アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case69 甘い香

第六十九話 甘いものと、少し意地悪な助手

 

 あの一件から。

 

 事務所には、以前と変わらない日常が戻っていた。

 

 朝になればリリスがコーヒーを淹れ、所長は新聞を読みながら煙草を吸う。

 

 書類が積まれればリリスが整理し、所長は必要なところだけ目を通す。

 

「所長、こちらに署名を」

 

「後でいいだろ」

 

「昨日もそう言っていました」

 

「……今やる」

 

「お願いします」

 

 そんなやり取りも。

 

 以前と変わらない。

 

 ただ。

 

 以前より少しだけ、二人の距離は近くなっていた。

 

 所長は以前より頻繁にリリスを呼ぶ。

 

「リリス」

 

「はい」

 

「コーヒー」

 

「今淹れたところです」

 

「ああ、そうだったな」

 

「……」

 

「あと新聞」

 

「机の上です」

 

「……」

 

「あと灰皿」

 

「そこ」

 

「……」

 

「お前、便利だな」

 

「人を何だと思っているんですか」

 

「助手」

 

「それなら自分で取りに行ってください」

 

「冷たいな」

 

 そんな会話をしながら。

 

 二人とも、どこか楽しそうだった。

 

     *

 

 昼過ぎ。

 

 リリスは郵便物を整理していた。

 

 その中に、一枚のチラシが混ざっている。

 

「……?」

 

 色鮮やかなケーキの写真。

 

 その下には、大きな文字で。

 

 ――各国で修行したパティシエによる新店舗、近日オープン。

 

 さらに。

 

 期間限定のサービスとして、二人で来店した場合の割引――いわゆるカップル割の文字まである。

 

「……」

 

 リリスはチラシをじっと見つめた。

 

 甘いものは嫌いではない。

 

 むしろ好きな方だ。

 

 しかし、普段は仕事に追われているため、こうした店へ行く機会はあまりない。

 

 少し迷った末。

 

「所長」

 

「ん?」

 

 ソファで新聞を読んでいた所長が顔を上げる。

 

「近くに新しいケーキ店ができるそうです」

 

「へえ」

 

「各国で修行したパティシエだそうですよ」

 

「そうか」

 

「……」

 

「それで?」

 

「少し、行ってみたいのですが」

 

 所長は新聞から目を離さず。

 

「行ってこい」

 

「……」

 

 リリスの動きが止まる。

 

「一人で?」

 

「ああ」

 

 所長は財布から金貨を数枚取り出した。

 

 そして。

 

 ぽい。

 

 リリスの前へ投げる。

 

「これで足りるだろ」

 

「……」

 

「好きなだけ食ってこい」

 

 リリスは金貨を拾った。

 

「……そうですか」

 

「ああ」

 

「一人で」

 

「そうだ」

 

「……」

 

 リリスはチラシを見下ろす。

 

 そして。

 

 ぽつりと呟いた。

 

「以前も……」

 

「ん?」

 

「一人で行け、と言われましたね」

 

「……」

 

 所長の新聞を持つ手が止まる。

 

「首にされた時も」

 

「……」

 

「私は一人でやっていけるから、と言われたわけではありませんけど」

 

「……」

 

「所長に必要ないと言われました」

 

「リリス」

 

「はい?」

 

「それと今の話は――」

 

「分かっています」

 

 リリスは淡々と答えた。

 

「ただ、少し思い出しただけです」

 

「……」

 

「私、あの時かなり傷ついたんですよ」

 

「……そうか」

 

「結構悲しかったです」

 

「……」

 

「二日くらい眠れませんでした」

 

「……」

 

「三日目からは普通に眠れましたけど」

 

「お前、それ言いたいだけだろ」

 

「何のことでしょう」

 

 リリスは無表情だった。

 

 だが。

 

 目だけが妙に楽しそうだった。

 

「それに」

 

「まだあるのか?」

 

「せっかく一緒に働けるようになったのに」

 

「……」

 

「また一人で行ってこいと言われるとは思いませんでした」

 

「……」

 

「所長にとって私は、やっぱり一人でどこかへ行かせても平気な存在なんですね」

 

「いや、そういう意味じゃ――」

 

「そうですか」

 

「……」

 

「では行ってきます」

 

 リリスは金貨を懐へしまう。

 

 そして踵を返した。

 

「……待て」

 

「はい?」

 

「一緒に行く」

 

 リリスは振り返る。

 

「よろしいんですか?」

 

「ああ」

 

「甘いもの嫌いなのに?」

 

「コーヒー飲みに行く」

 

「そうですか」

 

「……」

 

「では、行きましょう」

 

「お前、最初からこうするつもりだっただろ」

 

「何のことでしょう?」

 

「……」

 

 所長は頭を掻いた。

 

「本当に意地が悪くなったな」

 

「誰のせいでしょうね」

 

「……俺か」

 

「はい」

 

 即答だった。

 

     *

 

 店へ向かう道。

 

 なぜか二人は腕を組んでいた。

 

「……なあ」

 

「はい」

 

