酒場は、昼間だというのに混んでいた。
仕事を終えた労働者。
昼間から酒を飲む商人。
カードを囲む男たち。
奥の席では、身なりの良い客が周囲を気にしながら小声で話している。
煙草の煙が天井付近に溜まり、安酒と汗、それから油の臭いが混ざっている。
リリスは店内を見回した。
「……悪くありませんね」
「何がだ?」
隣で所長が酒を飲んでいる。
「張り込み場所としてです」
「そうか?」
「人が多い。出入りも多い。店員も客の顔を全員覚えている様子ではない。裏口もあります」
「なるほどな」
「それに、依頼人が薬を見つけた場所でもあります」
「じゃあ張り込みだ」
所長はそう言うと、店員を呼んだ。
「酒」
「何を?」
「一番安いやつ」
「一杯でいいか?」
「樽で」
女刑事が眉をひそめた。
「おい」
「なんだ?」
「張り込みだぞ」
「知ってる」
「何でそんなに飲むんだ」
「張り込みだからだ」
「意味が分からん」
「酒場で酒を飲まずに座ってたら目立つだろ」
「一杯で十分だろうが」
「それじゃ張り込みにならねえ」
所長は届いた酒を一気に飲む。
「……」
女刑事が呆れた顔をした。
「お前、本当に探偵か?」
「そうだ」
「ただ酒飲みたいだけじゃないのか?」
「それもある」
「堂々と言うな」
リリスは二人の会話を聞き流しながら、店内を観察していた。
所長が馬鹿をやっている。
女刑事が呆れている。
その構図は、周囲から見ても分かりやすい。
だからこそ都合がいい。
誰も、リリスを警戒していない。
彼女はグラスに口をつけながら、視線だけを動かした。
入口。
裏口。
店員。
カウンター。
奥の席。
酒瓶の並んだ棚。
そして、客たち。
特に怪しい人物はいない。
だが――。
「……」
リリスの視線が、一人の男で止まった。
三十代ほど。
灰色の帽子。
粗末な外套。
酒を飲んでいるように見えるが、ほとんど減っていない。
それなのに、店内を頻繁に見回している。
リリスは視線を外した。
「所長」
「ん?」
「三時の方向」
「分かった」
所長がちらりと見る。
「帽子の男か?」
「はい」
女刑事も自然に視線を向けた。
「……怪しいな」
「まだ何とも言えません」
リリスは答えた。
「ただ、この店で何かを待っている可能性があります」
「薬の売人か?」
「断定はできません」
「じゃあ、もう少し見るか」
所長は酒を飲んだ。
また飲む。
さらに飲む。
「……」
女刑事が横を見る。
「おい」
「なんだ?」
「飲みすぎじゃないか?」
「まだ張り込み始めたばかりだぞ」
「だからだ」
「長期戦になるかもしれねえ」
「だからって酒で潰れるなよ」
「俺は酒じゃ潰れねえ」
「それは知ってる」
女刑事は深いため息をついた。
リリスは二人を無視して、帽子の男を観察する。
男は時折、懐を確認していた。
誰かを待っている。
その可能性が高い。
しかし、決定的な証拠がない。
しばらくして。
所長が突然、ポケットに手を入れた。
「……」
リリスは気づいた。
あの小袋だ。
事務所を出る前、リリスが取り上げたはずのもの。
「所長」
「なんだ?」
「それは何です?」
「何って?」
所長は平然としている。
「ポケットに入っているものです」
「財布」
「嘘ですね」
「……」
「出してください」
「嫌だ」
「所長」
「これは俺のだ」
「依頼品です」
「今は俺が預かってる」
「返してください」
「断る」
所長は周囲を確認する。
誰もこちらを見ていない。
そう判断したのだろう。
小袋を取り出した。
「おい」
女刑事が気づいた。
「まさか――」
「ちょっとだけだ」
「お前!」
所長は慣れた手つきで少量を取り出し、鼻から吸い込んだ。
「……」
女刑事が固まった。
リリスは無言で所長を見る。
所長は満足そうに鼻を擦った。
「やっぱり上物だな」
「……」
女刑事の顔が引きつる。
「お前……」
「なんだ?」
「張り込み中だぞ!」
「知ってる」
「じゃあ何で吸う!」
「暇だったから」
「張り込みを何だと思ってる!」
所長の鼻先が白くなっている。
リリスはそれを見て、ため息をついた。
「所長」
「ん?」
「鼻」
「ん?」
「真っ白です」
所長は指で鼻を擦った。
さらに白くなった。
「……」
「余計ひどくなりました」
「そうか」
