第九十六話 龍神と酒樽
鬼嶺の祭りは、夜が深くなるほど賑わいを増していた。
太鼓が鳴る。
笛が響く。
屋台からは料理の匂いが漂い、酒を持った人々が笑い声を上げている。
普段ならば静かな山間の国とは思えないほどの騒ぎだった。
その中心から少し離れた場所。
祭りの明かりが届くか届かないかという場所に、龍神がいた。
大きな岩に腰を下ろし。
一人で酒を飲んでいる。
「……」
別に祭りが嫌いなわけではない。
人間たちが自分を恐れながらも、今日だけは笑顔で接してくることにも、悪い気はしなかった。
だが。
騒がしい。
あまりにも騒がしい。
「……少し離れていよう」
龍神が小さく呟く。
その時だった。
「……ん?」
背後から声がした。
「なんでこんな離れたとこで飲んでんだ?」
「……」
龍神が振り返る。
そこには。
煙草を咥えた国綱が立っていた。
「国綱」
「おう」
「何をしに来た」
「祭りだぞ」
「知っている」
「だったらもっと真ん中で飲め」
「私は静かに飲みたい」
「祭りで静かに飲む奴があるか」
「ある」
「ねぇよ」
「ある」
「ねぇ」
「ある」
「じゃあ行くぞ」
「……は?」
次の瞬間。
国綱が龍神の身体へ腕を回した。
「ちょっ――」
そのまま。
ひょい。
「なっ……!」
龍神の身体が持ち上がる。
「おい!」
「軽いな」
「降ろせ!」
「暴れるな」
「貴様、私を誰だと思っている!」
「龍神だろ」
「分かっているなら――」
「よいしょ」
国綱は龍神を俵のように肩へ担いだ。
「な――!」
「行くぞ」
「降ろせぇ!」
龍神の抗議を完全に無視し。
国綱は祭りの中心へ向かって歩き出した。
ズンズン。
ズンズン。
巨大なオーガが龍神を担いで歩いてくる。
それだけでも異様な光景だった。
「……」
「……」
祭りの人々が振り返る。
そして。
「龍神様……?」
「国綱が担いでるぞ……」
「何してんだ、あいつ……」
誰も止めない。
止められない。
国綱はそのまま祭りの中心へ入り込む。
「おい、国綱!」
龍神が叫ぶ。
「聞こえてる」
「降ろせ!」
「分かった」
「なら――」
「ここでいいな」
「え?」
国綱は。
龍神を。
ぽーん。
「わっ――!」
放り投げた。
龍神の身体が宙を舞う。
そして。
ドスンッ!
祭りの中心に着地した。
「…………」
龍神がゆっくり立ち上がる。
髪が乱れている。
着物も少し崩れている。
角の間から。
怒りに満ちた視線が国綱へ向けられる。
「……貴様」
「おう」
「後で覚えていろ」
「祭りが終わる頃には忘れてるだろ」
「忘れるものか!」
国綱は笑った。
そして。
祭りの中心を見回す。
「なんだ?」
「……?」
「盛り上がりが足りねぇぞ!」
「…………」
一瞬。
祭りが静かになった。
国綱が大声を上げたからだ。
「祭りだろ!」
「……」
「もっと飲め!」
「おお!」
誰かが叫ぶ。
「もっと騒げ!」
「おおお!」
「今日は龍神様もいるんだぞ!」
「おおおお!」
太鼓が一段と激しくなる。
笛が鳴る。
人々の歓声が広がる。
国綱は満足そうに笑った。
「そうだ!」
近くに置かれていた酒樽へ歩いていく。
「酒を持ってこい!」
「もうあります!」
「足りねぇ!」
「まだ飲むんですか!?」
「祭りだぞ!」
国綱は樽を一つ抱え上げた。
そして。
「こうやって飲むんだよ!」
樽の口へそのまま口をつける。
ゴクッ。
ゴクッ。
