アランスミシー探偵事務所の事件簿   作:山門門山

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case8 リリスの交渉

第二話 酒場の売人

 

 夕暮れが近づくにつれ、酒場の客は少しずつ入れ替わっていった。

 

 仕事帰りの労働者。

 

 昼間から飲んでいた酔漢。

 

 そして、これから夜の仕事へ向かうらしい男たち。

 

 そんな雑多な人間が入り混じる酒場のカウンターで――。

 

「……」

 

 所長は完全に潰れていた。

 

 巨大な身体をカウンターに預け、両腕を枕にして眠り込んでいる。

 

「……死んでないよな?」

 

 女刑事が恐る恐る尋ねる。

 

「寝ているだけです」

 

 リリスは所長の首筋に手を当てた。

 

「呼吸もあります」

 

「よかった……」

 

「ただ」

 

「ただ?」

 

「しばらく使い物にならないでしょうね」

 

「見れば分かる」

 

 女刑事は深いため息をついた。

 

 普段の所長なら、酒を何杯飲もうが多少ふらつく程度で済む。

 

 戦場仕込みの頑丈な身体は、酒程度ではそう簡単に倒れない。

 

 だが今日は違った。

 

 大量の酒。

 

 そして薬。

 

 それを短時間で身体へ叩き込んだ結果、さすがの所長も完全に沈んでいる。

 

「……ん」

 

 所長が小さく呻いた。

 

「所長?」

 

「……肉……」

 

「はい?」

 

「……肉食いたい……」

 

「寝ていてください」

 

「……」

 

 再び眠る。

 

 女刑事は呆れた顔をした。

 

「本当にこいつ、これで元軍人なんだよな?」

 

「ええ」

 

「しかも探偵事務所の所長」

 

「ええ」

 

「……世の中間違ってるだろ」

 

 リリスは答えなかった。

 

 代わりに、所長の懐を探る。

 

 拳銃。

 

 予備弾。

 

 財布。

 

 そして先ほどの薬。

 

 それらを一通り回収した。

 

「武器は預かります」

 

「まあ、それがいい」

 

「薬もです」

 

「当然だ」

 

 女刑事は所長を見る。

 

「起こすか?」

 

「無理でしょう」

 

「一応試すか」

 

 女刑事が肩を叩いた。

 

「おい、起きろ」

 

「……」

 

「仕事だぞ」

 

「……仕事……?」

 

 所長の目が僅かに開いた。

 

「……誰だ、お前」

 

「私だよ!」

 

「……そうか」

 

 安心したように目を閉じる。

 

「……じゃあ寝る」

 

「おい!」

 

 完全に駄目だった。

 

 リリスは眼鏡を押し上げた。

 

「本日は戦力外と考えましょう」

 

「賛成だ」

 

「むしろ、ここで寝ていてもらった方がいいかもしれません」

 

「邪魔にならないしな」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 そして、視線を酒場の入口へ戻す。

 

 その時だった。

 

 扉が開いた。

 

 一人の男が入ってくる。

 

 四十代ほど。

 

 黒い外套。

 

 深く被った帽子。

 

 男は店内を一度見回した。

 

 そしてカウンターへ向かう。

 

 店員に何かを告げる。

 

 店員が頷いた。

 

 男は酒を注文し、カウンター席へ腰を下ろす。

 

「……」

 

 リリスは男を見た。

 

 先ほどの灰色の帽子の男とは違う。

 

 だが、店員の反応が妙だった。

 

 女刑事が小声で尋ねる。

 

「こいつか?」

 

「分かりません」

 

「でも怪しい」

 

「ええ」

 

 男は酒を一口飲み、周囲を見回した。

 

 そして――。

 

 リリスと目が合った。

 

 ほんの一瞬。

 

 男は何事もなかったように視線を逸らした。

 

「……来ますね」

 

 リリスが呟いた。

 

 しばらくして、男は二人の席へ近づいてきた。

 

「薬を探してるのは、あんたたちか?」

 

 リリスは男を見上げる。

 

「ええ」

 

「白い奴か?」

 

「そうです」

 

 男はカウンターで眠る所長を見る。

 

「……あいつが欲しがってるのか?」

 

「私の連れです」

 

「随分と飲んでるな」

 

