第九十二話 帰宅
龍神の洞窟を出て。
三人は山道を下っていた。
先頭を歩いているのは国綱。
煙草を咥え、時折、手にした酒を飲んでいる。
その後ろを信綱が歩いていた。
背中には龍神を背負っている。
先ほどまで国綱と死闘を繰り広げていた龍神は、今では指一本動かせないほど疲弊していた。
着物は裂け。
髪は乱れ。
全身には無数の傷が残っている。
それでも意識だけははっきりしていた。
「……信綱」
「はい」
「本当にすまないな」
「いえ」
信綱は穏やかに答える。
「これくらいなら大丈夫です」
「そうか……」
龍神は信綱の背中に身体を預けた。
しばらくして。
信綱が前を歩く兄へ声をかける。
「兄さん」
「あ?」
「まだ飲むんですか?」
「ああ」
「戦った直後ですよ?」
「だから飲んでんだよ」
「普通は休むと思いますけど」
「休んでるだろ」
「歩いてますけど」
「歩くくらいなら休んでるうちだ」
「……」
信綱は苦笑した。
「相変わらずですね」
「何がだよ」
「何でもありません」
「なら言うな」
「はい」
また少し歩く。
山道の木々の隙間から、遠くに鬼嶺家の屋敷へ続く道が見えてきた。
その頃だった。
信綱が、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば」
「あ?」
「母さん、ものすごく怒ってましたよ」
「……」
国綱の足が僅かに緩む。
「あと」
信綱は続けた。
「リリスさんも」
「…………」
国綱の顔が露骨に嫌そうになった。
「……そうか」
「はい」
「……」
国綱は煙草を吸う。
少し考える。
そして。
「俺、このまま事務所に帰るわ」
「え?」
「お前、龍神連れて帰れ」
「兄さん」
「あ?」
「屋敷、もうすぐですよ」
「だからだ」
「……」
「面倒くせぇ」
信綱は小さく笑った。
「逃げるんですか?」
「逃げてねぇよ」
「でも事務所に帰るんですよね?」
「ああ」
「屋敷とは逆方向ですよ」
「知ってる」
「やっぱり逃げてますよね」
「うるせぇ」
国綱は煙草を咥え直す。
「今日はもう十分働いたんだよ」
「龍神様と戦っただけでしょう」
「それが大仕事なんだよ」
「そうですか」
「ああ」
信綱は背中の龍神を見る。
龍神は黙ったまま目を閉じている。
「……では、僕だけ先に帰りますか?」
「それも面倒だな」
「では?」
「仕方ねぇ」
国綱はため息を吐いた。
「帰るぞ」
「はい」
*
竹林を抜ける。
やがて。
鬼嶺家の屋敷が見えてきた。
国綱は足を止めた。
「……」
屋敷を見る。
何かを思うでもなく。
ただ、しばらく眺める。
煙草の煙が、ゆっくりと空へ昇っていった。
「兄さん?」
「……いや」
国綱は煙を吐く。
「帰るか」
「はい」
「面倒くせぇけどな」
「自分で帰ると言ったんでしょう」
「そうだったな」
二人は再び歩き出した。
*
門が近づく。
そこで。
国綱が足を止めた。
「……」
「どうしました?」
「いや」
門の前に。
人がいる。
一人。
二人。
三人。
そして。
四人。
まず目に入ったのは宗綱だった。
「……」
正座している。
しかも。
頬が腫れている。
国綱は目を細めた。
「親父……」
その隣には。
千代。
笑っている。
だが。
その笑顔には妙な威圧感があった。
さらに。
リリス。
いつもの無表情。
眼鏡の奥の目だけが、明らかに怒っている。
そして。
少し離れたところに朔夜。
怯えたように立っている。
「…………」
国綱は静かに踵を返した。
「兄さん」
「……」
「どこへ行くんです?」
「事務所」
「駄目です」
「何でだよ」
「もう見つかっています」
「……」
国綱は門の方を見る。
