第七十話 故郷からの巻物
午後。
アランスミシー探偵事務所には、いつものように煙草の煙が漂っていた。
窓は半分ほど開いている。
それでも、長年染みついた煙草の臭いはそう簡単には抜けない。
所長は自分の机にふんぞり返り、薄汚れた白いシャツの袖を肘までまくり上げていた。
片手には新聞。
もう片方の手には酒。
昼間から酒を飲みながら新聞を読む姿は、探偵というより山賊の頭領に近い。
その向かいでは、リリスが大量の書類を整理していた。
黒髪を後ろでまとめ、眼鏡をかけた長身の魔族。
白いシャツとパンツルックという簡素な服装ながら、所長とは正反対の清潔感がある。
「所長」
「ん?」
「この請求書ですが」
「後で見る」
「昨日もそう言っていました」
「今日の俺は昨日の俺よりやる気がない」
「威張って言うことではありません」
「そうか?」
「はい」
リリスは淡々と書類を机の端へ置いた。
所長は新聞から顔を上げない。
「なあ、リリス」
「なんです?」
「それ、今日中に終わるか?」
「所長が仕事をすれば終わります」
「じゃあ無理だな」
「……」
リリスは無言で所長を見た。
所長は新聞の陰からちらりと彼女を見る。
「なんだよ」
「いえ」
「怖いぞ」
「元からです」
「そうだったな」
そんな、いつもの昼下がりだった。
――その時。
コンコン。
事務所の扉が叩かれた。
「はい」
リリスが立ち上がる。
扉を開けると、そこには一人のオーガが立っていた。
所長ほどではないが、かなり大柄な男だった。
「届け物だ」
「どちらからですか?」
「鬼嶺国からだ」
「鬼嶺国……?」
リリスが首を傾げる。
男は懐から一本の筒を取り出した。
細長い木製の筒。
その中には丸められた紙が入っているらしい。
「事務所宛てだ」
「分かりました」
リリスは受け取った。
「ありがとうございます」
男はそれだけ告げると、去っていった。
扉が閉まる。
リリスは手元の筒を見つめた。
「所長」
「なんだ?」
「鬼嶺国からです」
「……」
新聞が少し下がった。
「俺に?」
「事務所宛てです」
「嫌な予感しかしねえな」
「開けますよ」
「勝手にしろ」
リリスは筒の蓋を外す。
中から一枚の紙が出てきた。
巻物。
見慣れない文字がびっしりと並んでいる。
「……」
「どうした?」
「読めません」
「は?」
「文字が違います」
所長は面倒そうに新聞を畳んだ。
「貸せ」
「読めるんですか?」
「俺の国の文字だぞ」
「そうでしたね」
所長は巻物を受け取った。
そして、しばらく文字を追う。
最初は面倒そうだった。
だが。
数行進んだところで、所長の顔から少しずつ笑みが消えていく。
「……あいつらときたら」
「何と書いてあるんです?」
「実家だ」
「実家?」
「ああ」
所長は紙を読み進める。
「親族の集まりがあるらしい」
「それは……」
リリスが少し身を乗り出した。
「大切な集まりなのでは?」
「俺には面倒な集まりだ」
「ご家族からの手紙ですよ?」
「だから面倒なんだよ」
所長は舌打ちする。
「帰ってこいだとよ」
「いつまでに?」
「できるだけ早く」
「なるほど」
「それから……」
所長の目が紙の下へ移る。
「……」
「何です?」
「顔合わせ」
「誰との?」
「……」
所長は露骨に嫌そうな顔をした。
「婚約者との顔合わせだと」
「……」
リリスの手が止まった。
「婚約者?」
「ああ」
所長は何でもないように答える。
「そう書いてある」
「……そうですか」
「実家で親族が集まって、ついでに婚約者と顔合わせしろって話らしい」
「……」
「面倒だな」
「……そうですね」
リリスの声は、いつもと変わらなかった。
表情も変わらない。
しかし。
手に持っていた書類の端が、僅かに歪んでいた。
「どうした?」
「何がです?」
「いや」
所長は首を傾げる。
「さっきから静かじゃねえか」
「私はいつも静かです」
「そうだったな」
所長はまた巻物へ目を落とす。
「昔の話なんだろ」
「昔?」
「ああ」
「婚約というのは?」
「俺が軍にいた頃じゃねえか」
「……」
「家同士で勝手に話を進めたんだろ」
「では、所長自身が望んだわけでは?」
「ない」
「そうですか」
リリスは頷いた。
「その方とは?」
「会ったことねえ」
「……」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺が国を出たのが昔すぎて、もう何がどうなってるか知らん」
「婚約は?」
「知らん」
「現在も続いている可能性は?」
「あるんじゃねえか?」
「……」
リリスの眼鏡が、窓から入る光を反射する。
表情は見えない。
「女性ですか?」
「……だろうな」
「名前は?」
「ここに書いてある」
「教えてください」
「なんで?」
「確認です」
「何の?」
「事務所の人間関係の確認です」
「絶対違うだろ」
「……」
「なんだよ、その顔」
「何でもありません」
「怒ってる?」
「怒っていません」
「そうか」
「はい」
リリスは書類を一枚取る。
だが。
その紙を整理する手つきが、いつもより少し強い。
角を揃える。
机に置く。
また別の紙を取る。
揃える。
置く。
その動作が妙に荒い。
「……」
所長は気づいていた。
ただ、あえて何も言わない。
リリスはさらに尋ねる。
「その方は、所長のことを待っているのでしょうか」
「知らん」
「婚約していたなら、待っていた可能性も?」
「さあな」
「では、所長が国を出たことで婚約が破棄された可能性は?」
「それも知らん」
「……」
