度と勝手に吸うな」
「なんで?」
「お前が倒れたら面倒だからよ」
「優しいな」
「違う」
即答だった。
「お前が死ぬと、書類が増える」
「なるほど」
「納得するな」
マフィアの幹部が立ち上がる。
「俺たちも人を出す」
「いらねえ」
「しかし――」
「警察とマフィアが一緒に歩いてみろ」
所長は笑った。
「酒場に着く前に街中が騒ぎになる」
女刑事と幹部が互いを見る。
「……それもそうだな」
「同意するな、クソ野郎」
「こちらも同じことを言おうとしていた」
「なら黙ってろ」
また始まった。
リリスは二人を眺め、それから所長を見る。
「所長」
「なんだ?」
「今回の依頼、まともに終わると思いますか?」
「さあな」
所長は笑った。
「だが、面白そうではある」
白い粉末の入った小袋が、机の上に残されている。
街のどこかで、それを作った者がいる。
売った者がいる。
そして、それを欲しがる者がいる。
所長は煙草に火をつけた。
「さて」
紫煙を吐き出す。
「どこの誰が、こんな上物を流してるのか――」
所長は楽しそうに笑った。
「探しに行くか」
出発前
「じゃあ行くぞ」
所長が立ち上がる。
女刑事とマフィアの幹部が事務所の扉へ向かう。
その背後で――
所長が机の上の小袋を手に取った。
「……」
リリスが振り返る。
「所長」
「なんだ?」
「何をしているんです?」
「もう一回だけ味を確認しようと思ってな」
「さっき吸ったでしょう」
「さっきと今じゃ体調が違う」
「関係ありません」
所長が袋を開ける。
その手を、リリスが無言で掴んだ。
「……離せ」
「嫌です」
「ちょっとだけだぞ」
「駄目です」
「一回だけ」
「駄目です」
「上物なんだぞ」
「知りません」
所長はしばらくリリスを見る。
リリスも無表情で見返す。
「……ちっ」
所長は渋々、小袋をポケットにしまった。
「分かったよ」
「よろしい」
その様子を見ていた女刑事が呆れた顔をする。
「お前ら、本当に探偵事務所か?」
マフィアの幹部が呟く。
「俺もそれを聞きたい」
「うるせえ」
所長はコートを羽織った。
「行くぞ」
そして四人は、何事もなかったかのように事務所を出ていった。