第八十一話 遅すぎた自覚
客間には、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
先ほどまで話されていたのは、国綱と朔夜の婚約についてだった。
正確には。
長年、両家の間で続いていた婚約話を、国綱自身が何も知らないまま終わらせるという話だった。
そして今。
千代が、とんでもない提案をした。
「それなら……」
千代は穏やかな笑顔を浮かべる。
「朔夜さんがよければ、うちの信綱と結婚するというのはどうかしら?」
「……」
朔夜が固まった。
「……え?」
信綱も目を丸くする。
「僕と……?」
宗綱は絶句し、リリスも何が起きているのか分からないといった顔で二人を交互に見ている。
その中で。
国綱だけが。
「……ほう」
面白そうに目を細めていた。
*
朔夜は、膝の上で両手を握りしめていた。
顔が熱い。
耳まで熱い。
心臓が、さっきからうるさい。
――信綱と。
結婚。
その言葉が頭の中を何度も巡る。
朔夜は幼い頃から、この日が来ることを知っていた。
両親から何度も聞かされていた。
――いずれ鬼嶺家の長男、国綱と婚約することになる。
家同士の付き合い。
両家にとって都合のいい縁談。
朔夜自身も、それを当然のこととして受け入れていた。
だから幼い頃から鬼嶺家を訪れるたび、いつか自分はこの家に嫁ぐのだと思っていた。
ただ。
肝心の国綱とは。
ほとんど会ったことがなかった。
国綱は軍人として家を空けていることが多かった。
たまに屋敷にいると思えば。
「おい、また庭を壊したのか!」
「知らねぇよ!」
「お前以外に誰がいる!」
「親父が勝手に壊したんだろ!」
そんな怒鳴り声が屋敷中に響いている。
あるいは。
庭で木刀を振り回していたり。
道場で誰かと殴り合っていたり。
使用人たちを困らせていたり。
朔夜は遠くから、その巨大な姿を見たことは何度もあった。
けれど。
直接話をした記憶はほとんどない。
そもそも国綱は、朔夜が自分の婚約者だということすら知らなかった。
宗綱が両家の間で話を進めていたものの、軍務に追われる国綱本人へ伝える機会を逃し続けていた。
そのまま国綱は軍事裁判に巻き込まれ。
軍から逃亡し。
魔族の国へ姿を消した。
結果。
朔夜だけが「自分には婚約者がいる」と知っている。
当の本人だけが何も知らない。
そんな奇妙な状態が、長い間続いていた。
*
そして。
朔夜が鬼嶺家を訪れた時。
いつも相手をしてくれたのは、国綱ではなかった。
――信綱だった。
「こんにちは、朔夜さん」
「こんにちは、信綱さん」
幼い頃から。
信綱はいつも穏やかだった。
国綱がどこかで騒ぎを起こしていても。
「また兄さんがやってますね」
そう苦笑しながら、朔夜の相手をしてくれた。
庭を案内してくれた。
本を貸してくれた。
お茶を一緒に飲んだ。
朔夜が稽古をしていれば、少し離れたところから見守ってくれた。
ある日。
朔夜が木刀を振りながら、信綱へ声をかけた。
「信綱さんもやってみます?」
「僕はいいよ」
「弱そう」
「……失礼だなぁ」
信綱は困ったように笑った。
そんな他愛のない会話が。
朔夜には嬉しかった。
そして。
帰る時間になると。
「また来ますね」
「うん」
信綱が笑う。
「待ってるよ」
その言葉を聞くたび。
朔夜の胸は、少しだけ温かくなった。
それが。
いつからだったのか。
朔夜自身にも分からない。
ただ。
気づいた時には。
信綱が来客としてではなく。
特別な人になっていた。
けれど。
自分には国綱との婚約がある。
だから。
その気持ちは、ずっと胸の奥へしまっていた。
*
そして今。
「うちの信綱と結婚するというのはどうかしら?」
千代の言葉を聞いた瞬間。