「なんだよ」
「いえ」
リリスは少しだけ視線を落とす。
胸の奥に、妙な感覚が広がっていた。
嫌だった。
理由は分かっている。
婚約者。
その言葉が嫌だった。
所長に、自分の知らない女性がいる。
それだけならまだいい。
だが。
その女性は、所長が自分を拾うよりずっと前。
戦争中から続いているかもしれない関係なのだ。
リリスが知らない所長の過去。
リリスが隣にいなかった頃の所長。
その頃から、所長には「婚約者」がいた。
そう考えると。
胸の奥が妙にざわつく。
自分が所長の隣にいるのは当たり前だと思っていた。
十六歳の頃。
戦争で両親と離れ離れになり、何も持たなかった自分を拾ってくれた。
それからずっと。
所長の隣にいた。
助手として。
相棒として。
そして――。
最近では、それだけではない感情も自覚している。
だからこそ。
突然現れた「婚約者」という存在が、妙に気に障った。
「……」
リリスは自分でも少し驚いていた。
こんな感情を抱くとは思っていなかった。
しかし。
所長が巻物を見ながら、
「顔合わせか……」
と呟いた瞬間。
胸の奥が、また嫌な音を立てた。
「……所長」
「ん?」
「その方と、結婚するおつもりですか?」
「は?」
所長が顔を上げる。
「いや、だから知らんって」
「でも婚約者なのでしょう?」
「昔の話だ」
「現在は?」
「分からん」
「……」
「なんでそんなに聞くんだ?」
「確認です」
「またそれか」
「はい」
所長はしばらくリリスを見る。
「……」
「……」
「お前」
「はい」
「嫉妬してる?」
「していません」
即答だった。
だが。
その声だけが、ほんの少し強かった。
「そうか?」
「はい」
「じゃあなんでそんな怖い顔してんだ?」
「元からです」
「それも二回目だぞ」
「事実です」
「……」
所長は頭を掻いた。
「面倒くせえな」
「誰のせいでしょうね」
「俺か?」
「そうでしょうね」
「なんでだよ」
「分からないなら結構です」
「……」
所長は完全に困った顔をした。
こういう時だけ、銃撃戦より女の方が面倒だった。
「まあいい」
所長は巻物を畳む。
「俺は行かねえ」
「……え?」
「面倒だからな」
「ですが」
「親族の集まりだぞ?」
「そうですが」
「昔の連中に囲まれて、昔の話をされて、知らん女と顔合わせだ」
「……」
「酒もまずそうだ」
「そこですか?」
「重要だ」
リリスは呆れた。
だが。
少しだけ胸の奥が軽くなった。
所長自身は行きたくない。
少なくとも、婚約者に会いたくて帰るわけではない。
そう思っただけで、先ほどまでの苛立ちが僅かに和らぐ。
その変化を、自分自身で認識してしまう。
「……」
「リリス」
「はい」
「コーヒーくれ」
「……」
「ん?」
「コーヒーですか?」
「ああ」
所長は逃げるように新聞へ手を伸ばした。
「頭が疲れた」
「そうですか」
「頼む」
「……分かりました」
リリスは静かに立ち上がる。
そして給湯室へ向かう。
数分後。
コーヒーを淹れたカップを持って戻ってきた。
所長は何も考えずに手を伸ばす。
「おう、ありが――」
ガンッ!!
コーヒーカップが机に叩きつけられた。
コーヒーが僅かに跳ねる。
「……」
「……」
所長の手が止まる。
「どうぞ」
「……」
「コーヒーです」
「……お前」
「何です?」
「怒ってるだろ」
「怒っていません」
「今の置き方は怒ってる奴のそれだぞ」
「気のせいです」
「カップ割れるぞ」
「割れていません」
「そういう問題じゃねえ」
リリスは無表情のまま所長を見る。
「飲んでください」
「……おう」
所長は恐る恐るカップを持つ。
一口。
「……」
「どうです?」
「苦い」
「いつもと同じです」
「今日だけやけに苦い」
「気のせいです」
「絶対違うだろ」
リリスは所長から視線を逸らした。
その耳が。
ほんの少しだけ赤い。
「……」
所長はそれを見て、ようやく理解し始める。
「お前、やっぱり――」
「言わないでください」
「……」
「今は、言わないでください」
珍しく。
リリスの声に弱さが混じった。
所長は黙った。
リリスは自分でも分かっていた。
嫉妬している。
くだらないと思う。
所長は自分のものではない。
婚約者がいたとしても、それは自分が口を挟むことではない。
それなのに。
嫌だった。
胸の奥がざわつく。
自分の知らない女が、所長の「婚約者」と呼ばれていることが。
「……」
所長はコーヒーを一口飲む。
「まあ」
「はい」
「婚約してたとしても、昔の話だろ」
「……」
「俺はその女を知らん」
「……そうですか」
「ああ」
「……」
「だから、そんな怖い顔するな」
「していません」
「してる」
「していません」
「分かった分かった」
所長は苦笑する。
「面倒だから、鬼嶺国には行かねえ」
「……」
リリスは少しだけ顔を上げた。
「本当に?」
「ああ」
「親族の集まりなのに?」
「面倒」
「婚約者との顔合わせも?」
「面倒」
「……」
「酒もまずそうだしな」
「そこは関係ないでしょう」
「俺には重要だ」
リリスは呆れた。
それでも。
少しだけ安心した。
「……分かりました」
「おう」
所長は新聞を開く。
リリスも書類へ戻る。
いつもの事務所。
いつもの二人。
ただ。
机の上には、まだ鬼嶺国から届いた巻物が置かれている。
そして。
その巻物には、所長がまだ知らない面倒事が一つ。
リリスにとっては、それ以上に気になる存在が一つ。
――「婚約者」。
その文字だけが。
二人の間に、妙な緊張を残していた。