千代と目が合う。
にこり。
「…………」
国綱は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……帰るか」
「はい」
「面倒くせぇ」
「でしょうね」
二人は屋敷へ入った。
*
「お帰りなさい」
千代が笑顔で言った。
「ああ」
「ずいぶん遅かったわね」
「山にいたからな」
「何をしていたの?」
「龍神と遊んでた」
「……」
千代の笑顔が固まった。
リリスも国綱を見る。
「所長」
「あ?」
「『遊んでいた』という表現は、少し違うと思います」
「そうか?」
「龍神様がその状態ですよ」
リリスが信綱の背中を見る。
龍神はぐったりしている。
千代も龍神へ目を向けた。
「……まずは龍神様を休ませましょう」
「そうですね」
信綱が頷く。
「こちらへ」
「すまない」
信綱は龍神を背負ったまま、屋敷の中へ進んでいく。
国綱もその後ろをついていく。
だが。
廊下を少し進んだところで。
国綱がさりげなく玄関の方へ進路を変えた。
「所長」
「……」
「どこへ行くんですか?」
「煙草」
「吸っていますよね」
「予備を買いに」
「今からですか?」
「ああ」
「必要ありません」
「……」
国綱は立ち止まった。
「面倒くせぇな」
「ええ」
リリスは淡々と答える。
「今日は特にそうでしょうね」
「……」
国綱は諦めたように客間へ入った。
*
龍神を座布団へ座らせる。
信綱がすぐに傷の具合を確認する。
「まだ無理はしない方がいいですね」
「分かっている」
「水を持ってきます」
「ありがとう」
「いえ」
信綱が立ち上がる。
その横で。
国綱は煙草を吸っている。
酒も飲んでいる。
宗綱は相変わらず正座したままだった。
国綱が横目で見る。
「親父」
「なんだ」
「何でまだ正座してんだ?」
「……」
「疲れねぇか?」
「誰のせいだと思っている」
「知らねぇよ」
「お前……」
宗綱が睨む。
千代が静かに言った。
「あなたはそのままでいいのよ」
「……はい」
国綱は肩を竦める。
「大変だな」
「お前が言うな」
「そうか」
国綱は煙草を吸った。
千代が国綱を見る。
「国綱」
「あ?」
「少し話しましょうか」
「……」
「今日のこと」
「龍神のことか?」
「それもあるわ」
「……」
「あなたのこともよ」
国綱は面倒そうに頭を掻いた。
「説教か?」
「そうね」
「長い?」
「長いわよ」
「……」
国綱は酒を一口飲む。
「じゃあ嫌だ」
「聞きなさい」
「……分かったよ」
*
説教が始まった。
龍神と戦ったこと。
祠を壊したこと。
洞窟を崩しかけたこと。
勝手に山へ行ったこと。
酒を飲みながら戻ってきたこと。
そして。
何より。
周囲の人間に心配をかけたこと。
「……」
国綱は黙って聞いている。
時々。
「はいはい」
「分かってる」
「悪かったよ」
と適当に返す。
「本当に反省しているの?」
千代が尋ねる。
「してるしてる」
「顔がしていないわ」
「そうか?」
「ええ」
「じゃあ顔だけ反省させる」
「意味が分からないわ」
リリスが口を挟む。
「所長」
「あ?」
「本当に反省してください」
「……悪かった」
「はい」
「でも」
「なんです?」
「生きて帰ってきただろ」
「そういう問題ではありません」
「そうか」
国綱は煙草を吸う。
しばらく。
黙って説教を聞いていた。
だが。
やがて。
「……もういいだろ」
「まだよ」
「めんどくせぇな」
「国綱」
「うるせぇよ」
声を荒らげたというほどではない。
ただ。
本当に面倒くさくなっただけだった。
「俺だって分かってんだよ」
国綱は千代を見る。
「勝手に山へ行ったのも」
