第三話 黒い鷲
事務所へ戻った時には、すでに夜もかなり深くなっていた。
古びたレンガ造りの建物。
一階が事務所、奥がガレージ。
二階には簡素な居住スペースがある。
普段なら夜遅くまで明かりが灯っている場所だが、今夜ばかりは静まり返っていた。
「……重い」
女刑事が呻く。
「だから言ったでしょう」
リリスは所長の腕を肩に担いでいた。
「この人、起きてる時より寝てる時の方が重いです」
「二百四十キロ近いんだろ?」
「その程度では済まない気がします」
「お前、よく一人で運べるな」
「一人ではありません」
「私がほとんど持ってる気がするんだが」
「気のせいです」
「絶対違う」
二人でどうにか階段を上がり、事務所のソファまで辿り着く。
「ここでいいでしょう」
「いいのか?」
「ええ」
リリスは所長の腕を外した。
巨体がソファへ沈み込む。
ぐしゃり、とクッションが悲鳴を上げた。
「……」
「ソファ壊れないか?」
「以前から何度も耐えています」
「すごいな」
「所長の体重に耐えるためだけに買い替えたことがあります」
「……」
女刑事はソファに沈んでいる所長を見る。
「起こさなくていいのか?」
「今夜は無理でしょう」
「明日の朝には?」
「二日酔いと薬の影響が残っているでしょうから、期待しない方がいいかと」
「探偵事務所の所長がそれでいいのか?」
「私も疑問に思っています」
リリスは毛布を一枚取り出し、所長へかけた。
「では」
眼鏡を直す。
「仕事をしましょう」
「今から?」
「今からです」
「……元気だな」
「所長が寝ている分、働く人間が必要ですから」
リリスはそう言うと、事務所の奥へ向かった。
女刑事も後に続く。
二人が向かったのは、事務所の武器庫だった。
壁に並ぶ棚。
拳銃。
短機関銃。
散弾銃。
予備弾薬。
防弾ベスト。
軍用の双眼鏡。
簡素なガスマスク。
手錠。
懐中電灯。
そして、所長が趣味で集めたらしい古い軍用品まで並んでいる。
「……探偵事務所だよな?」
女刑事が呟いた。
「一応」
「一応って」
リリスは棚から拳銃を一丁取り出した。
「今回はこれを」
「私は?」
「いつもの銃でいいでしょう」
「そうする」
女刑事は自分の拳銃を確認した。
弾倉を抜き、残弾を確認する。
「証拠を押さえるだけだぞ」
「分かっています」
「撃ち合いになるとは思ってない」
「私もです」
「なら、何でそんな装備を?」
リリスは防弾ベストを手に取った。
「念のためです」
「その『念のため』が怖いんだよ」
リリスは答えず、ベストを着込む。
その後、二人は弾薬、手錠、懐中電灯、カメラを準備した。
最後にリリスが棚から小さな金属製のケースを取り出した。
「何だ?」
「証拠を入れるためのものです」
「なるほど」
「薬品のサンプルも採取します」
「そこまで準備していたのか」
「売人の話が本当なら、現場には何かあるでしょう」
女刑事は頷いた。
「じゃあ行くか」
「はい」
二人はガレージへ降りた。
そこには所長のコレクションが並んでいた。
軍用車両を思わせる大型車。
古い乗用車。
バイク。
そして、今回使う二人乗りの小型車。
戦後になって民間向けに作られた車で、四輪だが車体は小さく、前席に二人しか乗れない。
屋根は簡素。
エンジンは小型。
それでも当時としては十分に高価な機械だった。
「これで行くのか?」
「はい」
「所長の車だぞ」
「だからです」
「どういう意味だ?」
「勝手に乗っているところを見られたら、所長は怒るでしょうね」
「起きてないからいいだろ」
「ええ」
リリスは運転席へ乗り込んだ。
女刑事が助手席へ座る。
エンジンを始動。
ガレージの中に機械音が響いた。
その音に反応して、二階から声がした。
「……車……?」
「起きた?」
女刑事が振り返る。
しかし返事はない。
