第八十七話 龍神、疲弊する
「よーし」
国綱は拳を握った。
顔は真っ赤。
目は少し座っている。
それでも。
本人だけは絶好調だった。
「行くぞ」
次の瞬間。
「おおおおおっ!」
馬鹿みたいな大振りで拳を振り抜いた。
「――遅い!」
龍神は横へ跳ぶ。
「どこを狙っている、バカが!」
「なにっ!?」
拳は龍神の横を通り過ぎ。
そのまま。
洞窟の壁へ激突した。
ドゴォォォンッ!!
「……!」
轟音。
地面が揺れる。
天井から大量の小石が落ちてくる。
そして。
拳が叩き込まれた壁を中心に。
巨大な亀裂が走った。
十メートル。
十五メートル。
そして。
およそ二十メートル近く。
洞窟の壁を裂くように、ひびが伸びていく。
「……な」
龍神の顔が引きつった。
国綱は拳を壁から引き抜く。
「……」
拳には。
ほとんど傷がない。
「ちょこまか動くんじゃねぇ!」
国綱が怒鳴る。
「酒が回るだろうが!」
「知らぬわ!」
龍神が叫ぶ。
「貴様の都合など知るか!」
「じゃあ止まれ!」
「止まったら死ぬわ!」
「なら避けんな!」
「無茶を言うな!」
龍神は心の底から叫んだ。
しかし。
国綱は本気だった。
「よし!」
今度は。
大きく脚を振り上げる。
「――蹴るぞ!」
「宣言するな!」
ブォンッ!
凄まじい蹴りが横薙ぎに飛ぶ。
龍神は身を屈める。
頭上を。
国綱の脚が通り過ぎた。
ヒュンッ!
風圧だけで髪が大きく揺れる。
「……っ!」
龍神は戦慄した。
今の蹴り。
まともに受ければ。
身体ごと吹き飛ばされる。
いや。
ただの吹き飛ばしでは済まない。
骨が砕ける。
肉が潰れる。
下手をすれば。
一撃で命を奪われる。
「なんという……!」
龍神は距離を取った。
「めちゃくちゃな動きなのに……!」
技術など。
ほとんどない。
酔っ払いのような大振り。
踏み込みも荒い。
体勢も隙だらけ。
だが。
その一撃一撃に込められた力だけが。
あまりにも桁外れだった。
「……まともに受けてはいけない」
龍神は息を整える。
「一度でも直撃すれば……」
死ぬ。
それは。
直感ではなく確信だった。
*
「逃げんな!」
国綱が突っ込んでくる。
「逃げているのではない!」
龍神は横へ飛ぶ。
拳が空を切る。
「そこか!」
国綱が身体を捻る。
「――遅い!」
龍神が背後へ回る。
爪を振るう。
ザシュッ!
国綱の背中に傷が走った。
「……」
国綱が振り返る。
「痛ぇな」
「……!」
龍神は距離を取る。
浅い。
傷は浅い。
だが。
確かに傷はついた。
「効いている……」
龍神は息を吐く。
ならば。
この男の攻撃を避け続け。
隙を見て削っていく。
それしかない。
「――そこ!」
国綱の拳。
避ける。
反撃。
爪。
避ける。
蹴り。
後退。
反撃。
炎。
国綱が腕で受ける。
「熱っ!」
だが止まらない。
「このっ……!」
龍神が拳を叩き込む。
ドンッ!
国綱の腹部へ直撃。
「……」
国綱は少しだけ身体を揺らした。
「……それだけか?」
「……!」
龍神の顔から血の気が引く。
効いていない。
全力で殴った。
それなのに。
ほとんど効いていない。
「化け物……」
「なんだ?」
「なんでもない!」
「なら殴るぞ!」
「来るな!」
再び。
国綱が突っ込んでくる。
*
一度。
二度。
三度。
十回。
そして。
十数回。
二人の攻防が続いた。
国綱の拳が洞窟を砕く。
蹴りが岩壁を削る。
龍神は紙一重で避ける。
そして。
その隙を狙って攻撃する。
爪。
拳。
炎。
衝撃波。
何度も。
何度も。
国綱へ攻撃を叩き込む。
だが。
「……っ!」
龍神は歯を食いしばった。
効かない。
傷はつく。
血も流れる。
だが。
致命傷にはならない。
まともな攻撃を受ければ死ぬ。
だから。
紙一重で避ける。
ほんの僅かな隙を見つけ。
渾身の一撃を叩き込む。
それでも。
「……っ!」
国綱は倒れない。
「……化け物め」
龍神の息が荒くなる。
額から。
大量の汗が流れていた。
脂汗。
顔から血の気が引いている。
「はぁ……はぁ……」
息が苦しい。
身体が重い。
何度も死を覚悟した。
何度も。
ほんの数センチの差で拳を避けた。
髪を掠め。
頬を掠め。
着物を破られ。
腕に傷を負った。
一度でも。
あと数センチ近ければ。
終わっていた。
その緊張が。
少しずつ。
龍神の精神を削っていく。
「はぁ……っ」
それでも。
戦わなければならない。
逃げることもできない。
この男を止めなければ。
鬼嶺国そのものが危険になる。
「……!」
龍神が踏み込む。
国綱の拳を紙一重で避ける。
そのまま。
全身の力を込めて。
「――っ!」
拳を叩き込む。
ドゴッ!
「ぐっ!」
今度は。
国綱が僅かに後退した。
「……効いた」
龍神は荒い息を吐く。
だが。
国綱は。
「……」
腹を撫で。
「お前、結構やるな」
笑った。
「……!」
龍神の顔が引きつる。
これだけやって。
ようやく。
ほんの少し。
後退させただけ。
なのに。
相手はまだ笑っている。
「……はぁ……はぁ……」
龍神の呼吸がさらに荒くなる。
国綱はそんな龍神を見て。
「ん?」
突然。
顔をしかめた。
「……なんか」
「……?」
「気持ち悪ぃ」
「……は?」
国綱は腹を押さえる。
「うげぇ……」
そして。
「うげぇぇぇ……」
その場で吐いた。
「…………」
龍神は。
しばらく。
何も言えなかった。
「……貴様」
「うげぇ……」
「貴様……」
「気持ち悪ぃ……」
国綱は口元を拭う。
「酒が回ったな」
「……」
そして。
尻のポケットからスキレットを取り出す。
「……まだ飲むのか!?」
「水分補給だ」
「酒だろう!」
「細けぇな」
国綱はスキレットから酒を飲む。
ぐび。
ぐびぐび。
「ぷはぁ」
「……」
龍神は絶句した。
目の前の男は。
自分が必死になって戦っているというのに。
まだ酒を飲んでいる。
しかも。
「うめぇ」
満足そうに笑っている。
「……」
龍神の顔を。
再び脂汗が伝う。
「……私は」
小さく呟く。
「一体、何と戦っているのだ……」
国綱は。
まだ余裕そうだった。
そして。
「よし」
拳を握る。
「もう一回やるか」
「…………」
龍神は。
荒い息を繰り返しながら。
構え直した。
もう。
顔には余裕など一切なかった。