「……」
「龍神と喧嘩したのも」
「……」
「色々ぶっ壊したのも」
「……」
「全部分かってる」
国綱は煙草の灰を落とす。
「だからもういいだろ」
「国綱……」
「俺、もう家出るんだぞ?」
千代の表情が止まる。
「……え?」
国綱は気にせず続ける。
「親父とは話ついてんだよ」
宗綱は黙っている。
国綱が宗綱を見る。
宗綱も黙って頷いた。
「俺は勘当される」
「……」
「家督もいらねぇ」
「国綱」
「信綱に継がせる」
信綱が目を見開く。
「僕に?」
「ああ」
「……」
「お前の方が向いてる」
「でも……」
「俺には無理だ」
国綱は肩を竦める。
「面倒くせぇし」
「……」
「俺には事務所がある」
リリスを見る。
「仕事もある」
「はい」
「今の生活もある」
そして。
「だから鬼嶺家のことなんざ知らねぇよ」
宗綱が口を開く。
「国綱、それは――」
「親父とはもう話しただろ」
「……」
「俺は出る」
国綱は淡々と言う。
「それでいいんだよ」
そして。
朔夜を見る。
「朔夜との婚約も破棄した」
朔夜の肩が僅かに揺れる。
「俺はそもそも知らなかったんだ」
朔夜は小さく頷く。
「はい……」
「それに」
国綱は信綱を見る。
「今は信綱との話もついてんだろ」
信綱は少しだけ顔を赤くした。
「……はい」
国綱はそれを見て鼻で笑う。
「なら、それでいい」
千代は黙って聞いている。
「儀式だの何だのも」
国綱は龍神を見る。
「俺には関係ねぇ」
「……」
「もう俺はこの家の人間じゃねぇんだから」
国綱は面倒そうに言った。
「説教すんなよ」
客間が静かになる。
「……」
千代は俯いた。
国綱はそれに気づかない。
「俺は俺で勝手にやる」
その時。
千代の肩が。
ほんの少し震えた。
「……国綱」
「あ?」
国綱が顔を上げる。
千代は顔を上げた。
目には涙が浮かんでいた。
「……馬鹿」
次の瞬間。
パァンッ!
乾いた音が客間に響いた。
国綱の顔が横を向く。
「……」
誰も口を開かなかった。
千代の手が震えている。
国綱は頬を押さえた。
「……痛ぇな」
「当たり前でしょう」
千代の声は震えていた。
「そんなことを……平気な顔で言うんじゃないわよ」
「……」
「家を出るなら出るでいい」
「……」
「勘当されるなら、それも仕方ないわ」
「……」
「でも」
千代は涙を拭う。
「『もうこの家の人間じゃない』なんて……」
言葉が続かなかった。
国綱はしばらく黙っていた。
そして。
「……悪かったよ」
小さく呟く。
千代は何も言わない。
国綱は少しだけ目を逸らした。
「でも」
煙草を咥え直す。
「たまにゃ茶でも飲みに来てやるよ」
「……」
千代の目から。
また涙が一粒落ちた。
それでも。
今度は少しだけ笑った。
「ええ」
「ああ」
「そのくらいは……待っていてあげるわ」
「そうか」
国綱は煙草を吸った。
それから。
「じゃあ」
「何?」
「今日はもう寝る」
リリスが呆れた顔をする。
「所長」
「あ?」
「本当に最後まで所長ですね」
「褒めてんのか?」
「褒めてません」
「そうか」
信綱は苦笑する。
朔夜は何とも言えない顔で国綱を見ている。
宗綱は正座したまま黙っている。
龍神は。
少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
騒がしい。
乱暴で。
礼儀もない。
だが。
この男が本当にこの家を出るのだと。
今になって。
千代だけは、ようやく実感していた。
国綱はそんなことには気づかず。
ただ煙草の煙を吐きながら。
「……腹減ったな」
と呟いた。
その一言に。
客間の空気が。
ほんの少しだけ緩んだ。