アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case6 ダメ男の活躍

 酒場は、昼間だというのに混んでいた。

 

 仕事を終えた労働者。

 

 昼間から酒を飲む商人。

 

 カードを囲む男たち。

 

 奥の席では、身なりの良い客が周囲を気にしながら小声で話している。

 

 煙草の煙が天井付近に溜まり、安酒と汗、それから油の臭いが混ざっている。

 

 リリスは店内を見回した。

 

「……悪くありませんね」

 

「何がだ?」

 

 隣で所長が酒を飲んでいる。

 

「張り込み場所としてです」

 

「そうか?」

 

「人が多い。出入りも多い。店員も客の顔を全員覚えている様子ではない。裏口もあります」

 

「なるほどな」

 

「それに、依頼人が薬を見つけた場所でもあります」

 

「じゃあ張り込みだ」

 

 所長はそう言うと、店員を呼んだ。

 

「酒」

 

「何を?」

 

「一番安いやつ」

 

「一杯でいいか?」

 

「樽で」

 

 女刑事が眉をひそめた。

 

「おい」

 

「なんだ?」

 

「張り込みだぞ」

 

「知ってる」

 

「何でそんなに飲むんだ」

 

「張り込みだからだ」

 

「意味が分からん」

 

「酒場で酒を飲まずに座ってたら目立つだろ」

 

「一杯で十分だろうが」

 

「それじゃ張り込みにならねえ」

 

 所長は届いた酒を一気に飲む。

 

「……」

 

 女刑事が呆れた顔をした。

 

「お前、本当に探偵か?」

 

「そうだ」

 

「ただ酒飲みたいだけじゃないのか?」

 

「それもある」

 

「堂々と言うな」

 

 リリスは二人の会話を聞き流しながら、店内を観察していた。

 

 所長が馬鹿をやっている。

 

 女刑事が呆れている。

 

 その構図は、周囲から見ても分かりやすい。

 

 だからこそ都合がいい。

 

 誰も、リリスを警戒していない。

 

 彼女はグラスに口をつけながら、視線だけを動かした。

 

 入口。

 

 裏口。

 

 店員。

 

 カウンター。

 

 奥の席。

 

 酒瓶の並んだ棚。

 

 そして、客たち。

 

 特に怪しい人物はいない。

 

 だが――。

 

「……」

 

 リリスの視線が、一人の男で止まった。

 

 三十代ほど。

 

 灰色の帽子。

 

 粗末な外套。

 

 酒を飲んでいるように見えるが、ほとんど減っていない。

 

 それなのに、店内を頻繁に見回している。

 

 リリスは視線を外した。

 

「所長」

 

「ん?」

 

「三時の方向」

 

「分かった」

 

 所長がちらりと見る。

 

「帽子の男か?」

 

「はい」

 

 女刑事も自然に視線を向けた。

 

「……怪しいな」

 

「まだ何とも言えません」

 

 リリスは答えた。

 

「ただ、この店で何かを待っている可能性があります」

 

「薬の売人か?」

 

「断定はできません」

 

「じゃあ、もう少し見るか」

 

 所長は酒を飲んだ。

 

 また飲む。

 

 さらに飲む。

 

「……」

 

 女刑事が横を見る。

 

「おい」

 

「なんだ?」

 

「飲みすぎじゃないか?」

 

「まだ張り込み始めたばかりだぞ」

 

「だからだ」

 

「長期戦になるかもしれねえ」

 

「だからって酒で潰れるなよ」

 

「俺は酒じゃ潰れねえ」

 

「それは知ってる」

 

 女刑事は深いため息をついた。

 

 リリスは二人を無視して、帽子の男を観察する。

 

 男は時折、懐を確認していた。

 

 誰かを待っている。

 

 その可能性が高い。

 

 しかし、決定的な証拠がない。

 

 しばらくして。

 

 所長が突然、ポケットに手を入れた。

 

「……」

 

 リリスは気づいた。

 

 あの小袋だ。

 

 事務所を出る前、リリスが取り上げたはずのもの。

 

「所長」

 

「なんだ?」

 

「それは何です?」

 

「何って?」

 

 所長は平然としている。

 

「ポケットに入っているものです」

 

「財布」

 

「嘘ですね」

 

「……」

 

「出してください」

 

「嫌だ」

 

「所長」

 

「これは俺のだ」

 

「依頼品です」

 

「今は俺が預かってる」

 

「返してください」

 

「断る」

 

 所長は周囲を確認する。

 

 誰もこちらを見ていない。

 

 そう判断したのだろう。

 

 小袋を取り出した。

 

「おい」

 

 女刑事が気づいた。

 

「まさか――」

 

「ちょっとだけだ」

 

「お前!」

 

 所長は慣れた手つきで少量を取り出し、鼻から吸い込んだ。

 

「……」

 

 女刑事が固まった。

 

 リリスは無言で所長を見る。

 

 所長は満足そうに鼻を擦った。

 

「やっぱり上物だな」

 

「……」

 

 女刑事の顔が引きつる。

 

「お前……」

 

「なんだ?」

 

「張り込み中だぞ!」

 

「知ってる」

 

「じゃあ何で吸う!」

 

「暇だったから」

 

「張り込みを何だと思ってる!」

 

 所長の鼻先が白くなっている。

 

 リリスはそれを見て、ため息をついた。

 

「所長」

 

「ん?」

 

「鼻」

 

「ん?」

 

「真っ白です」

 