「寝言でしょう」
「……本当に?」
「ええ」
リリスは車をガレージから出した。
夜の街へ。
薄暗いガス灯が、濡れたレンガの道を照らしている。
車輪が石畳を踏むたび、車体が揺れた。
「第七埠頭までどのくらいだ?」
「二十分ほどです」
「意外と近いな」
「港湾地区ですから」
二人はしばらく無言で走った。
街の中心を抜ける。
住宅街。
工場地帯。
倉庫街。
そして、港。
夜の港は昼間とはまったく違っていた。
巨大な倉庫。
積み上げられた木箱。
蒸気を吐き出す貨物船。
遠くで汽笛が鳴る。
ガス灯の明かりは港の奥まで届かず、ところどころに濃い闇が残っている。
リリスは車を路地裏へ停めた。
「ここから歩きます」
「分かった」
二人は車を降りた。
リリスは懐中電灯を取り出した。
「倉庫二十七番」
「向こうだ」
女刑事が指差す。
二人は建物の影を歩いた。
やがて、古びた倉庫が見えてきた。
扉の横。
木箱。
そして――。
「……あった」
女刑事が呟いた。
箱に黒い鷲の焼き印。
「間違いないな」
「ええ」
二人は倉庫の周囲を確認した。
見張りはいない。
入口には鍵。
「どうする?」
「裏を見ます」
リリスが回り込む。
裏側には小さな扉があった。
鍵は簡単なものだった。
リリスが工具を取り出す。
「開けられるか?」
「少し時間をください」
数十秒。
小さな金属音。
鍵が外れた。
「入りましょう」
二人は中へ入った。
倉庫内部は暗かった。
懐中電灯の光が、積み上げられた木箱を照らす。
黒い鷲。
また黒い鷲。
さらに黒い鷲。
「……相当な量だな」
女刑事が呟く。
「薬だけじゃありません」
リリスが別の箱を開ける。
中には小さな瓶。
粉末。
薬品。
そしてラベルの貼られていない液体。
「これ、薬物の原料か?」
「おそらく」
リリスは瓶を一つ取り出した。
「証拠として採取します」
金属ケースを開く。
少量を容器へ入れる。
その時だった。
「……待って」
女刑事が小声で言った。
「何です?」
「あそこ」
倉庫の奥。
大きな扉の向こうから、光が漏れている。
二人は慎重に近づいた。
扉の隙間から覗く。
「……!」
女刑事が息を呑んだ。
そこには――。
数人のエルフがいた。
長い耳。
細身の身体。
白衣に似た作業服。
机の上には薬品の瓶。
その中央では、一人のエルフが白い粉末を慎重に計量していた。
別のエルフが液体を混ぜる。
さらに別のエルフが小袋へ詰めている。
「エルフ……」
女刑事が呟く。
「生産現場ですね」
リリスは冷静だった。
だが、目だけは鋭くなっている。
「薬を作っている」
「しかもかなり本格的だ」
奥には大量の薬品。
瓶。
蒸留器。
魔石を動力にした小型の加熱装置。
魔法技術と工業技術を組み合わせた設備だった。
「魔石式の加熱器……」
「珍しいものなのか?」
「小型でこれだけの出力を出せるものは、普通の工場では使いません」
「つまり?」
「この設備自体がかなり高価です」
女刑事が顔をしかめる。
「組織的にやってるな」
「ええ」
リリスは小型カメラを取り出した。
「証拠を残します」
シャッター。
音を抑えた小型のカメラだったが、静かな倉庫内では僅かな音でも響いた。
リリスは続けて数枚撮る。
エルフたち。
薬品。
魔石式の装置。
黒い鷲の印。
そして大量に積まれた薬袋。
「これだけあれば十分だ」
女刑事が言った。
「まだです」
「まだ?」
「奥にもう一つ部屋があります」
リリスが指差した。
その先に、帳簿らしきものが置かれている。
「記録があるなら押さえます」
二人は部屋へ入る。
机の上。
帳簿。
手紙。
輸送記録。
そして――。
「……これは」
女刑事が一枚の紙を持ち上げる。
「何だ?」
「軍用品の注文書です」
「薬だけじゃないってことか?」
「そのようです」