「少し飲みすぎまして」

 

「少し?」

 

 男は苦笑した。

 

「そうは見えねえけどな」

 

「否定はしません」

 

 男は向かいの席へ腰を下ろした。

 

 懐から小袋を取り出し、机の上へ置く。

 

「十ゴールド」

 

 リリスは袋を見る。

 

「高いですね」

 

「上物だ」

 

「そうですか」

 

「買うのか?」

 

「その前に、少し聞きたいことがあります」

 

「何だ?」

 

「あなたが作っているんですか?」

 

「まさか」

 

 男は即答した。

 

「俺は運んでるだけだ」

 

「どこから?」

 

「知らねえ」

 

「誰から受け取るんです?」

 

「それも知らねえ」

 

 リリスは黙った。

 

 男の態度は先ほどまでの軽いものとは違う。

 

 ここから先は危険だと理解している。

 

「随分と口が堅いんですね」

 

「長生きしたいんでね」

 

「賢明です」

 

 リリスは懐へ手を入れた。

 

 そして金貨を一枚、机へ置く。

 

 小さな金属音が鳴った。

 

 男の視線が金貨へ落ちる。

 

「これは?」

 

「情報料です」

 

「……」

 

「質問は一つだけにします」

 

 男は金貨を取った。

 

「一つだけだ」

 

「どこから受け取るんです?」

 

「港だ」

 

「どの辺り?」

 

「第七埠頭」

 

 リリスは頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

 男は金貨を懐へしまう。

 

「これ以上は話さねえぞ」

 

「分かっています」

 

 リリスはもう一枚、金貨を取り出した。

 

 男の目が細くなる。

 

「……随分と気前がいいな」

 

「もう一つだけ」

 

「何だ?」

 

「受け渡しの目印は?」

 

 男は黙った。

 

 リリスは急かさない。

 

 ただ、金貨を指先で軽く弾く。

 

 金属音が静かなテーブルの上で響いた。

 

「……黒い鷲だ」

 

「黒い鷲?」

 

「木箱に焼き印がある」

 

「箱に?」

 

「ああ」

 

「それだけですか?」

 

「それだけだ」

 

 リリスは金貨を男へ滑らせた。

 

「ありがとうございます」

 

 男は金貨を取る。

 

「……あんた、本当に探偵か何かか?」

 

「似たようなものです」

 

 リリスは所長を見る。

 

「本人はあまり役に立ちませんが」

 

 男も所長を見る。

 

「寝てるじゃねえか」

 

「ええ」

 

「薬を欲しがってたんじゃなかったのか?」

 

「欲しがっていました」

 

「じゃあ、あいつに聞けよ」

 

「今は聞けません」

 

「なんで?」

 

「寝ているからです」

 

 男は一瞬黙り、それから吹き出した。

 

「ははっ……面白い連れだな」

 

「よく言われます」

 

 リリスはさらに金貨を一枚置いた。

 

「最後に一つ」

 

「まだあるのか?」

 

「これで最後です」

 

 男は金貨を見る。

 

「最近、この薬の流通量が増えていませんか?」

 

 男の表情が変わった。

 

「……」

 

「答えられる範囲で結構です」

 

 長い沈黙。

 

 やがて男は金貨を取った。

 

「……増えた」

 

「どのくらい?」

 

「以前の倍以上だ」

 

「理由は?」

 

「知らねえ」

 

「誰かが意図的に増やしている?」

 

「たぶんな」

 

「運び屋は増えましたか?」

 

「ああ」

 

「何人くらい?」

 

「そこまでは知らない」

 

「あなたをまとめている人間は?」

 

「知らねえ」

 

「指示は?」

 

「紙だ」

 

「手紙?」

 

「ああ。時間と場所、それから量が書いてある」

 

「誰が書いているかは?」

 

「知らない」

 

 リリスは少し考えた。

 

「では、あなたは誰から薬を受け取るんです?」

 

「港だ」

 

「人間から?」

 

「たぶん」

 

「顔は見ない?」

 

「夜中だ。顔なんか見えねえよ」

 

「倉庫は?」

 

「……」

 

 男が黙った。

 

「どこか決まった倉庫がありますか?」

 

「時々、港から少し離れた倉庫を使う」

 

