第九十三話 祭りの話
客間に。
静かな時間が流れていた。
先ほどまで騒がしかった国綱も。
今は座布団を枕代わりにして、畳の上で眠っている。
煙草はいつの間にか消えていた。
酒も。
さすがに飲み疲れたのか、脇に置かれている。
「……」
千代は、そんな息子をしばらく眺めていた。
寝ていると。
昔と変わらない。
起きている時は、乱暴で。
口も悪く。
何をするか分からない。
けれど。
眠ってしまえば。
ただの大きな子供に見える。
「……まったく」
千代は小さく息を吐いた。
そして。
国綱の頭を、そっと持ち上げる。
「ん……」
国綱が僅かに身じろぎする。
「ほら」
千代は自分の膝へ、その頭を乗せた。
膝枕。
国綱は目を覚まさない。
「……」
千代は少しだけ笑う。
そして。
大きな頭を、ゆっくりと撫で始めた。
髪を指で整えるように。
何度も。
何度も。
「大きくなったわね……」
小さく呟く。
国綱は答えない。
ただ。
規則正しい寝息だけが聞こえる。
千代は、その頭を撫で続けた。
*
襖の向こう。
それを見ていたリリスは。
何も言わなかった。
信綱も。
朔夜も。
宗綱も。
しばらく黙っている。
やがて。
千代が顔を上げた。
「……みんな」
「はい」
信綱が返事をする。
「少し、別の部屋で話しましょう」
リリスが頷く。
「分かりました」
信綱も頷いた。
朔夜も続く。
「はい」
宗綱だけが。
少し名残惜しそうに国綱を見る。
「……」
「あなたもよ」
千代に言われる。
「ああ」
宗綱は立ち上がった。
最後に一度。
国綱を見る。
「……」
何も言わず。
襖を閉めた。
客間には。
千代と。
眠っている国綱だけが残った。
*
別の客室。
四人は向かい合って座っていた。
リリス。
信綱。
朔夜。
そして宗綱。
最初に口を開いたのは宗綱だった。
「……さて」
宗綱は大きく息を吐く。
「色々と話さなければならんな」
「そうですね」
信綱が頷く。
「まずは……」
宗綱は朔夜を見る。
「婚姻についてだ」
「はい」
朔夜は姿勢を正す。
「先ほども話したが、国綱との婚約は破棄された」
「はい」
「そして」
宗綱は信綱を見る。
「お前と朔夜の縁談については、先方も了承している」
信綱の顔が少し赤くなる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」
宗綱は苦笑した。
「正式な手続きが残っている」
「はい」
リリスは二人を見る。
「婚姻の時期については?」
「そこがまだ決まっていない」
宗綱が答える。
「両家への正式な報告」
「はい」
「婚姻の儀式」
「はい」
「そして――」
宗綱が少し顔を曇らせる。
「龍神への奉納だ」
朔夜が少しだけ表情を引き締める。
「……やはり」
「避けては通れん」
宗綱は頷いた。
「この国では、婚姻のような大きな節目には龍神への奉納を行う」
「捧げ物……ですよね」
リリスが尋ねる。
「ああ」
「具体的には?」
「酒や米、肉、作物」
宗綱が指を折る。
「それから祭具などだ」
「毎回かなりの量になるんですか?」
「少なくはない」
信綱が少し困ったように笑う。
「昔から大変なんです」
「しかも」
宗綱は続けた。
「龍神は国の最奥に住んでいる」
「……」
「奉納するには、山奥まで品を運ばなければならん」
「それだけなら」
リリスが言う。
「そこまで問題にはならないのでは?」
「問題は、その後だ」
「後?」
「奉納した後も、毎年の儀式がある」
「……」
リリスは少し黙った。
「つまり」
「毎年です」
信綱が答える。
「毎年、決められた時期に奉納します」
「なるほど……」
リリスは眼鏡を押し上げた。
「確かに大変ですね」
「だろう?」
宗綱は苦笑する。
「国を守っていただいている以上、仕方のないことではある」
「……」
朔夜も静かに頷く。
「私の家でも、その話は聞いています」
「そうか」
「昔からの習慣ですから」
信綱も頷く。
「龍神様のおかげで川が氾濫せず、土地も守られている」
「だから奉納する」
「はい」
リリスはしばらく考えた。
「では」
「何だ?」
「信綱さんと朔夜さんの婚姻は、その奉納の儀式と一緒に行うのですか?」
「そのつもりだ」
宗綱が答える。
「どうせなら一度で済ませた方がいい」
「合理的ですね」
「国綱なら、絶対にそう言うだろうな」
宗綱が苦笑する。
「面倒くさいから一回で全部やれ、と」
「……」
リリスが少し笑った。
「確かに言いそうです」
信綱も苦笑する。
「兄さんなら」
「信綱」
朔夜が小さく笑う。
「そうですよね」
少しだけ。
客室の空気が和らぐ。
だが。
宗綱はまだ考え込んでいた。
「しかし」
「何か?」
リリスが尋ねる。
「奉納の品がな」
「はい」
「今回の龍神様の件もある」
「……」
宗綱は頭を抱えた。
「洞窟は崩れかけている」
「……」
「祠もいくつか壊れている」
「……」
