第七十七話 勝手に決めた嫁
「それで」
客間。
先ほどから黙っていたリリスが、静かに口を開いた。
「どういうことですか?」
「ん?」
所長は千代が淹れてくれた茶を啜っていた。
「何が?」
「何が、ではありません」
リリスの声は穏やかだった。
だが。
目は笑っていない。
「どうして突然、私が所長の嫁なんですか?」
「ああ、それか」
所長は湯呑みを傾ける。
ずずっ。
「なぁーに」
あまりにも気の抜けた声だった。
「これで婚約話はお陀仏だ」
「……」
「簡単だろ?」
リリスは目を細める。
「簡単ではありません」
「なんで?」
「私は婚約者でもありませんし、所長の妻でもありません」
「これからなる」
「勝手に決めないでください」
所長は気にした様子もなく茶を飲む。
「別にいいだろ」
「よくありません」
「婚約を断るためなんだから」
「……」
リリスは言葉を失う。
「そもそも」
所長は何でもないように続けた。
「お前以外に頼む気もなかったし」
「……え?」
その言葉だけは。
妙に自然だった。
打算でもなく。
冗談でもなく。
まるで当たり前のことを口にしたような声だった。
所長自身も。
言ってから、その意味に気づいていない。
「……」
リリスの顔が、じわじわと赤くなる。
「……ずるいです」
「何が?」
「そういうところです」
「?」
所長は首を傾げる。
リリスは俯いた。
「……知りません」
「なんだよ」
「知りません」
それ以上は何も言わなくなった。
耳まで赤くなっている。
「……?」
所長は不思議そうにリリスを見る。
その様子を。
千代は黙って眺めていた。
「……」
やがて。
千代の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
――あの国綱が。
自分から誰かを選んだ。
あの子が軍を辞め。
遠くへ逃げ。
長い間帰ってこなかった。
何を考えて生きているのかさえ分からなかった息子が。
今は、自分の隣にいてほしい相手を決めている。
「……ふふ」
「母さん?」
信綱が千代を見る。
「何でもないわ」
千代は静かに笑った。
「ただ……」
息子を見る。
「少し安心しただけ」
「……」
信綱もリリスを見る。
赤くなって俯いている彼女。
その隣で、何も分かっていない顔をして茶を飲んでいる兄。
「兄さんも」
信綱は小さく息を吐いた。
「これで少しは落ち着いてくれたらいいんだけど」
「何だ?」
「なんでもないよ」
信綱は笑った。
「兄さんが楽しそうだから」
「そうか?」
「うん」
所長は少し考えた。
「まあ……」
湯呑みを眺める。
「ここに来るのは面倒だったが」
「でしょうね」
リリスが小さく返す。
「悪くはねえな」
「……」
リリスの口元がほんの少し緩む。
しかし。
「おい、国綱」
宗綱が低い声を出した。
「ん?」
所長が振り向く。
「貴様」
宗綱の額に青筋が浮かんでいる。
「勝手に話を進めおって……」
「あ?」
「婚約話を潰すために嫁を用意しただと?」
「そういうことだ」
「しかも本人に相談もせず!」
「今してるだろ」
「今さらじゃ!!」
宗綱が怒鳴る。
「そもそも、リリス殿にも家族が――」
「親父」
所長が遮る。
「うるせえ」
「貴様ァ!」
「せっかく茶飲んでるんだ」
「そんなことはどうでもいい!」
「俺には大事なんだよ」
所長は湯呑みを掲げる。
「このクソみたいな実家で、唯一好きだったのは」
一口飲む。
「お袋の茶くらいだ」
「……」
千代が目を丸くする。
信綱も少し驚いた。
宗綱だけが。
「……」
怒りで震えていた。
「お前……」
「なんだ?」
「父親より茶か」
「ああ」
「……」
宗綱は言葉を失った。
所長は気にせず、もう一口飲む。
「やっぱうめえな」
千代が嬉しそうに笑う。
「昔から好きだったものね」
「ああ」
「帰ってきたら、いつも飲んでいたもの」
「そうだったな」
ほんの一瞬。
所長の表情が柔らかくなる。
だが。
すぐにいつもの顔へ戻った。
「酒はクソまずいけどな」
「国綱」
宗綱が睨む。
「何だよ」
「それは私が選んだ酒だ」
「だからクソまずいんだよ」
「貴様……!」
「まあまあ」
千代が二人を制する。
リリスはそんな家族を眺めながら。
先ほどの言葉を思い出していた。
――お前以外に頼む気もなかったし。
胸の奥が。
ほんの少しだけ熱い。
「……」
リリスはそっと湯呑みに口をつける。
その横では。
所長が何も知らずに、旨そうに茶を飲んでいた。
千代はそんな二人を見ながら。
静かに微笑んでいた。
息子の春が。
ようやく来たのかもしれない。
そんなことを思いながら。