「これも必要なのか?」

 

「カップル割があるそうですから」

 

「店に入ってからでいいだろ」

 

「せっかくですから」

 

「……」

 

 所長は諦めた。

 

 リリスは満足そうに腕を組む。

 

 以前なら所長は鬱陶しそうに腕を振りほどいていただろう。

 

 しかし。

 

 今は何も言わない。

 

 むしろ自然とリリスの歩幅に合わせていた。

 

「所長」

 

「ん?」

 

「こうして二人で歩くのも久しぶりですね」

 

「そうだな」

 

「……」

 

「どうした?」

 

「いえ」

 

 リリスは小さく笑った。

 

「何でもありません」

 

     *

 

 店の扉を開ける。

 

 瞬間。

 

 甘い香りが二人を包んだ。

 

 白を基調とした明るい店内。

 

 ショーケースには色とりどりのケーキが並んでいる。

 

 苺のショートケーキ。

 

 チョコレートケーキ。

 

 モンブラン。

 

 フルーツタルト。

 

 小さな焼き菓子。

 

「……」

 

 リリスの目が僅かに輝いた。

 

「どれにします?」

 

「俺はいらん」

 

「コーヒーだけですか?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「甘いものは嫌いだ」

 

「そうですか」

 

 リリスは少し考え。

 

「では、私はこちらを」

 

 苺のケーキを選んだ。

 

 二人で席につく。

 

 所長の前にはブラックコーヒー。

 

 リリスの前にはケーキ。

 

「いただきます」

 

 リリスが一口食べる。

 

「……美味しい」

 

「そうか」

 

「かなり美味しいですよ」

 

「へえ」

 

「所長も一口どうです?」

 

「いらん」

 

「美味しいですよ?」

 

「甘いだろ」

 

「甘いです」

 

「じゃあいらん」

 

 リリスはケーキをもう一口。

 

 そして。

 

「……本当に美味しいです」

 

「分かったって」

 

「一口だけでも」

 

「嫌だ」

 

「お願いします」

 

「……」

 

 リリスが所長を見る。

 

 その顔には。

 

 ほんの少しだけ。

 

 先ほどの仕返しをしているような笑みが浮かんでいた。

 

「首にされて傷ついた私のお願いでも?」

 

「……お前」

 

「何です?」

 

「まだそれ言うのか」

 

「傷は深いんです」

 

「どんな傷だよ」

 

「かなり深いです」

 

「……」

 

 所長は大きくため息をついた。

 

「一口だけだぞ」

 

「はい」

 

 リリスが小さく切り分ける。

 

 そしてフォークを差し出した。

 

「どうぞ」

 

「自分で食える」

 

「分かっています」

 

「じゃあ渡せ」

 

「食べさせてあげます」

 

「……」

 

 所長は周囲を見る。

 

 他の客がちらちらとこちらを見ている。

 

「……カップル割のためか?」

 

「もちろんです」

 

「絶対違うだろ」

 

「どうでしょう」

 

 所長は諦めた。

 

 フォークを口に入れる。

 

「……」

 

 しばらく噛む。

 

 そして。

 

「……うまい」

 

 リリスが嬉しそうに笑った。

 

「でしょう?」

 

「甘いけど、思ったほどじゃねえな」

 

「クリームが軽いんです」

 

「なるほど」

 

 所長はケーキを見る。

 

「これなら食える」

 

「では、もう一口」

 

「……」

 

「どうぞ」

 

「お前、俺を甘党にする気か?」

 

「少しくらいなら」

 

「……」

 

 所長は苦笑した。

 

「まあいい」

 

 もう一口。

 

 今度は自分からフォークを伸ばした。

 

 リリスはそれを見て。

 

 ほんの少しだけ目を細める。

 

「美味しいですか?」

 

「ああ」

 

「よかったです」

 

「……」

 

「どうしました?」

 

「いや」

 

 所長はコーヒーを飲む。

 

「こういうのも悪くねえな」

 

「そうですね」

 

 腕を組んで歩いた帰り道。

 

 ケーキを食べて。

 

 くだらない話をして。

 

 時々、以前の出来事を思い出して笑う。

 

 そんな時間が。

 

 二人には妙に心地よかった。

 

 そして所長は。

 

 甘いものなんて嫌いだと言いながら。

 

 帰り際には、リリスが選んだ焼き菓子まで買っていた。

 

「所長」

 

「なんだ?」

 

「これは?」

 

「……お前が食うんだろ」

 

「そうですね」

 

「だから買った」

 

「ありがとうございます」

 

「勘違いするなよ」

 

「はい」

 

 リリスは笑った。

 

「分かっています」

 

 その笑顔を見ながら。

 

 所長も、ほんの少しだけ笑った。

 

 首にしたことも。

 

 離れていた数日間も。

 

 今となっては、少しずつ笑い話に変わり始めていた。

 

 ただ。

 

 リリスはまだ時々。

 

 所長にあの時のことを思い出させるつもりだった。

 

 ――もちろん。

 

 今度は、少しだけ意地悪に。

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