押し込めていた気持ちが、一気に溢れそうになった。
「……」
朔夜は俯く。
嬉しい。
その感情を否定できなかった。
もし。
本当に。
信綱と結婚できるなら。
そう考えただけで、胸が苦しくなるほど嬉しかった。
「……」
朔夜はちらりと信綱を見る。
信綱もこちらを見ていた。
目が合う。
「……!」
二人とも、慌てて視線を逸らした。
*
少しして。
信綱が立ち上がった。
「……お茶、どうぞ」
先ほど席を外して淹れてきた茶を、それぞれの前へ置いていく。
最後に。
朔夜の前にも湯呑みを置いた。
「ありがとうございます」
「いえ」
朔夜が湯呑みを受け取ろうとした。
その時。
指先が。
ほんの一瞬だけ触れた。
「……」
「……」
二人とも、同時に手を引いた。
「……熱いですね」
信綱が意味の分からないことを言った。
「え?」
「いや、その……お茶が」
「あ……はい」
朔夜も頷く。
「熱いですね」
会話が終わった。
たったそれだけ。
ほんの一瞬、指が触れただけ。
なのに。
朔夜の胸は、妙に高鳴っていた。
信綱も。
自分の指先を一瞬見つめてから、何でもなかったように席へ戻った。
「……」
どうして。
今までなら何とも思わなかったのに。
今は。
少し触れただけで、こんなにも意識してしまう。
*
信綱は湯呑みを持ちながら、ちらりと朔夜を見る。
朔夜はお茶を飲んでいる。
その横顔を見て。
昔の記憶が蘇った。
「……そういえば」
信綱が口を開く。
「昔も、こうしてお茶を飲みましたよね」
朔夜が顔を上げた。
「……覚えているんですか?」
「もちろん」
信綱は笑う。
「朔夜さんが来ると、いつも母さんがお茶を用意してくれて」
「そうでしたね」
朔夜も少し笑った。
「信綱さんがよく相手をしてくださいました」
「兄さんがいなかったから」
「……」
「いつも家にいなかったでしょう?」
「そうですね」
朔夜が小さく笑う。
「たまにいらっしゃっても……」
「庭を壊してましたね」
「はい」
二人で顔を見合わせる。
そして。
「ふふっ」
「はは」
小さく笑った。
ほんの些細な思い出。
けれど。
今になって思えば。
朔夜にとっては。
その一つ一つが大切な時間だった。
*
一方。
信綱も。
昔のことを考えていた。
朔夜が来る日は嬉しかった。
何を話そうか考えた。
庭を案内するのも楽しかった。
朔夜が帰る時は少し寂しかった。
怪我をすれば心配した。
他の誰かと楽しそうに話していれば、なぜか気になった。
当時は。
それを全部。
「仲のいい友人だから」
そう思っていた。
しかし。
今。
目の前で顔を赤くしている朔夜を見て。
「……」
もっと見ていたい。
そんな気持ちが湧いてくる。
信綱は、自分の胸に手を当てた。
心臓が速い。
「……もしかして」
小さく呟く。
「僕……朔夜さんのこと、好きだったのかな」
言葉にした瞬間。
自分で驚いた。
「……!」
顔が熱くなる。
耳まで赤くなる。
今まで恋愛なんて考えたこともなかった。
誰かと付き合ったこともない。
誰かに告白したこともない。
それなのに。
朔夜だけは。
昔から少し特別だった。
もしかすると。
自分は今まで。
その気持ちに気づいていなかっただけなのかもしれない。
*
そんな二人を。
千代はじっと眺めていた。
「……ふふ」
口元を隠す。
隣では国綱もニヤニヤしていた。
「面白ぇな」
「でしょう?」
「最高の娯楽だ」
国綱は楽しそうに二人を見る。
自分の婚約が破談になったことなど、もう完全にどうでもいいらしい。
「信綱のあんな顔、初めて見たぞ」
「私もよ」
「朔夜も分かりやすいな」
「昔からよ」
「へぇ」
国綱は楽しそうに笑った。
「俺なんか顔も知らなかったのにな」
「それはあなたが悪いわ」
「そうか?」