リリスは別の紙を見る。
「第七埠頭」
さらに別の紙。
「倉庫二十七番」
そして、いくつかの名前。
「外国人らしき名前もあります」
「これ、全部持って帰れるか?」
「全部は無理です」
リリスは必要なページを素早く選ぶ。
「写しを取ります」
カメラを構える。
その瞬間。
カチッ。
「……?」
倉庫のどこかで音がした。
二人が同時に振り返る。
静寂。
「……気のせいか?」
女刑事が囁く。
「いえ」
リリスが答える。
「今の音は、人間が出した音です」
足音。
遠くから近づいてくる。
一つ。
二つ。
さらに複数。
「まずい」
女刑事が拳銃を抜く。
「出口は?」
「入ってきた裏口です」
「戻るぞ」
「はい」
二人は急いで部屋を出る。
しかし――。
倉庫の中央に、数人の男が立っていた。
エルフたちも作業を止めている。
その中の一人がこちらを見る。
「……誰だ?」
女刑事が銃を構える。
リリスも拳銃を抜いた。
「動かないで」
男たちがざわめく。
その時、一人のエルフがリリスの持っているカメラを見た。
「写真を撮られた」
「……」
空気が変わった。
さっきまでの作業場が、一瞬で緊張した空間になる。
「侵入者だ!」
誰かが叫んだ。
複数の足音。
扉が閉まる。
女刑事が歯を食いしばった。
「……証拠は?」
リリスは金属ケースとカメラを確認する。
「あります」
「なら、逃げるぞ!」
「はい」
二人は出口へ走る。
だが、背後から声が飛んだ。
「逃がすな!」
銃声。
倉庫の中に乾いた音が響いた。
弾丸が木箱を撃ち抜く。
リリスと女刑事は身を低くした。
「本当に気づかれたな!」
「そのようですね」
「冷静すぎないか、お前!」
「慌てても仕方ありません」
リリスは周囲を見る。
正面には敵。
裏口までは距離がある。
そして二人の手元には――。
組織の証拠。
薬物の製造記録。
軍用品の取引記録。
そして、黒い鷲の正体へ繋がるかもしれない帳簿。
「刑事さん」
「何だ?」
「証拠は持っていますね?」
「ああ!」
「では、帰りましょう」
「簡単に言うな!」
リリスはわずかに笑った。
「所長がいないので、私たちで何とかするしかありません」
「……あいつ、今頃事務所で寝てるんだろうな」
「おそらく」
「帰ったら絶対叩き起こす」
「賛成です」
二人は銃を構え直した。
倉庫の奥から、さらに足音が近づいてくる。
薬を作っていたエルフたちも、ただの職人ではないらしい。
その顔には、明確な敵意が浮かんでいた。
そしてリリスは理解した。
これはもう、ただの薬物事件ではない。
誰かが魔石を使った設備を用意し、エルフたちに薬を作らせ、港を経由して大量に流している。
しかも、その流通網には軍用品まで絡んでいる。
その証拠を――。
二人は今、手に入れてしまった。
だからこそ。
もう、見逃してもらえるはずがなかった。
「来ます」
「分かってる!」
リリスは拳銃は拳銃を握りしめる。
その頃、事務所では。
「……う……」
ソファの上で、所長がゆっくりと身を起こした。
「……頭いてぇ……」
巨大な手で頭を押さえる。
喉が焼けるように渇いている。
口の中は酒の味がし、鼻の奥にはまだ薬の刺激が残っていた。
「……何時だ……?」
ぼんやりと周囲を見回す。
事務所には誰もいない。
「……リリス?」
返事はない。
女刑事の姿もない。
「……?」
所長はしばらく考え込んだ。
そして、ふらつきながら立ち上がる。
「……そういや」
何かを思い出したように、窓の外を見る。
ガレージ。
いつもならそこにあるはずの車が――。
「……」
ない。
所長の顔から眠気が消えた。
「……車がねぇ」
数秒の沈黙。
「…………」
所長は頭を押さえたまま、もう一度ガレージを見る。
「車がねぇ!」
事務所中に響き渡る大声。
その声だけが、夜の街へ虚しく響いた。