「奉納のための道も、少し確認し直さなければならん」
「かなり大変ですね」
「誰かさんのせいでな」
宗綱が遠い目をする。
リリスは何も言わなかった。
「まあ……」
信綱が苦笑する。
「兄さんにも悪気は――」
「あるだろ」
宗綱が即答する。
「……」
「かなりある」
信綱は何も言えなくなった。
朔夜も苦笑する。
「でも」
朔夜が口を開く。
「龍神様も、今後は少し考えてくださるかもしれません」
「そうだな」
宗綱も頷く。
「そこは期待したい」
*
その頃。
別室では。
千代が国綱の頭を撫で続けていた。
「……」
国綱は熟睡している。
普段なら。
少し物音がするだけでも目を覚ます。
だが。
今日は起きない。
龍神との戦い。
大量の酒。
そして帰宅してからの説教。
さすがに疲れているらしい。
「本当に……」
千代は苦笑する。
「無茶ばかりするんだから」
国綱の額にかかった髪を払う。
「昔から変わらないわね」
その時。
「……ん」
国綱が僅かに眉を動かした。
「起きた?」
「……」
返事はない。
千代はまた頭を撫でる。
「寝てなさい」
「……」
国綱はそのまま眠り続けた。
*
別室では。
話が続いている。
「では」
宗綱が言う。
「婚姻の日取りを決める必要がある」
「はい」
信綱が頷く。
「両家の日程を合わせて」
「そうだ」
「それから奉納品を用意して」
「うむ」
「龍神様にも正式に知らせる」
「……」
宗綱が少し困った顔をする。
「そこが問題だ」
「龍神様は今……」
「客間で休んでいる」
リリスが言った。
「では」
信綱が考える。
「明日、改めてお話を――」
その時。
「……祭りにすりゃいいだろ」
「……」
全員が振り返った。
襖が。
少しだけ開いている。
そこに。
国綱が立っていた。
髪は少し乱れている。
まだ眠そうな顔。
煙草を咥えている。
「兄さん?」
「ああ」
「いつからいたんです?」
「今起きた」
「……」
宗綱が眉をひそめる。
「何の話を聞いていた?」
「婚姻と奉納だろ」
「ああ」
「なら」
国綱は客室へ入ってくる。
「一緒にやりゃいい」
「一緒に?」
「祭りにするんだよ」
宗綱が首を傾げる。
「どういう意味だ?」
「龍神への奉納を」
国綱は煙草の煙を吐く。
「祭りにする」
「……」
「酒を出す」
「……」
「飯を出す」
「……」
「歌って騒いで」
「……」
「信綱と朔夜の結婚を祝う」
信綱と朔夜が顔を見合わせる。
「そして」
国綱は笑う。
「龍神にも祝わせる」
「……龍神様に?」
信綱が尋ねる。
「ああ」
「どうやって?」
「知らねぇよ」
「……」
「そこは龍神に考えさせろ」
「兄さん……」
宗綱が頭を抱えた。
「お前は本当に……」
「何だよ」
「少しはまともな案を出せんのか」
「まともだろ」
国綱は平然としている。
「今まで面倒だったんだろ?」
「ああ」
「だったら祭りにすりゃいい」
「……」
「毎年やる」
「……」
「奉納もする」
「……」
「国中で祝う」
国綱は指を一本立てた。
「そうすりゃ誰も損しねぇ」
「いや」
宗綱は考える。
「意外と……」
「父上?」
信綱が見る。
「いや」
宗綱は腕を組む。
「悪くないかもしれん」
リリスも考える。
「確かに」
「リリスまで?」
「奉納だけを目的にするより、国民が参加できる行事にした方が負担感は減るでしょう」
「そうだろ?」
国綱が得意げになる。
「それに」
リリスが続ける。
「婚姻も祝祭として行えば、信綱さんと朔夜さんにとっても良い門出になると思います」
朔夜が少し照れる。
「……ありがとうございます」
信綱も頷いた。
「僕も……いいと思います」
宗綱はしばらく考え。
やがて。
「……なら」
「お?」
「本当に祭りにしてみるか」
国綱が笑った。
「だろ?」
「ただし」
宗綱が指を立てる。
「準備はお前も手伝え」
「……」
国綱の笑顔が消える。
「俺は勘当されるんだぞ」
「まだ出ていないだろう」
「……」
「最後くらい働け」
「面倒くせぇ」
「なら却下する」
「分かったよ」
国綱はため息を吐いた。
「やりゃいいんだろ」
「そうだ」
「ったく」
国綱は煙草を吸う。
そして。
信綱と朔夜を見る。
「まあ」
「はい」
「お前らの結婚祝いだ」
少しだけ笑う。
「派手にやろうぜ」
信綱は照れながら頷いた。
「はい」
朔夜も。
「はい」
小さく頷く。
その時。
客間の方から。
「……」
千代の声が聞こえた。
「国綱」
「ん?」
「寝ていたんじゃなかったの?」
「起きた」
「そう」
「……」
「また勝手なことを思いついたのね」
「まあな」
千代は小さく笑った。
「でも」
「何だ?」
「今度は、少しくらいまともなことを考えたじゃない」
「だろ?」
国綱は得意げに笑う。
こうして。
龍神への奉納は。
ただの儀式ではなく。
鬼嶺家の次男、信綱と。
その婚約者、朔夜。
二人の門出を祝う。
大きな祭りへと。
少しずつ形を変えていくことになった。