第六十七話 幸せな時間と、聞かなければならないこと
翌朝。
事務所は、久しぶりに元の姿を取り戻していた。
昨日。
所長とリリスの二人で、ほぼ一日をかけて掃除したのだ。
床に転がっていた酒瓶は片付けられ。
灰皿は洗われ。
閉め切られていた窓も開け放たれた。
冷たい朝の空気が室内へ入り込み、染みついていた酒と煙草の臭いを少しずつ追い出していく。
机の上も綺麗になっている。
……もっとも。
「所長」
「なんだ?」
「これは何ですか?」
「知らん」
「昨日まで机の下にありました」
「なら俺のだな」
「中身は?」
「見てない」
「では開けます」
「おい」
リリスが箱を開ける。
中から出てきたのは、いつ買ったのかも分からない工具や銃の部品だった。
「……」
「使えるか?」
「知りません」
「そうか」
「どうしてこんな物を机の下に?」
「いつか使うと思ったんだろ」
「いつかは来なかったようですね」
「そうだな」
リリスはため息をつきながら、それらを整理していく。
そして。
ようやく。
溜まりに溜まっていた書類へ取り掛かっていた。
机の上には大量の書類。
依頼書。
経費。
報告書。
請求書。
そして。
所長が放置していたと思われる書類の山。
「……」
リリスは一枚ずつ確認していく。
所長はその向かいに座っていた。
煙草を咥えながら。
新聞を読む。
いつもの光景だった。
ただ。
以前とは少し違う。
「リリス」
「はい」
「コーヒー」
「……」
リリスは顔を上げる。
「今ですか?」
「ああ」
「そこに置いてあります」
「……」
所長は机の端を見る。
確かに。
コーヒーがある。
「……そうだったな」
「はい」
所長は立ち上がる。
そして。
自分で取りに行こうとした。
「所長」
「ん?」
「私が渡します」
リリスがカップを持ち上げる。
所長へ差し出す。
「どうぞ」
「おう」
所長が受け取る。
その瞬間。
指先が触れた。
「……」
「……」
二人とも。
一瞬だけ止まった。
リリスの脳裏に。
昨日のことが蘇る。
所長に抱きしめられた。
大きな身体。
背中に回した手。
そして。
『……お帰り、リリス』
「……」
リリスの耳が。
ほんの僅かに赤くなる。
「どうした?」
「何でもありません」
「そうか」
所長は気にせずコーヒーを飲む。
「……苦い」
「いつものことです」
「もう少し砂糖入れてくれ」
「所長はいつもブラックでしょう」
「今日は違う」
「はいはい」
リリスは小さく笑う。
その笑顔を。
所長は何となく眺めていた。
「……」
「何です?」
「いや」
所長は新聞へ目を戻す。
「何でもねえ」
*
それから。
不思議なくらい穏やかな時間が続いた。
「リリス」
「はい」
「この書類どこだ?」
「右側の棚です」
「どの棚?」
「一番上です」
「届かん」
「椅子を使ってください」
「面倒だ」
「……」
リリスが立ち上がる。
「私が取ります」
「おう」
「所長は本当に……」
「なんだ?」
「何でもありません」
リリスが書類を取る。
「これですか?」
「ああ」
「どうぞ」
「助かる」
また。
指が触れる。
「……」
リリスの耳が。
また少し赤くなる。
「リリス」
「はい」
「耳赤いぞ」
「気のせいです」
「そうか?」
「そうです」
「暑いのか?」
「違います」
「ならいい」
所長は深く考えず、書類を受け取った。
リリスは席へ戻る。
「……」
胸の奥が。
少しだけ落ち着かない。
だが。
嫌ではなかった。
むしろ。
久しぶりに所長と一緒にいることが。
嬉しかった。
所長も。
妙に機嫌がいい。
「リリス」
「はい」
「煙草」
「自分で取ってください」
「……」
「そこにあります」
「そうだった」
また自分で取る。
しばらくして。
「リリス」
「はい」
「灰皿」
「さっき渡しました」
「そうだったか?」
「はい」
「……」
所長は笑う。
「お前がいると楽だな」
「……」
その言葉に。
リリスの手が止まった。
「何ですか?」
「いや」
所長は何でもないように言う。
「やっぱり助手がいると便利だ」
「……」
「何だ?」
「何でもありません」
リリスは書類へ視線を戻す。
だが。
その口元には。
小さな笑みが浮かんでいた。
久しぶりだった。
この時間が。
所長と二人で。
何でもない話をして。
仕事をして。
時々くだらないことで言い合って。
そんな日常が。
戻ってきた。
それだけで。
十分だった。
*
昼を少し過ぎた頃。
リリスは書類を整理しながら。
ふと。
手を止めた。
「……そういえば」
「ん?」
所長が新聞から顔を上げる。
「所長」
「なんだ?」
「一つ聞きたいことがあります」
「何だ?」
「どうして突然、私を首にしたんですか?」
「……」
所長の表情が止まる。
「その話か」
「はい」
リリスは眼鏡を直した。
「結局、魔族の国で何をしたんです?」
「別に」
「別に、ではありません」
「仕事だ」
「どんな仕事です?」
「普通の仕事だ」
「爆発音が何度も聞こえたそうですが」
「……」
「銃撃もあったそうですね」
「……」
「軍の管理区域まで巻き込んだ騒ぎになった」
所長は煙草を咥える。
「よく調べたな」
「調べました」
「何で?」
「心配だったからです」
「……」
所長の手が止まる。
「何度も連絡しました」
「……」
「通信機にも出ませんでした」
「酒飲んでたからな」
「その後、突然」
リリスの声が少しだけ低くなる。
「『お前は首だ』と言われました」
「……」
「経費の無駄だとも」
「……」
「私がいなくてもどうとでもなる、と」
所長は黙っている。
「なのに」
リリスは所長を見る。
「帰ってきたら、あんなに荒れていた」
「……」
「何があったんですか?」
所長は煙草に火をつける。
煙をゆっくり吐き出す。
「……」
「所長」
「……面倒だな」
「答えてください」
「話したくない」
「では、話すまで仕事をしません」
「それは困る」
「なら話してください」
「……」
所長は頭を掻いた。
そして。
少しだけ視線を逸らす。
「……分かったよ」
「はい」
「ただし」
所長はリリスを見る。
「全部聞いても、怒るなよ」
「内容によります」
「それが一番怖いんだよ」
「所長」
「なんだ?」
「話してください」
「……」
所長は。
観念したように椅子へ深く腰掛けた。
「実はな――」
穏やかだった事務所の空気が。
少しずつ。
変わり始めていた。