「番号は?」

 

「二十七番」

 

 リリスの目が細くなった。

 

「倉庫二十七番」

 

「ああ」

 

「そこにも黒い鷲の印が?」

 

「ある」

 

「分かりました」

 

 男は小さく息を吐いた。

 

「もう十分だろ」

 

「はい」

 

 リリスは頷いた。

 

「最後に一つだけ確認させてください」

 

「まだあるのかよ」

 

「本当に最後です」

 

 男は渋々頷いた。

 

「この薬が急に増えたのは、いつ頃からです?」

 

「……二ヶ月くらい前だ」

 

「二ヶ月」

 

「ああ」

 

「その頃に何か変わったことは?」

 

「……」

 

 男はしばらく考える。

 

「港の倉庫が一つ、丸ごと借りられた」

 

「誰に?」

 

「知らねえ」

 

「名前は?」

 

「偽名だった」

 

「何か覚えていますか?」

 

 男は眉を寄せる。

 

「確か……外国人が何人かいた」

 

「人間?」

 

「分からない」

 

「他には?」

 

「軍用品みたいな箱も運び込まれてた」

 

 リリスと女刑事が顔を見合わせる。

 

「軍用品?」

 

「ああ」

 

「何の?」

 

「弾薬箱みたいなものだった」

 

「薬だけじゃない?」

 

「知らねえ」

 

 男は立ち上がった。

 

「俺は本当にそこまでしか知らねえ」

 

「十分です」

 

 リリスは小袋を受け取った。

 

 男は立ち去る前に、二人を振り返った。

 

「忠告しておく」

 

「何でしょう?」

 

「深入りしない方がいい」

 

「……」

 

「俺たちは下っ端だ。金をもらえば少しは喋る」

 

 男は自嘲するように笑った。

 

「だが、上の連中は違う」

 

「どういう意味です?」

 

「金で口を開くような連中じゃないってことだ」

 

 男は帽子を被り直す。

 

「この件から手を引いた方がいい」

 

「ご忠告ありがとうございます」

 

 男はそれ以上何も言わず、酒場を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 女刑事が小さく息を吐いた。

 

「……賄賂でかなり喋らせたな」

 

「情報料です」

 

「同じだろ」

 

「結果として情報が得られました」

 

 リリスは机の上に指を置く。

 

「第七埠頭」

 

 一つ。

 

「黒い鷲の焼き印」

 

 二つ。

 

「倉庫二十七番」

 

 三つ。

 

「二ヶ月前から急増した薬物」

 

 四つ。

 

「そして、外国人らしき人間と軍用品」

 

 女刑事の表情が険しくなる。

 

「薬だけじゃない可能性があるな」

 

「ええ」

 

「軍用品まで絡んでるなら、ただの麻薬密売事件じゃ済まない」

 

「その可能性が高いでしょう」

 

 リリスは静かに頷いた。

 

 そして、カウンターを見る。

 

「……問題は」

 

「何だ?」

 

「所長です」

 

 二人の視線が所長へ向く。

 

 所長はまだ寝ていた。

 

「……」

 

「完全に潰れてるな」

 

「ええ」

 

「起こせるか?」

 

「先ほど試しましたが無理でした」

 

「明日は使えるか?」

 

「分かりません」

 

 その時、所長が寝言を呟いた。

 

「……肉……」

 

 女刑事が目を閉じる。

 

「駄目だな」

 

「はい」

 

「今日はこいつ抜きで帰るか」

 

「そうしましょう」

 

 リリスは所長の拳銃を自分の鞄へしまった。

 

 そして、男から買った小袋を見る。

 

 今夜の聞き込みで、事件は予想以上に大きなものになっていた。

 

 薬物。

 

 港。

 

 黒い鷲。

 

 外国人。

 

 軍用品。

 

 そして二ヶ月前からの急激な流通量の増加。

 

 明日から調べるべき場所は決まった。

 

 まずは――。

 

 第七埠頭と、倉庫二十七番。

 

 リリスは眼鏡を直した。

 

「では、帰りましょう」

 

「所長は?」

 

「私たちで運びます」

 

「……秘書って大変だな」

 

「ええ」

 

 リリスは眠り続ける所長を見た。

 

「本当に、大変です」

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