第六十六話 それでも離れません
「これで終わりだ」
所長はそう言い切った。
それ以上、何も言わない。
視線を逸らし、机の上に置いた拳銃へ手を伸ばす。
だが。
「……所長」
「なんだ」
「汚いですね」
「……」
所長の手が止まった。
リリスは事務所の中を見回している。
床には酒瓶。
机の上にも空になった酒瓶。
灰皿には大量の吸い殻。
書類は乱雑に積み上げられ、床には丸められた新聞紙まで転がっている。
窓は閉め切られ。
空気には酒と煙草の臭いが染みついていた。
以前の事務所を知っている者なら。
ここが同じ場所だとは思わないだろう。
「床も汚れています」
「そうだな」
「灰皿もいっぱいです」
「そうだな」
「書類も整理されていません」
「だから何だ?」
「掃除してください」
「……」
所長はリリスを見る。
「お前にはもう関係ねえだろ」
「そうですね」
「なら放っておけ」
「嫌です」
「……」
所長は眉間を押さえた。
「俺はお前を首にしたんだぞ」
「知っています」
「なら帰れ」
「嫌です」
「何度言わせる」
所長は酒瓶を手に取る。
栓を開ける。
「時間の無駄だ」
グラスには注がず、そのまま一口飲む。
「俺は今、忙しいんだ」
「酒を飲むことがですか?」
「そうだ」
「随分と忙しい仕事ですね」
「……」
所長は黙る。
そして。
「退職金が欲しいなら、いくらだ?」
冷たい声で言った。
「言え」
「……」
「金なら払う」
「いりません」
「じゃあ何だ」
リリスは答えない。
「金が目的じゃねえなら、何しに来た?」
「……」
「俺はもう、お前の上司じゃねえんだ」
所長は酒瓶を机に置く。
「時間を無駄にするな」
その言葉にも。
リリスは動じなかった。
むしろ。
所長を無視して、事務所の奥へ歩いていく。
「おい」
「……」
「どこ行くんだ」
「掃除道具を探しています」
「帰れって言ってんだろ」
「聞こえています」
「なら――」
リリスが振り返る。
「所長」
「なんだ?」
「私、昨日両親と話をしました」
「……」
「そして」
眼鏡を直す。
「この事務所で働く許可をもらいました」
「……は?」
所長の顔が僅かに間抜けになる。
「何を勝手なこと言ってんだ」
「勝手ではありません」
「お前の親はよく許したな」
「父も母も」
リリスは少しだけ微笑んだ。
「私が自分で決めたことなら、と」
「……」
「両親も、所長にはかなり感謝しています」
「俺に?」
「はい」
所長は鼻を鳴らす。
「俺は何もしてねえ」
「しましたよ」
「何を?」
「私を拾ってくれたじゃないですか」
「……」
「行く場所もなくて」
リリスは静かに続ける。
「一人では何もできなかった私に、仕事を与えてくれました」
「……」
「それだけではありません」
リリスは事務所を見回す。
「私はここで、たくさんのことを覚えました」
所長は黙って聞いている。
「仕事も」
「……」
「人との付き合い方も」
「……」
「自分で生きていく方法も」
リリスは所長を見る。
「全部、ここで覚えました」
「……そうかよ」
「だから」
一歩。
所長へ近づく。
「この程度で私が離れると思わないでください」
「……」
所長の眉が僅かに動く。
「私は、所長の助手です」
「俺は首にした」
「知っています」
「だったら――」
「撤回してください」
「嫌だ」
「では、勝手に戻ります」
「……」
所長は頭を掻いた。
「本当に面倒な女だな」
「よく言われます」
「誰にだ?」
「所長にです」
「……そうだったか?」
「何度も」
「覚えてねえな」
「でしょうね」
リリスが小さく笑う。
その笑顔を見て。
所長は少しだけ目を細めた。
胸の奥にあった重いものが。
ほんの少しだけ軽くなっていく。
それでも。
素直にはなれない。
「……本当に戻ってくるのか?」
思わず。
そんな言葉が漏れた。
リリスは少し驚いた顔をした。
「はい」
「……」
「何度でも言います」
リリスは所長を見上げる。
「私は、所長の助手です」
「……」
所長は何も言わなかった。
ただ。
大きな身体を少しだけ動かす。
一歩。
リリスとの距離が縮まる。
「所長?」
「……」
そして。
所長は珍しく。
何も言わずに腕を伸ばした。
リリスの肩へ腕を回す。
「……え?」
そのまま。
抱きしめた。
突然のことに。
リリスの身体が僅かに固まる。
所長が誰かを抱きしめるなど。
滅多にあることではない。
まして。
こんなふうに自分からするなど。
「……所長?」
「うるせえ」
低い声だった。
「今だけだ」
「……はい」
リリスは抵抗しなかった。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
やがて。
リリスの手が。
そっと所長の背中へ回った。
「……」
所長は目を閉じる。
数日前。
自分から突き放した。
危険だから。
自分の隣にいる必要などないと思ったから。
リリスには、もっと安全な場所で生きてほしいと思った。
けれど。
今。
こうして腕の中にいる。
それだけで。
自分がどれほど彼女を必要としていたのか。
嫌でも分かってしまう。
所長は小さく息を吐いた。
「……お帰り、リリス」
「……」
リリスの目が僅かに見開かれた。
いつもの所長なら。
絶対に言わない言葉だった。
だから。
リリスは少しだけ微笑んだ。
「……はい」
そして。
「ただいま戻りました、所長」
所長はそれ以上何も言わなかった。
ただ。
もう一度だけ。
ほんの少しだけ腕に力を込めた。
*
しばらくして。
所長はゆっくりとリリスを離した。
そして。
いつもの顔に戻る。
「さて」
「はい」
「掃除しろ」
「……」
リリスが無言で所長を見る。
「床も机も全部だ」
「所長」
「なんだ?」
「今の感動的な雰囲気はどこへ?」
「知らん」
「……」
「あと、溜まってる書類も全部片付けろ」
「はい」
「酒の注文も頼む」
「掃除が先です」
「じゃあ掃除しながら頼め」
「無茶を言わないでください」
リリスは呆れながらも。
掃除道具を取りに行く。
所長はその背中を眺める。
そして。
小さく笑った。
「……バカな女だ」
「聞こえていますよ」
「聞こえるように言った」
「では、さっそく仕事です」
「何だ?」
「所長」
「ん?」
「その酒瓶、全部片付けてください」
「……」
所長は床を見た。
そこには。
数日間の生活を物語る酒瓶が。
大量に転がっている。
「……俺もか?」
「当然です」
「……」
所長は諦めたように立ち上がった。
「分かったよ」
「ありがとうございます」
久しぶりに。
事務所の中に。
二人分の足音が響いた。
荒れ果てていた事務所に。
少しずつ。
いつもの日常が戻り始めていた。