第八十四話 鬼嶺の龍
朔夜の両親との話は、ひとまず落ち着いた。
国綱と朔夜の婚約について。
長い間、連絡もなく待たせてしまったこと。
そして国綱自身が家督を継ぐ意思を持っていないこと。
信綱へ家督を譲ること。
それらを一通り話し終えると、朔夜の両親も納得した様子だった。
「事情は分かりました」
朔夜の父親が静かに頷く。
「国綱殿が婚約について何も知らなかったというのも、ようやく理解できました」
「悪かったな」
国綱はぶっきらぼうに答える。
「いや、知らなかったのなら仕方がない」
朔夜の母親も穏やかに微笑む。
「それに、朔夜自身も納得していますから」
「そうか」
国綱は少しだけ肩の力を抜いた。
これで。
面倒な話は終わった。
――そう思った。
その時だった。
「では」
宗綱が姿勢を正す。
「奉納の儀式についてですが――」
「……は?」
国綱が顔を上げた。
「奉納?」
「ああ」
宗綱は何でもないことのように続ける。
「家督の継承に伴い、これからは信綱が奉納の儀式を――」
「ちょっと待て」
国綱の顔が固まった。
「なんだそれ」
「……」
宗綱が眉間を押さえる。
「お前……」
「奉納ってなんだ?」
「家督を継ぐなら必要な儀式だ」
「聞いてねぇぞ」
「……」
宗綱はしばらく国綱を見る。
「お前は……」
「なんだよ」
「本当に何も知らんのだな」
「だから何の話だって聞いてんだよ」
次の瞬間。
宗綱の拳が国綱の頭に落ちた。
「痛ぇ!」
「なぜ何も知らん!」
「知らねぇから聞いてんだろうが!」
「昔から家にあった話だぞ!」
「俺は家にいなかったんだよ!」
「少しは実家のことを知ろうと思わんのか!」
「思わねぇよ!」
「開き直るな!」
「クソ親父!」
国綱が立ち上がりかける。
だが。
ふと。
先ほどまでの話を思い出した。
婚約の件。
朔夜を長年待たせたこと。
そして。
自分が今ここで親父と殴り合えば、さすがに格好がつかない。
「……」
国綱は拳を握りしめる。
そして。
宗綱を睨みながら。
「……てめぇ」
低い声で呟く。
「国出る前に殺してやる」
「聞こえているぞ」
「聞かせてんだよ」
「やめろ」
朔夜の父親が慌てて止める。
「お二人とも、落ち着いてください」
朔夜の母親も困ったように二人を見る。
「それより……」
母親が国綱を見る。
「本当にご存じなかったのですか?」
「知らん」
「昔から鬼嶺家に伝わる話なのですが……」
「だから何だよ」
朔夜の父親が慎重に口を開く。
「鬼嶺国では、古くから国の最奥に住まう存在がいると言われています」
「存在?」
「龍です」
「……龍?」
「ああ」
宗綱が頷く。
「鬼嶺国の奥深くには、巨大な龍が住んでいる」
国綱は眉をひそめる。
「それがどうした」
「その龍へ定期的に奉納を行わなければならない」
「なんで?」
「龍の機嫌を損ねると、川が氾濫する」
「……」
「そして雨が降らなくなり、土地が乾く」
国綱は黙った。
「それを防ぐために、鬼嶺家は代々、龍へ奉納を行ってきた」
「へぇ」
国綱は腕を組む。
「そんな話、初めて聞いたぞ」
「だから昔からある話だと言っている!」
宗綱が頭を抱える。
「俺が軍に行ってたんだから知らねぇよ」
「お前が出ていったのは軍だけだろう!」
「家にもいなかっただろ!」
「……」
朔夜の両親が苦笑する。
「本当にご存じなかったのですね……」
「知らん」
国綱はきっぱり答える。
「で?」
「で?」
「何を奉納するんだ?」
その瞬間。
宗綱の顔が曇った。
朔夜の両親も、どこか言いにくそうに視線を逸らす。
「……それが」
朔夜の父親が口を開く。
「かなり厳しいものなのです」
「何が?」
「奉納するものが」
「金か?」
「それだけではありません」
「食い物?」
「そういうものでもありません」
「じゃあ何だよ」
沈黙。
国綱の眉が上がる。
「おい」
宗綱が重々しく口を開いた。
「……聞くな」
「なんでだよ」
「聞いたらお前は絶対に余計なことを考える」
「失礼だな」
「今までの人生を振り返ってみろ」
「……」
国綱は少し考えた。