リリスは懐からハンカチを取り出し、所長へ渡した。
「拭いてください」
「おう」
「その後、その袋は私に渡してください」
「嫌だ」
「渡してください」
「嫌だ」
「……」
リリスは無言で所長を見る。
「分かったよ」
所長は小袋を渡した。
「最初からそうしてください」
リリスが懐へしまう。
女刑事は頭を抱えていた。
「私は何を見せられてるんだ……」
「気にするな」
「お前が言うな!」
その時。
リリスはふと、帽子の男を見る。
男がこちらを見ていた。
ほんの一瞬。
そして、すぐに視線を逸らす。
リリスはグラスを持ち上げた。
「……」
今度は男の手元を見る。
酒ではない。
小さな紙片。
そこに何かを書いている。
男はそれを折り畳むと、店員に渡した。
店員は何も言わず、それを受け取った。
そして、カウンターの下へしまう。
リリスの目が細くなる。
やはり、この店員は何かを知っている。
男は何事もなかったように席へ戻った。
その直後。
「ははははっ!」
所長の大きな笑い声が響いた。
「こいつはいい酒だな!」
「さっきから同じことばかり言ってるぞ、お前」
女刑事が呆れた顔をする。
「そうか?」
「ああ」
「じゃあもう一杯だ!」
「そういう意味じゃない!」
所長は上機嫌だった。
普段から豪快な男ではあるが、今は明らかに普段以上だ。
近くの客に勝手に話しかけ、店員に何度も酒を注文し、挙げ句の果てには誰かが笑えば自分まで大声で笑っている。
「おい、あんた!」
所長が隣の客に声をかける。
「なんだ?」
「その酒、うまそうだな!」
「……普通の酒だが」
「そうか! 俺もそれにすればよかった!」
「……」
客が微妙な顔をして離れていく。
女刑事が頭を抱える。
「もう少し静かにできないのか?」
「無理だな!」
「即答するな!」
リリスはそんな所長を見ながら、ふと考えた。
今なら使える。
先ほどの薬。
あれを見た時の店員の反応。
そして、今の所長。
これだけ条件が揃っているなら――。
リリスは席を立った。
カウンターへ向かう。
「すみません」
「はい?」
店員が顔を上げる。
リリスは何気なく所長を振り返った。
「少しお聞きしたいことがあるのですが」
「何でしょう?」
リリスは所長を指差す。
所長はちょうど、酒を掲げながら笑っていた。
「……あの人」
「はい?」
「私の連れなんです」
「……」
店員が所長を見る。
「少し酔っていますね」
「ええ」
リリスは小さくため息をつく。
「それで、困っているんです」
「何が?」
「最近、あの人が薬を欲しがっていて」
店員の表情がわずかに強張った。
「薬……?」
「白い粉末のものです」
リリスは声を落とす。
「さっき本人が持っていたものと同じようなものを探しています」
所長が遠くから叫ぶ。
「リリス!」
「はい?」
「ここの酒、追加で頼んでくれ!」
「……分かりました」
リリスは店員へ視線を戻す。
「ご覧の通りです」
店員は困ったように所長を見る。
「そういうものは、うちでは……」
「売ってほしいとは言いません」
リリスは微笑む。
「ただ、もしご存じなら、どこで手に入るのかだけ教えていただけませんか?」
「……」
「連れがどうしても欲しがっていて」
店員はしばらく黙っていた。
そして、ちらりと店の奥を見る。
そこには先ほどの灰色の帽子の男が座っている。
リリスはその視線を見逃さなかった。
「……あの方ですか?」
「いえ」
店員は慌てて否定する。
「私は何も知りません」
「そうですか」
リリスはそれ以上追及しなかった。
代わりに、所長を見る。
所長は酒瓶を片手に、楽しそうに笑っている。
「……本当に困った人ですね」
リリスは小さく呟いた。
「ですが、あれくらい分かりやすい方が、こういう時には便利です」
店員は聞こえないふりをした。
しかし、その目は一瞬だけ、再び灰色の帽子の男へ向けられた。
リリスはそれだけで十分だった。
この店員は、あの男を知っている。
そして先ほど渡された手紙も、おそらく無関係ではない。
あとは、もう少しだけ踏み込めばいい。
リリスは所長の方を見た。
「所長」
「ん?」
「もう少しだけ、そのまま騒いでいてください」
「任せろ!」
「……」
リリスは満足そうに頷いた。
今の所長ほど、囮に向いている人間はいなかった。