ゴクッ。
「…………」
周囲の人間が呆然とする。
「国綱……」
龍神が呟く。
「お前は本当に馬鹿なのか?」
国綱は樽から口を離す。
「うめぇ!」
「聞いているのか?」
「ああ」
「なら――」
「お前も飲め」
「……」
龍神が嫌な予感を覚える。
「何を言っている?」
国綱は。
別の樽を指差した。
「こっちだ」
「いや、私は――」
「飲め」
「私は今まで――」
「祭りだぞ」
「……」
「飲め」
「断る」
「そうか」
国綱は樽を抱える。
そして龍神の前まで歩いた。
「なら、飲ませる」
「やめろ!」
龍神が後ろへ下がる。
だが。
国綱の腕が伸びる。
「ほら」
「嫌だ!」
「うまいぞ」
「私は酒を飲みに来たのではない!」
「祭りなんだから飲め」
「理屈になっていない!」
龍神が抵抗する。
だが。
オーガの腕力は圧倒的だった。
「ほら」
「んぐっ――!」
樽が龍神の口元へ押し付けられる。
龍神は慌てて顔を背けようとする。
しかし。
「逃げるな」
「飲ませ方が乱暴すぎる!」
「酒ってのはこういうもんだ」
「違う!」
「飲め飲め」
「ん……!」
龍神が仕方なく一口飲む。
そして。
「……!」
目を見開いた。
喉を通った瞬間。
強烈な熱が身体を駆け抜ける。
「……な、何だこれは」
「俺が持ってきた酒だ」
「……強い」
「六十パーセント近い」
「馬鹿か!」
「うめぇだろ?」
「強すぎる!」
「だからいいんだ」
「良くない!」
国綱は笑いながら自分も一口飲む。
「どうだ?」
「……」
龍神は口元を拭う。
「……悪くはない」
「だろ?」
「ただし」
「なんだ?」
「これは酒というより毒に近い」
「褒め言葉だな」
「違う!」
周囲から笑い声が上がる。
「龍神様が国綱に絡まれてるぞ!」
「国綱、また無茶苦茶やってるな!」
「酒持ってこい!」
「こっちにも回せ!」
国綱はさらに機嫌を良くする。
「そうだ!」
樽を持ち上げる。
「今日は無礼講だ!」
「おお!」
「飲め!」
「おお!」
「龍神も飲め!」
「なぜ私だけ名指しする!」
「神様だからだ!」
「意味が分からん!」
龍神が怒鳴る。
それでも。
祭りは笑いに包まれていた。
少し前まで。
人々にとって龍神は。
恐れ。
畏れ。
そして。
捧げ物をしなければならない存在だった。
だが今は。
酒樽を前にして国綱と口論している。
「もう一杯だ!」
「いらん!」
「遠慮するな」
「していない!」
「じゃあ飲め!」
「だからいらんと言っている!」
「ほら!」
「やめろ!」
そんな騒ぎを。
信綱が少し離れたところから眺めていた。
「……」
信綱は頭を抱える。
「兄貴……」
隣にいた朔夜が苦笑する。
「相変わらずですね」
「本当に……」
信綱はため息をつく。
「どうして祭りになると、ああなるんだ」
「楽しいのでしょうね」
「そうだろうな」
信綱は龍神を見る。
「……龍神様も」
「はい」
「なんだかんだ楽しそうだな」
龍神は。
「私は別に楽しんでなど――」
「ほら!」
国綱が酒を差し出す。
「もう一杯!」
「だからいらん!」
「飲め!」
「……」
龍神はしばらく国綱を睨んだ。
そして。
「……一杯だけだ」
「よし!」
国綱が笑った。
太鼓が鳴る。
笛が響く。
酒が回る。
人々が笑う。
そして。
龍神まで。
ほんの少しだけ。
その輪の中に溶け込んでいた。
鬼嶺の祭りは。
まだ始まったばかりだった。