第七十二話 竹林の国
鬼嶺国へ向かうことが決まってから、二日。
アランスミシー探偵事務所では、朝から荷造りが行われていた。
「着替え」
リリスが鞄へ衣類を詰める。
「洗面用具」
続いて小さな袋を入れる。
「簡単な医療用品」
「そんなにいるか?」
机に座り、煙草を咥えた所長が口を挟む。
「必要です」
「俺はいらんぞ」
「私が使うんです」
「ならいい」
所長は興味を失ったように新聞へ目を戻した。
リリスはさらに荷物を確認する。
「調査用の書類」
「実家に帰るだけだぞ」
「所長が行く以上、何か起こる可能性を考えておく必要があります」
「俺を何だと思ってる?」
「トラブルメーカーです」
「……」
所長は反論しなかった。
リリスは最後に鞄を閉じる。
「準備できました」
「よし」
所長が立ち上がる。
そして腰へ拳銃を差し込む。
さらに予備の弾薬を確認する。
「……」
リリスがじっと見る。
「何だ?」
「旅行ですよね?」
「ああ」
「なぜ拳銃を?」
「用心だ」
「鬼嶺国のご家族に会いに行くだけですよ?」
「家族ほど信用できねえ奴はいねえ」
「酷い言い方ですね」
「経験談だ」
所長は煙草を灰皿へ押しつける。
「行くぞ」
「はい」
*
二人は車に乗り込んだ。
運転席には所長。
助手席にはリリス。
荷物を積み込んだ車が、アランスミシー探偵事務所を離れていく。
「鬼嶺国までは?」
「二日くらいだ」
「車で?」
「途中までな」
「途中まで?」
「ああ」
所長はハンドルを握りながら答える。
「鬼嶺国は山の奥だ」
「道路は?」
「ある」
「あるんですか?」
「国の中心部にはな」
「では、車で入れるのでは?」
「最後まで行けるとは言ってねえ」
リリスは首を傾げた。
「どういうことです?」
「昔からあの国は、山の中に街を作ってるんだ。国の近くまでは道路がある。だが、最後の山道は昔のままだ」
「なるほど」
「車を使うようになったのも比較的新しいからな」
「鬼嶺国にも自動車はあるんですね」
「ある。街じゃ普通に走ってる」
「少し意外です」
「俺がいた頃より、ずっと増えてるだろうな」
所長は煙草を咥えた。
「ただ、あの山道だけは昔のままだ」
「景観を守っているのでしょうか」
「知らん」
「所長の故郷ですよね?」
「だから知らんものは知らん」
「そうですか」
「……」
「楽しみですね」
「俺は全然楽しみじゃねえ」
「でしょうね」
車は街道を進んでいった。
*
初日はひたすら走った。
人間の国の街並みが消え、田園地帯へ入る。
やがて道は山間部へ続いていった。
夕方になる頃には、周囲に人家もほとんどなくなっていた。
それでも車は進み続ける。
夜になる前に、山道沿いの小さな宿へ入り、一泊する。
翌朝。
二人は再び車へ乗り込んだ。
*
二日目。
山道は昨日よりさらに険しくなっていた。
道幅が狭くなる。
木々が車体へ迫る。
そして昼を過ぎた頃。
所長が急にブレーキを踏んだ。
車が止まる。
「……」
所長が前を見る。
そこから先にも道は続いている。
しかし。
舗装されていない。
竹林の間を縫うように、古い石畳の道が伸びているだけだった。
「……ここまでか」
「ここから徒歩ですか?」
「ああ」
所長が車から降りる。
周囲を見回す。
「……」
そして。
「このクソ田舎、まだ道路すら通ってねえのか」
「道路はありますよ」
「これを道路って言うのか?」
「一応、道です」
「車が走れねえだろ」
「鬼嶺国には自動車があるのでしょう?」
「ある」
所長は吐き捨てる。
「街じゃ普通に走ってる」
「では、なぜここは?」
「山道が狭いんだよ」
所長は車の荷物を確認する。
「昔からここは変わってねえ」
「景観を守るためでしょうか?」
「知らん」
「……」
「車はある。道路もある。なのに最後だけ徒歩だ」
「随分文句を言いますね」
「故郷だから文句があるんだよ」
所長は荷物を背負う。
「ここからなら、夕方までには着く」
「分かるんですか?」
「俺の故郷だぞ」
「失礼しました」
「分かればいい」
二人は歩き始めた。
*
最初のうちは順調だった。
石畳の道。
竹で作られた柵。
ところどころに古い石灯籠。
竹林の中を風が抜けるたび、葉が擦れ合ってさらさらと音を立てる。
所長は歩きながら、ひたすら文句を言っていた。
