午後のアランスミシー探偵事務所。
所長はいつもの椅子にふんぞり返っていた。
片足を机に乗せ、新聞を広げ、煙草をくわえている。
机の上には冷めたコーヒー。
その横には、朝から放置されたパンが一切れ。
リリスは向かいの机で帳簿を整理していた。
紙をめくる音。
万年筆が走る音。
そして所長の煙草の煙。
いつもの事務所だった。
「……腹減ったな」
突然、所長が言った。
リリスは顔を上げない。
「朝食は?」
「食った」
「何を?」
「パン」
「それだけですか?」
「酒も飲んだ」
リリスの手が止まった。
「朝から?」
「朝だからだ」
「その理屈は理解できません」
「俺にも分からん」
所長は新聞を畳んだ。
そして腹をさする。
「なんか、まともな飯が食いてえ」
「まともな飯?」
「ああ」
「例えば?」
「……知らん」
「……」
「こう……」
所長は腕を組み、しばらく考える。
「家庭料理ってやつだ」
リリスが顔を上げた。
「家庭料理ですか」
「そうだ」
「所長がその言葉を知っていることに驚きました」
「俺だって知ってる」
「最後に食べたのは?」
「……」
「?」
「忘れた」
リリスは小さく息を吐いた。
「そうですか」
「なんだ」
「いえ」
リリスは帳簿を閉じた。
「私が作りましょうか」
所長が顔を上げた。
「お前、料理できんのか?」
「できます」
「へえ」
「何です、その反応は」
「いや。秘書が料理できるとは知らなかった」
「私は所長の身の回りの世話をするためにいるわけではありません」
「そうなのか?」
「そうです」
「じゃあ何で作ってくれるんだ?」
「……」
リリスは少しだけ黙った。
「所長があまりにも酷い食生活をしているからです」
「なるほど」
「納得しないでください」
所長は笑った。
「じゃあ頼む」
「材料がありません」
「買ってくるか」
「そうしましょう」
所長が立ち上がる。
「俺も行く」
「荷物持ちですね」
「そうだ」
「珍しく役に立つ気になったんですね」
「お前な……」
二人は事務所を出た。
*
買い物を終えて戻ってくると、リリスは事務所の小さな厨房に立った。
肉。
野菜。
ジャガイモ。
玉ねぎ。
パン。
それからスープの材料。
所長はその後ろで椅子に座っている。
「何作るんだ?」
「煮込み料理です」
「肉か?」
「肉も入ります」
「よし」
「子供ですか?」
「腹が減ってんだよ」
リリスは呆れたように息を吐いた。
包丁を握る。
玉ねぎを切る。
肉を切る。
鍋に油を引く。
ジュッ、と肉が焼ける音がした。
香ばしい匂いが広がる。
所長の鼻が動いた。
「……いい匂いだな」
「まだです」
「味見」
「まだです」
「一口」
「駄目です」
「ケチ」
「待てないんですか?」
「待てる」
「では待ってください」
「分かった」
所長は椅子に座り直した。
だが、数分もしないうちにまた、
「まだか?」
「まだです」
さらに数分。
「……まだか?」
「所長」
「なんだ」
「子供より質が悪いですよ」
「腹減ってんだよ」
「さっき聞きました」
リリスは呆れながら鍋をかき混ぜる。
その横顔を見ながら、所長は煙草を消した。
「……なあ」
「はい?」
「こういうの、よく作ってたのか?」
「料理ですか?」
「ああ」
「昔は」
リリスは鍋を見つめた。
「母が料理をしていましたから」
所長は何も言わなかった。
リリスもそれ以上は話さなかった。
ただ、鍋をかき混ぜる。
しばらくして、
「……戦争が終わる少し前だったんです」
ぽつりとリリスが言った。
所長は顔を上げた。
「十六の時でした」
リリスは淡々と続ける。
「戦争の終盤は、どこも混乱していましたから」
「……」
「人が移動して、街も壊れて。連絡も取れなくなって」
鍋の中で肉がゆっくり煮えている。
「両親とは、そこで離れました」
所長は何も言わない。
「その後、休戦になっても、すぐに元通りになるわけではありませんでした」
リリスは淡々と話していた。
まるで他人の昔話をするように。
「その頃、所長に拾われました」
「……ああ」
所長は煙草を取り出しかけた。
だが、やめた。
「覚えてる」
「そうですか」
