翌日。
所長は、朝から酒を飲んでいた。
正確には。
朝なのか昼なのか、本人にもよく分かっていなかった。
カーテンは閉め切られ、室内には薄暗い光だけが差し込んでいる。
以前なら、こんな朝は絶対に有り得なかった。
リリスが窓を開ける。
床を掃除する。
灰皿を片付ける。
机の上に積み上がった書類を整理する。
そして最後に。
「所長、コーヒーです」
そう言って、苦いコーヒーを置く。
それが、この事務所の朝だった。
だが。
今は違う。
床には酒瓶が転がっている。
机の上にも空瓶。
灰皿には吸い殻が山のように積まれていた。
書類は乱雑に積まれ、椅子の脇には脱ぎ捨てた上着まで転がっている。
所長はそんな事務所の中央で、酒を飲んでいた。
「……まずいな」
酒を一口。
ごくり。
「頭が痛え」
そう言いながら。
また一口。
酒を飲めば二日酔いが悪化する。
そんなことは分かっている。
だが。
今の所長には、それでよかった。
頭が痛ければ。
余計なことを考えずに済む。
所長は新聞を広げた。
顔にかぶせる。
椅子を傾け。
両足を机の上へ放り出した。
「……」
仕事をする気など、まったくなかった。
煙草の煙が、新聞の脇からゆっくりと立ち上っていく。
時計の針だけが。
静かな事務所の中を進んでいく。
しばらくして。
コン。
「……」
所長の眉が僅かに動いた。
コン。
コン。
「……」
聞こえないふりをする。
新聞を少しだけ持ち上げ、扉を見る。
「帰れ……」
小さく呟いた。
だが。
ノックは止まらない。
コン。
コン。
コン。
「……」
所長は新聞を顔にかぶせ直した。
面倒だった。
依頼人なら帰ればいい。
警察なら昨日の女刑事に任せればいい。
借金取りなら殴ればいい。
今は。
誰とも会いたくなかった。
それなのに。
コン。
コン。
コン。
「……しつけえな」
所長はとうとう新聞を放り捨てた。
ゆっくり立ち上がる。
足元に転がっていた酒瓶を蹴飛ばす。
瓶が床を転がり、壁にぶつかって乾いた音を立てた。
「朝っぱらから何なんだよ……」
机の引き出しを開ける。
拳銃を取り出す。
慣れた手つきで状態を確認する。
「……」
拳銃を片手に。
所長は扉へ向かった。
コン。
またノック。
その瞬間。
「いい加減にしろ!」
勢いよく扉を開けた。
「誰だ、てめ――」
「おはようございます、所長」
「…………」
言葉が止まった。
そこに立っていたのは。
リリスだった。
眼鏡。
整えられた髪。
いつもの服装。
いつもの落ち着いた表情。
何も変わっていない。
「…………」
所長は。
しばらく動かなかった。
握っていた拳銃から。
ゆっくりと力が抜けていく。
胸の奥が。
大きく跳ねた。
――戻ってきた。
その事実だけが。
頭の中を駆け巡る。
戻ってきてくれた。
首にした。
自分から突き放した。
もう戻ってくるなと。
そういう意味で言った。
それなのに。
目の前にいる。
その瞬間。
所長の顔に。
ほんの僅かに安堵が浮かんだ。
嬉しかった。
本当に。
嬉しかった。
だが。
それを悟られるわけにはいかなかった。
所長は拳銃を下ろす。
そして。
いつもの不機嫌そうな顔を作った。
「……なんだ」
声まで冷たくする。
「退職金でもせがみに来たのか?」
リリスは何も言わない。
ただ。
静かに所長を見ている。
所長は目を逸らした。
「金なら振り込んでやる」
財布を取り出す。
「いくら欲しいのか言え」
「……」
「遠慮するな」
所長は続ける。
「今まで働いた分くらいは払ってやる」
拳銃を机へ置く。
そして。
荒れ果てた事務所を背に。
「これで終わりだ」
短く。
冷たく。
言い切った。
その言葉が。
自分自身に言い聞かせるためのものだと。
所長自身が一番よく分かっていた。