 所長は指で鼻を擦った。

 

 さらに白くなった。

 

「……」

 

「余計ひどくなりました」

 

「そうか」

 

 リリスは懐からハンカチを取り出し、所長へ渡した。

 

「拭いてください」

 

「おう」

 

「その後、その袋は私に渡してください」

 

「嫌だ」

 

「渡してください」

 

「嫌だ」

 

「……」

 

 リリスは無言で所長を見る。

 

「分かったよ」

 

 所長は小袋を渡した。

 

「最初からそうしてください」

 

 リリスが懐へしまう。

 

 女刑事は頭を抱えていた。

 

「私は何を見せられてるんだ……」

 

「気にするな」

 

「お前が言うな!」

 

 その時。

 

 リリスはふと、帽子の男を見る。

 

 男がこちらを見ていた。

 

 ほんの一瞬。

 

 そして、すぐに視線を逸らす。

 

 リリスはグラスを持ち上げた。

 

「……」

 

 今度は男の手元を見る。

 

 酒ではない。

 

 小さな紙片。

 

 そこに何かを書いている。

 

 男はそれを折り畳むと、店員に渡した。

 

 店員は何も言わず、それを受け取った。

 

 そして、カウンターの下へしまう。

 

 リリスの目が細くなる。

 

やはり、この店員は何かを知っている。

 

 男は何事もなかったように席へ戻った。

 

 その直後。

 

「ははははっ!」

 

 所長の大きな笑い声が響いた。

 

「こいつはいい酒だな!」

 

「さっきから同じことばかり言ってるぞ、お前」

 

 女刑事が呆れた顔をする。

 

「そうか?」

 

「ああ」

 

「じゃあもう一杯だ!」

 

「そういう意味じゃない!」

 

 所長は上機嫌だった。

 

 普段から豪快な男ではあるが、今は明らかに普段以上だ。

 

 近くの客に勝手に話しかけ、店員に何度も酒を注文し、挙げ句の果てには誰かが笑えば自分まで大声で笑っている。

 

「おい、あんた!」

 

 所長が隣の客に声をかける。

 

「なんだ?」

 

「その酒、うまそうだな!」

 

「……普通の酒だが」

 

「そうか! 俺もそれにすればよかった!」

 

「……」

 

 客が微妙な顔をして離れていく。

 

 女刑事が頭を抱える。

 

「もう少し静かにできないのか?」

 

「無理だな!」

 

「即答するな!」

 

 リリスはそんな所長を見ながら、ふと考えた。

 

 今なら使える。

 

 先ほどの薬。

 

 あれを見た時の店員の反応。

 

 そして、今の所長。

 

 これだけ条件が揃っているなら――。

 

 リリスは席を立った。

 

 カウンターへ向かう。

 

「すみません」

 

「はい?」

 

 店員が顔を上げる。

 

 リリスは何気なく所長を振り返った。

 

「少しお聞きしたいことがあるのですが」

 

「何でしょう?」

 

 リリスは所長を指差す。

 

 所長はちょうど、酒を掲げながら笑っていた。

 

「……あの人」

 

「はい?」

 

「私の連れなんです」

 

「……」

 

 店員が所長を見る。

 

「少し酔っていますね」

 

「ええ」

 

 リリスは小さくため息をつく。

 

「それで、困っているんです」

 

「何が?」

 

「最近、あの人が薬を欲しがっていて」

 

 店員の表情がわずかに強張った。

 

「薬……?」

 

「白い粉末のものです」

 

 リリスは声を落とす。

 

「さっき本人が持っていたものと同じようなものを探しています」

 

 所長が遠くから叫ぶ。

 

「リリス!」

 

「はい?」

 

「ここの酒、追加で頼んでくれ!」

 

「……分かりました」

 

 リリスは店員へ視線を戻す。

 

「ご覧の通りです」

 

 店員は困ったように所長を見る。

 

「そういうものは、うちでは……」

 

「売ってほしいとは言いません」

 

 リリスは微笑む。

 

「ただ、もしご存じなら、どこで手に入るのかだけ教えていただけませんか?」

 

「……」

 

「連れがどうしても欲しがっていて」

 

 店員はしばらく黙っていた。

 

 そして、ちらりと店の奥を見る。

 

 そこには先ほどの灰色の帽子の男が座っている。

 

 リリスはその視線を見逃さなかった。

 

「……あの方ですか?」

 

「いえ」

 

 店員は慌てて否定する。

 

「私は何も知りません」

 

「そうですか」

 

 リリスはそれ以上追及しなかった。

 

 代わりに、所長を見る。

 

 所長は酒瓶を片手に、楽しそうに笑っている。

 

「……本当に困った人ですね」

 

 リリスは小さく呟いた。

 

「ですが、あれくらい分かりやすい方が、こういう時には便利です」

 

 店員は聞こえないふりをした。

 

 しかし、その目は一瞬だけ、再び灰色の帽子の男へ向けられた。

 

 リリスはそれだけで十分だった。

 

 この店員は、あの男を知っている。

 

 そして先ほど渡された手紙も、おそらく無関係ではない。

 

 あとは、もう少しだけ踏み込めばいい。

 

 リリスは所長の方を見た。

 

「所長」

 

「ん?」

 

「もう少しだけ、そのまま騒いでいてください」

 

「任せろ!」

 

「……」

 

 リリスは満足そうに頷いた。

 

 今の所長ほど、囮に向いている人間はいなかった。

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