「俺もあの頃は色々あったからな」
軍事裁判から逃げ、魔族の国に潜伏していた。
それは二人にとって、もうずっと昔の話だ。
「……でも」
リリスが鍋をかき混ぜる。
「両親とは、後で再会できました」
「ああ」
「魔族の国へ行った時に」
「覚えてる」
「父も母も元気でした」
リリスはほんの少しだけ笑った。
「所長を見た時の父の顔は、今でも忘れません」
「……なんでだ」
「娘を拾った男が、あんな巨大なオーガだとは思っていなかったのでしょう」
「失礼な親だな」
「母はもっと酷かったですよ」
「何て言った?」
「『あなた、この子をちゃんと食べさせているでしょうね』と」
所長が黙った。
「……」
リリスは少しだけ笑った。
「所長?」
「……俺はちゃんと食わせてた」
「パンと酒で?」
「……」
「そうでしょうね」
リリスが小さく笑った。
その笑い声は、普段より少し柔らかかった。
*
やがて料理が完成した。
テーブルに皿が並ぶ。
肉と野菜の煮込み。
スープ。
焼いたパン。
簡単なサラダ。
所長は椅子に座る。
「……」
料理を見ている。
「どうしました?」
「いや」
所長は少しだけ目を細めた。
「こういうのか」
「何がです?」
「家庭料理」
リリスは少しだけ考えた。
「……たぶん、そうですね」
二人で席につく。
「いただきます」
所長が手を合わせる。
リリスが少し驚いた顔をした。
「何だ」
「いえ」
「食わねえのか?」
「食べます」
リリスも手を合わせる。
「いただきます」
二人で料理を口にする。
所長はまず肉を食べた。
しばらく噛む。
そして、
「……うまい」
短い一言。
「そうですか」
「ああ」
もう一口。
「うまい」
「二回言わなくても分かります」
「二回言いたいくらいうまい」
「……そうですか」
リリスは少しだけ口元を緩めた。
所長は黙々と食べ始める。
いつものように酒を飲むこともない。
煙草にも手を伸ばさない。
ただ、料理を食べている。
リリスはそんな所長を眺めた。
ふと。
昔のことを思い出す。
十六歳だった頃。
戦争の終わり。
家族と離れ離れになった日。
その後の混乱。
知らない街。
知らない人々。
そして――
自分を拾った、巨大なオーガ。
あの頃は、この男がこんなにも長く自分の人生に関わることになるなんて思っていなかった。
家族と再会できるとも思っていなかった。
そして今。
自分はこの男と同じ机で食事をしている。
「……」
「どうした?」
所長が聞いた。
「いえ」
リリスは首を振った。
「なんでもありません」
「そうか」
所長はまた肉を口に入れた。
「これ、また作ってくれ」
「……」
「何だ?」
「所長は、こういうところだけ素直ですね」
「うまいもんはうまいだろ」
「そうですね」
リリスはスープを一口飲んだ。
「では、また作ります」
「おう」
「ただし」
「ん?」
「次は所長も手伝ってください」
「俺が?」
「はい」
「嫌だ」
即答だった。
リリスは無表情で所長を見る。
「……」
「……」
「では、次から自分で作ってください」
「分かった。手伝う」
「最初からそう言えばいいんです」
所長は鼻を鳴らした。
「面倒くせえな、お前」
「誰のために言っていると思っているんですか」
「俺のためだろ?」
「……」
リリスは一瞬だけ黙った。
「そういうところですよ」
「何が?」
「何でもありません」
所長は首を傾げた。
食事が終わる。
リリスが食器を片付ける。
所長は椅子に座ったまま、満腹そうに腹をさする。
「……」
「どうしました?」
「いや」
所長は事務所を見回した。
いつもの散らかった机。
銃。
書類。
酒瓶。
煙草。
その中に、まだ料理の匂いが残っている。
「……悪くねえな」
「何がです?」
「こういうの」
所長は少しだけ笑った。
「事務所で飯食うのも」
リリスはその言葉を聞いて、静かに笑った。
「そうですね」
それだけだった。
けれど、その日のアランスミシー探偵事務所には。
いつもの煙草と酒の匂いだけではなく、
温かい料理の匂いが残っていた。
そして二人の食卓は、翌日からほんの少しだけ――
事務所の日常になった。