「まあ、確かに」
「認めるな!」
朔夜の母親が困ったように説明する。
「奉納の内容については、代々の当主にしか詳しく伝えられていない部分もあります」
「なんだそれ」
「ですが」
父親が続ける。
「非常に大きな負担を伴うことだけは確かです」
「……」
国綱は少し考えた。
そして。
「なんだそれ」
顔をしかめる。
「ただの疫病神じゃねぇか」
「「「……!」」」
宗綱。
朔夜の父親。
朔夜の母親。
三人の顔から、一斉に血の気が引いた。
「バカなことを言うな!」
宗綱が慌てて怒鳴る。
「龍神様に対して何という言い方をする!」
「龍神?」
「そうだ!」
「でもよ」
国綱は平然としている。
「奉納しなきゃ洪水起こします、雨降らせませんって」
「やめろ!」
「どう考えても疫病神だろ」
「黙れ!」
「なんでだよ」
朔夜の父親まで顔を青くする。
「国綱殿……!」
「なんだ?」
「それ以上は……!」
国綱は二人を見る。
「……」
そして。
突然。
ニヤリと笑った。
「そうか」
「何がだ?」
宗綱が嫌な予感を覚える。
国綱の顔が。
先ほどまでとはまるで違っていた。
妙に明るい。
「いいこと思いついた」
「……」
宗綱の胃が痛み始める。
「貴様」
「なんだ?」
「何も喋るな」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「いいから喋るな」
「親父」
「なんだ」
「お前、俺が何考えてるか分かるのか?」
「分かる」
「じゃあ話が早い」
「いや、早くない」
宗綱は頭を抱えた。
「絶対に碌なことを考えていない」
「失礼だな」
「今までのお前を見ていれば分かる!」
国綱は腕を組む。
そして。
実に平然と。
「そのクソトカゲ、ぶち殺しゃ面倒がなくていいだろ」
「…………」
沈黙。
宗綱の顔が引きつる。
「お前……」
「何だよ」
「龍だぞ?」
「ああ」
「神だぞ?」
「知らん」
「この国そのものに関わる存在だぞ!」
「じゃあ余計に殺しといた方がいい」
「どうしてそうなる!」
「奉納もいらなくなる」
「ならん!」
朔夜の父親が青ざめたまま口を挟む。
「国綱殿……本当におやめください」
「大丈夫だ」
「何がです?」
「俺が行ってくる」
「どこへ!?」
「龍のところ」
「やめろ!」
宗綱が必死に止める。
「お前はもう少し話を聞け!」
「聞いた」
「聞いてその結論か!」
「そうだ」
国綱は立ち上がる。
「今からぶっ殺してくる」
「今から!?」
「ああ」
宗綱が頭を抱える。
「待て!」
「なんだ?」
「せめて帰ってから考えろ!」
「嫌だ」
「なぜだ!」
「面倒だから」
「理由になっていない!」
国綱は踵を返す。
そして。
ふと振り返った。
「親父」
「……なんだ」
「信綱の婚約、頼んだぞ」
「……」
「俺の方はもういい」
国綱はぶっきらぼうに言う。
「信綱ならちゃんとやるだろ」
宗綱は何も言えなかった。
国綱はそのまま出口へ向かう。
「あと」
足を止める。
「茶」
「茶?」
「美味かった」
それだけ言って。
国綱は屋敷を出ていった。
「待て国綱!」
宗綱が叫ぶ。
だが。
返事はない。
ただ。
遠ざかっていく足音だけが聞こえる。
宗綱はしばらく呆然と立ち尽くした。
「……」
そして。
ゆっくりと頭を抱えた。
「……あの馬鹿」
朔夜の両親も言葉を失っている。
「本当に……龍を……?」
「……たぶん」
宗綱は深いため息を吐いた。
「行くでしょうな」
「止めないのですか?」
「止めても聞かん」
宗綱は窓の外を見る。
竹林の向こうへ消えていく、息子の背中。
「……昔からそういう奴です」
その顔には。
呆れと。
諦めと。
ほんの少しだけ。
誇らしさが混じっていた。
「しかし……」
宗綱は再び胃を押さえる。
「龍をぶち殺すって……」
そして。
「帰ってきたら、今度こそ説教だ」
だが。
その前に。
鬼嶺国の最奥に住まう龍と。
国綱が出会うことになる。
そしてその出会いが。
鬼嶺国そのものを揺るがすことになるとは。
この時の誰も、まだ知らなかった。