「この道、昔から狭かったんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ」
「でも綺麗ですね」
「虫が多い」
「……」
「夏は暑い」
「……」
「冬は寒い」
「……」
「雨が降ると滑る」
「所長」
「なんだ?」
「故郷を嫌いすぎでは?」
「好きだから文句言ってんだよ」
「そういうものですか?」
「そういうもんだ」
さらに歩く。
一時間。
二時間。
次第にリリスの歩調が遅くなっていった。
所長は振り返る。
「疲れたか?」
「少しだけです」
「少しじゃねえだろ」
「まだ歩けます」
「無理すんな」
「大丈夫です」
所長はしばらく黙って歩いた。
そして突然、足を止める。
「乗れ」
「……はい?」
「肩」
「いえ、大丈夫です」
「疲れてるだろ」
「ですが――」
「俺は平気だ」
所長はしゃがむ。
「早くしろ」
「……」
リリスは少し迷った。
それから所長の肩へ手を置く。
「失礼します」
「おう」
リリスが乗る。
所長は軽々と立ち上がった。
「……重くないですか?」
「お前一人くらいで重いわけねえだろ」
「そうですか」
「ああ」
そのまま歩き始める。
リリスは所長の肩の上から竹林を見渡す。
どこまでも続く竹。
緑の隙間から差し込む柔らかな光。
湿った土の匂い。
遠くから聞こえる鳥の声。
「綺麗ですね」
「そうか?」
「はい」
「昔は鬱陶しかったぞ」
「なぜです?」
「どこ見ても竹だからな」
「子供らしいですね」
「うるせえ」
所長は歩きながら、さらに文句を続ける。
「それに虫が多い」
「まだ言ってますね」
「道も悪い」
「はい」
「車も入れねえ」
「はい」
「酒屋まで遠い」
「……」
「何だ?」
「そこが一番重要なんですね」
「当然だ」
リリスは小さく笑った。
*
夕方。
竹林の向こうから、音が聞こえてきた。
金属を打つ音。
人々の話し声。
どこかから流れてくる酒の匂い。
所長が目を細める。
「近いな」
「もうすぐですか?」
「ああ」
さらに進む。
竹林が少しずつ開けていく。
そして。
その先に街が現れた。
「……」
リリスが息を呑む。
そこには、竹林に包まれるようにして作られた街が広がっていた。
木造の家々。
瓦屋根。
石畳の通り。
竹を組んだ塀。
軒先に吊るされた提灯。
古い石灯籠。
街のあちこちから漂う料理や酒の香り。
鍛冶屋からは火花が飛び、金属を打つ音が響いている。
大柄なオーガたちが、着物や作務衣を着て歩いている。
その一方。
街の大通りには自動車も走っていた。
魔石を動力にした車。
ガソリン車。
古い荷車。
それらが混ざり合い、独特の街並みを作っている。
文明は確かに進んでいる。
だが。
竹林と古い家屋。
昔ながらの文化。
それらも消えていない。
まるで。
新しい時代を、古い国の中へ無理やり同居させたような街だった。
「……綺麗ですね」
リリスが呟く。
「そうか?」
所長はしばらく街を眺めていた。
「……変わったな」
「懐かしいですか?」
「ああ」
ほんの少しだけ。
所長の表情が柔らかくなる。
だが。
「でも道はクソだ」
「またですか」
「そこは変わってねえ」
「……」
リリスは笑った。
街を抜ける。
さらに奥へ進む。
すると。
竹林の中に、大きな屋敷が見えてきた。
高い塀。
大きな門。
瓦屋根。
敷地の周囲を囲む竹林。
門へ続く道の両側には、古い石灯籠が並んでいる。
「……あれが?」
「ああ」
所長が答えた。
「俺の実家だ」
リリスは屋敷を見つめる。
「大きいですね」
「嫌いだ」
「即答ですね」
「あそこに入ったら面倒なことしか起きねえ」
「でも、ご家族が待っています」
「だから嫌なんだよ」
所長は深いため息を吐いた。
それでも。
足は止めない。
肩にはリリスを乗せたまま。
竹林の中を進んでいく。
「所長」
「ん?」
「連れてきてくれて、ありがとうございます」
「別に」
「はい」
「お前が行きたいって言ったからだ」
「それでもです」
「……」
所長は答えなかった。
ただ。
ほんの少しだけ歩く速度を落とした。
竹の葉が風に揺れる。
夕暮れの光が二人を包む。
そしてその先には。
何年も帰っていなかった、所長の故郷と実家が待っていた。