第八十話 婚約者
庭では、まだ親子喧嘩が続いていた。
「テメェが勝手に決めた婚約だろうが!」
「だからといって何年も連絡一つ寄越さんとは何事だ!」
「知るか! こっちは軍から逃げ回ってたんだよ!」
「そんなこと私は知らん!」
「だったら黙ってろ、クソジジイ!」
「このクソガキが!」
拳がぶつかる。
鈍い音が庭に響く。
互いに胸倉を掴み、殴り、怒鳴り、また殴る。
長年積み重なった親子の鬱憤を、まるで今になってまとめてぶつけているようだった。
屋敷の庭はすでに惨憺たる有様だった。
石灯籠は砕け、植木は倒れ、土はところどころ抉れている。
それでも二人は止まらない。
「いい加減にしろ!」
「テメェが先にやめろ!」
「親に向かってなんだその口は!」
「親だからって何してもいいと思うな!」
「この――!」
再び拳が飛ぶ。
しかし。
今度は互いに避けることもできず、拳と拳が空を切った。
「……」
「……」
二人とも息を切らしていた。
額には汗。
頬は腫れ。
服は泥だらけ。
それでも互いを睨みつける。
しばらく。
無言の時間が流れた。
やがて。
国綱が大きく息を吐いた。
「……はぁ」
肩を落とす。
そして、面倒そうに頭を掻いた。
「……テメェの言い分も分かった」
宗綱が眉を動かす。
「……何?」
「その婚約者には、俺が頭を下げりゃいいんだろ」
「……」
「分かったよ」
国綱は諦めたように両手を広げる。
「俺が悪かった」
宗綱は黙っている。
国綱は庭を見回し、それから深いため息を吐いた。
「……クソ」
ぼそりと呟く。
「なんで俺がこんなことしなきゃならねぇんだよ」
そして。
「勝手に決めた婚約の尻拭いまで俺がしなきゃならねぇとか、ふざけんなよクソジジイ!」
屋敷中に響く大声。
客間にも、その声ははっきりと届いた。
「……」
千代は苦笑する。
婚約者の朔夜も、思わず苦笑いした。
一方。
「……デリカシーがなさすぎです」
リリスは呆れたように呟いた。
「まあまあ」
千代が苦笑する。
「国綱だもの」
「それで済ませていいんでしょうか……」
その時。
廊下から足音が響いた。
「戻ってきたみたいね」
千代が呟く。
襖が開く。
「失礼するぞ」
宗綱が入ってきた。
その後ろから国綱も入ってくる。
――二人とも、ボロボロだった。
宗綱は頬を腫らし、髪も乱れている。
国綱も頬が赤く腫れ、薄汚れた白いシャツは泥だらけ。
それでも本人は何事もなかったような顔をしていた。
「……」
リリスが二人を見て深いため息を吐く。
「何をしているんですか、本当に」
「親子喧嘩だ」
国綱が答える。
「見れば分かります」
「なら聞くな」
「……」
リリスは呆れた。
国綱はそんなことを気にせず、客間を見渡す。
そして。
婚約者の朔夜と目が合った。
「……?」
国綱は少し考えた。
「誰だ?」
朔夜が固まる。
「客か?」
「……」
宗綱の額に青筋が浮いた。
「バカ!!」
ゴンッ!
宗綱の拳が国綱の頭へ落ちた。
「痛ぇ!」
「この子がお前の婚約者だ!」
「ああ……」
国綱は改めて朔夜を見る。
「……こいつが?」
「こいつじゃない!」
宗綱が怒鳴る。
「名前くらい覚えろ!」
「顔も知らねぇんだから仕方ねぇだろ」
「だからこそ謝れ!」
「分かったよ……」
国綱は面倒そうに頭を掻いた。
そして。
朔夜へ向き直る。
「……悪かった」
ぶっきらぼうな声だった。
だが。
その表情には、僅かに申し訳なさが浮かんでいる。
「何年も放ったらかしにしてたのも」
「……」
「勝手に婚約を終わらせようとしてるのも」
国綱は頭を下げた。
「全部、俺が悪い」
朔夜はしばらく黙っていた。
そして。
静かに首を振る。
「いいえ」
「……」
「国綱さんだけが悪いわけではありません」
朔夜は穏やかに微笑んだ。
「この婚約は、私たちの意思で始まったものではありませんでしたから」
「そうか」
「はい」
朔夜は姿勢を正す。
「婚約破棄を受け入れます」
「……悪いな」
「こちらこそ」
朔夜は静かに頭を下げた。
その時。
「失礼します」
襖が開いた。
信綱が盆に湯呑みを載せて戻ってくる。
「お待たせしました」
「ありがとう、信綱」
千代が微笑む。
「どうぞ」
信綱は一人ずつ茶を配っていく。
朔夜の前にも湯呑みが置かれた。
「ありがとうございます」
「いえ」
信綱が爽やかに笑う。
その瞬間。
朔夜の頬がほんの少し赤くなった。
「……」
国綱はそれを見ていた。
だが。
特に何も言わない。
千代もまた。
朔夜と信綱を交互に見ていた。
そして。
ふっと。
口元を緩める。
何かを思いついたような。
そんな笑みだった。
「……そうねぇ」
「母さん?」
信綱が首を傾げる。
千代は宗綱へ視線を向けた。
「でも」
「何だ?」
「家として考えれば、朔夜さんの時間を無駄にしてしまったのは事実でしょう?」
「……」
宗綱は黙った。
千代は今度は朔夜を見る。
「もし、朔夜さんさえ良ければ」
「はい?」
「うちの信綱と結婚してもらうというのは、どうかしら?」
「……」
信綱の笑顔が固まった。
「……え?」
朔夜の顔が一気に赤くなる。
「えっ……?」
リリスも目を丸くした。
「お義母様……?」
そして。
国綱だけが。
「……ほう」
面白そうに目を細めた。
「兄さん!?」
信綱が珍しく慌てた声を上げる。
「何だよ」
「何だよじゃないよ!」
「別にいいだろ」
「僕の話なんだけど!?」
「そうか?」
「そうだよ!」
信綱が珍しく取り乱す。
その横で朔夜は顔を真っ赤にしたまま俯いている。
千代はそんな二人を眺めながら、楽しそうに笑った。
そして。
宗綱だけが。
「……」
呆然としていた。
自分が何年も頭を悩ませていた婚約問題が。
まさか。
こんな形で解決へ向かうとは思ってもいなかったのだ。
庭で散々殴り合った親子喧嘩の末。
鬼嶺家の婚約話は――。
思わぬ方向へ転がり始めていた。