第八十八話 龍神、敗北を認める
それからも。
戦いは続いた。
終わる気配はなかった。
「――っ!」
龍神が身を翻す。
国綱の拳が頬を掠めた。
風圧だけで髪が大きく舞う。
「危なっ……!」
龍神はそのまま後方へ跳ぶ。
着地。
息を整える。
「はぁ……はぁ……」
すでに何度目か分からない。
攻撃。
回避。
反撃。
回避。
また攻撃。
その繰り返しだった。
龍神の着物はあちこちが裂けている。
腕にも。
肩にも。
頬にも。
細かな傷が増えていた。
血が流れている。
息も荒い。
身体は重い。
頭も朦朧としてくる。
それでも。
「……!」
国綱の拳を避ける。
ズドンッ!
拳が背後の岩壁を砕く。
「くっ……!」
龍神は歯を食いしばった。
あれを受けてはいけない。
絶対に。
一発でもまともに受ければ終わる。
だから。
避ける。
ただひたすらに。
避け続ける。
*
一方。
「……」
国綱は。
相変わらず元気だった。
身体には傷が増えている。
頬に切り傷。
腕に引っ掻き傷。
肩にも裂傷。
腹にも傷跡が残っている。
だが。
どれも浅い。
そして何より。
「……」
息が乱れていない。
疲労の色もない。
「よし」
国綱は尻のポケットからスキレットを取り出した。
「ちょっと飲むか」
「……またか!」
龍神が叫ぶ。
「お前は戦いの途中で何をしている!」
「酒飲んでる」
「見れば分かる!」
国綱はぐびぐびと酒を飲む。
「ぷはぁ!」
「……」
「うめぇ!」
「……」
龍神は絶望的な顔をした。
「貴様……」
「なんだ?」
「本当に疲れていないのか……?」
「ん?」
国綱は首を傾げる。
「全然」
「……」
「むしろ」
国綱はニヤリと笑う。
「酒が回ってきて、調子いいぞ」
「……」
龍神は絶句した。
*
さらに。
時間が過ぎた。
何度も。
何度も。
二人はぶつかった。
龍神は少しずつ削られていく。
体力。
精神力。
集中力。
すべてが。
確実に減っていく。
ほんの一瞬。
判断が遅れる。
ほんの僅か。
足が動かない。
それだけで。
「おらぁ!」
国綱の拳が迫る。
「――っ!」
龍神は紙一重で避ける。
拳が頬を掠める。
「っ……!」
冷たい汗が流れる。
もう。
限界が近い。
それでも。
国綱は。
「よし」
また酒を飲んだ。
ぐびぐび。
「ぷはぁ!」
そして。
「……」
口元を拭う。
目が。
さらに楽しそうになった。
「よーし」
国綱が笑う。
「調子上がってきた」
「……!」
龍神の背筋に。
悪寒が走った。
「……何?」
国綱が。
ゲラゲラと笑う。
「ははははは!」
その笑い声が洞窟に響く。
「いいぞ!」
拳を握る。
「やっと身体が温まってきた!」
「……」
龍神は構える。
だが。
次の瞬間。
「――行くぞ!」
国綱が消えた。
「……!」
違う。
速い。
今までとは。
まるで違う。
「なっ――」
拳。
右。
左。
右。
左。
上。
下。
斜め。
あらゆる方向から。
拳が飛んでくる。
ドゴッ!
ズドン!
バキィッ!
ゴォン!
「――っ!」
龍神は必死に避ける。
今までのような。
大振りではない。
ただ乱暴に振り回しているだけではない。
暴風雨。
いや。
巨大な嵐そのものだった。
「くっ……!」
龍神は反撃を捨てる。
カウンターを狙わない。
ただ。
避ける。
避ける。
避ける。
「――!」
拳が頬を掠める。
次。
腹。
避ける。
肩。
避ける。
頭。
避ける。
足元。
飛び退く。
次々と拳が迫る。
「く、うっ……!」
龍神の呼吸が乱れる。
肺が痛い。
息が吸えない。
身体が悲鳴を上げている。
それでも。
避ける。
「――っ!」
拳が髪を掠めた。
次。
龍神は身体を捻る。
ほんの数センチ。
拳が鼻先を通過する。
「っ……!」
また。
また避ける。
反撃する余裕などない。
ほんの一瞬でも足を止めれば。
死ぬ。
だから。
ひたすら避けた。
*
どれほど続いたのか。
龍神には分からなかった。
ただ。
「はぁ……!」
肺が限界だった。
呼吸するたびに胸が痛む。
肺が破裂しそうだった。
腕が重い。
脚が動かない。
全身の筋肉が言うことを聞かない。
「はぁ……はぁ……」
視界が霞む。
もう。
回避すら難しい。
――回復しなければ。
龍神はそう思った。
このままでは。
本当に。
殺される。
距離を取る。
ほんの一瞬だけ。
龍神は国綱を見る。
「……」
そして。
絶望した。
「……なぜ」
国綱は立っている。
息ひとつ乱れていない。
酒を飲んでいる。
笑っている。
「……」
だが。
それ以上に。
龍神の目を奪ったものがあった。
「……腹の傷が」
先ほどまで。
国綱の腹には。
自分が貫手で開けた傷があった。
血も流れていた。
それが。
「……治っている」
完全に。
傷跡すらない。
「……」
龍神の顔から。
血の気が引いていく。
「そんな……」
国綱は腹を見下ろす。
「ん?」
「……」
「どうした?」
「……貴様」
龍神の声が震える。
「傷が……」
「ああ?」
国綱は腹を撫でる。
「ああ」
ようやく気づいた。
「治ってんな」
「……」
「いつの間にだ?」
「……」
龍神は答えられない。
ただ。
理解した。
自分は。
最初から。
勝てる相手ではなかった。
どれだけ攻撃しても。
傷を負わせても。
時間をかけても。
この男は。
立ち続ける。
そして。
自分だけが。
削られていく。
「……」
龍神はゆっくりと構えを解いた。
肩が落ちる。
「……負けだ」
国綱が眉を上げる。
「ん?」
「我の負けだ」
龍神は荒い息を吐きながら。
それでも国綱を真っ直ぐ見た。
「これ以上戦えば、我が死ぬ」
「そうか」
「……」
国綱は少し考える。
「じゃあ俺の勝ちだな」
「……そうだ」
龍神は悔しそうに。
しかし。
はっきりと。
「貴様の勝ちだ」
そう認めた。
数千年。
鬼嶺国の人々から神として崇められてきた龍神が。
一人のオーガを前に。
初めて。
自ら敗北を認めた。