「そうよ」
千代は呆れたように笑う。
「朔夜さんが来るたび、あなたはいなかったもの」
「軍にいたんだから仕方ねぇだろ」
「帰ってきても庭で暴れていたでしょう」
「……」
国綱は少し考える。
「まあ、それはそうだな」
「その代わり、信綱がいつも相手をしていたのよ」
「なるほどな」
国綱は信綱を見る。
「そりゃ惚れるわ」
「兄さん!」
信綱が真っ赤になる。
国綱は腹を抱えて笑った。
*
宗綱は。
完全に頭を抱えていた。
「……何なんだ、この展開は」
「私にも分かりません」
リリスも困惑している。
「ついさっきまで国綱の婚約破棄の話だったはずですが」
「そうだ」
「それが、どうして信綱さんとの結婚話になったんでしょう」
「私にも分からん」
二人は顔を見合わせる。
「……」
「……」
そして。
同時に千代を見る。
「母さん」
「何?」
「楽しんでいるだろう」
「もちろん」
即答だった。
「……」
宗綱が頭を抱える。
リリスもため息を吐いた。
「お義母様……」
「だって面白いでしょう?」
「面白いというより……」
リリスは二人を見る。
朔夜は顔を赤くして俯いている。
信綱も妙に緊張している。
「……急展開すぎます」
「恋なんて、案外そんなものよ」
「そういうものなんでしょうか……」
*
しばらくして。
朔夜が顔を上げた。
信綱も顔を上げる。
また目が合った。
「……」
「……」
今度は。
二人ともすぐには目を逸らさなかった。
「……昔から」
朔夜が小さく口を開く。
「信綱さんには、色々とお世話になりました」
「僕も楽しかったですよ」
信綱は少し照れながら笑った。
「朔夜さんが来ると、賑やかでしたから」
「……私も」
朔夜は少しだけ俯く。
「鬼嶺家に来るのは、楽しみでした」
信綱が目を瞬く。
「そうだったんですか?」
「はい」
「……」
信綱の顔がまた赤くなる。
朔夜も赤くなる。
二人とも。
今まで気づかなかった感情を、少しずつ理解し始めていた。
*
「……最高だな」
国綱が笑った。
「ええ」
千代も笑う。
国綱は朔夜へ向き直った。
「いやぁ、朔夜。すまなかったな」
「……はい?」
「俺の代わりは弟が責任を一生とるから、よろしく頼むぞ」
「兄さん!」
信綱が真っ赤になって叫ぶ。
「何を言ってるんだ!」
「いいじゃねぇか」
「よくないよ!」
朔夜も顔を真っ赤にする。
「そ、その……一生……」
「おいおい」
国綱がニヤニヤする。
「もう顔真っ赤じゃねぇか」
「国綱さん!」
朔夜が恥ずかしそうに睨む。
千代も楽しそうに続けた。
「あら、でも信綱は奥手なのよ」
「母さん!」
「今まで誰かと付き合ったこともないでしょう?」
「……」
信綱が固まる。
「だから」
千代は朔夜へ笑いかける。
「朔夜さんにリードしてもらわないとねぇ」
「お義母様まで……!」
朔夜の顔がさらに赤くなる。
国綱が笑う。
「ははは! そりゃ大変だな、信綱!」
「兄さんは黙ってて!」
千代はさらに追い打ちをかける。
「あら、朔夜さんも恋愛経験なんてないでしょう?」
「……!」
朔夜が固まった。
「昔から信綱のことをよく見ていたものねぇ」
「お義母様……!」
朔夜は顔を覆う。
信綱も耳まで真っ赤になった。
「……」
それを見て。
国綱と千代は顔を見合わせる。
「最高だな」
「最高ねぇ」
二人は楽しそうに笑った。
宗綱は頭を抱え。
リリスは困惑し。
信綱と朔夜は互いに顔を赤くして俯いている。
こうして。
長年、朔夜だけが知っていた婚約は。
当の婚約者だった国綱が何も知らないまま終わりを迎えた。
その代わりに。
幼い頃から何度も顔を合わせていた二人の間に。
今になってようやく。
互いが互いを特別に思っていたことが、少しずつ明らかになり始めていた。