アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case59 来訪者

 

 

 翌日。

 

 所長は、朝から酒を飲んでいた。

 

 正確には。

 

 朝なのか昼なのか、本人にもよく分かっていなかった。

 

 カーテンは閉め切られ、室内には薄暗い光だけが差し込んでいる。

 

 以前なら、こんな朝は絶対に有り得なかった。

 

 リリスが窓を開ける。

 

 床を掃除する。

 

 灰皿を片付ける。

 

 机の上に積み上がった書類を整理する。

 

 そして最後に。

 

「所長、コーヒーです」

 

 そう言って、苦いコーヒーを置く。

 

 それが、この事務所の朝だった。

 

 だが。

 

 今は違う。

 

 床には酒瓶が転がっている。

 

 机の上にも空瓶。

 

 灰皿には吸い殻が山のように積まれていた。

 

 書類は乱雑に積まれ、椅子の脇には脱ぎ捨てた上着まで転がっている。

 

 所長はそんな事務所の中央で、酒を飲んでいた。

 

「……まずいな」

 

 酒を一口。

 

 ごくり。

 

「頭が痛え」

 

 そう言いながら。

 

 また一口。

 

 酒を飲めば二日酔いが悪化する。

 

 そんなことは分かっている。

 

 だが。

 

 今の所長には、それでよかった。

 

 頭が痛ければ。

 

 余計なことを考えずに済む。

 

 所長は新聞を広げた。

 

 顔にかぶせる。

 

 椅子を傾け。

 

 両足を机の上へ放り出した。

 

「……」

 

 仕事をする気など、まったくなかった。

 

 煙草の煙が、新聞の脇からゆっくりと立ち上っていく。

 

 時計の針だけが。

 

 静かな事務所の中を進んでいく。

 

 しばらくして。

 

 コン。

 

「……」

 

 所長の眉が僅かに動いた。

 

 コン。

 

 コン。

 

「……」

 

 聞こえないふりをする。

 

 新聞を少しだけ持ち上げ、扉を見る。

 

「帰れ……」

 

 小さく呟いた。

 

 だが。

 

 ノックは止まらない。

 

 コン。

 

 コン。

 

 コン。

 

「……」

 

 所長は新聞を顔にかぶせ直した。

 

 面倒だった。

 

 依頼人なら帰ればいい。

 

 警察なら昨日の女刑事に任せればいい。

 

 借金取りなら殴ればいい。

 

 今は。

 

 誰とも会いたくなかった。

 

 それなのに。

 

 コン。

 

 コン。

 

 コン。

 

「……しつけえな」

 

 所長はとうとう新聞を放り捨てた。

 

 ゆっくり立ち上がる。

 

 足元に転がっていた酒瓶を蹴飛ばす。

 

 瓶が床を転がり、壁にぶつかって乾いた音を立てた。

 

「朝っぱらから何なんだよ……」

 

 机の引き出しを開ける。

 

 拳銃を取り出す。

 

 慣れた手つきで状態を確認する。

 

「……」

 

 拳銃を片手に。

 

 所長は扉へ向かった。

 

 コン。

 

 またノック。

 

 その瞬間。

 

「いい加減にしろ!」

 

 勢いよく扉を開けた。

 

「誰だ、てめ――」

 

「おはようございます、所長」

 

「…………」

 

 言葉が止まった。

 

 そこに立っていたのは。

 

 リリスだった。

 

 眼鏡。

 

 整えられた髪。

 

 いつもの服装。

 

 いつもの落ち着いた表情。

 

 何も変わっていない。

 

「…………」

 

 所長は。

 

 しばらく動かなかった。

 

 握っていた拳銃から。

 

 ゆっくりと力が抜けていく。

 

 胸の奥が。

 

 大きく跳ねた。

 

 ――戻ってきた。

 

 その事実だけが。

 

 頭の中を駆け巡る。

 

 戻ってきてくれた。

 

 首にした。

 

 自分から突き放した。

 

 もう戻ってくるなと。

 

 そういう意味で言った。

 

 それなのに。

 

 目の前にいる。

 

 その瞬間。

 

 所長の顔に。

 

 ほんの僅かに安堵が浮かんだ。

 

 嬉しかった。

 

 本当に。

 

 嬉しかった。

 

 だが。

 

 それを悟られるわけにはいかなかった。

 

 所長は拳銃を下ろす。

 

 そして。

 

 いつもの不機嫌そうな顔を作った。

 

「……なんだ」

 

 声まで冷たくする。

 

「退職金でもせがみに来たのか?」

 

 リリスは何も言わない。

 

 ただ。

 

 静かに所長を見ている。

 

 所長は目を逸らした。

 

「金なら振り込んでやる」

 

 財布を取り出す。

 

「いくら欲しいのか言え」

 

「……」

 

「遠慮するな」

 

 所長は続ける。

 

「今まで働いた分くらいは払ってやる」

 

 拳銃を机へ置く。

 

 そして。

 

 荒れ果てた事務所を背に。

 

「これで終わりだ」

 

 短く。

 

 冷たく。

 

 言い切った。

 

 その言葉が。

 

 自分自身に言い聞かせるためのものだと。

 

 所長自身が一番よく分かっていた。

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