俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~   作:パラレル・ゲーマー

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第24話 命の恩人の危機ですから

 金曜日の午前。

 

 直哉は、実家の自室のベッドの上でスマートフォンを眺めながら、大きく息を吐き出していた。

 

 画面には、八咫烏の霧島から届いたばかりのメッセージが表示されている。

 

『森川さん。紅城院玲蘭さんの件について、一点ご連絡があります』

『能力者社会の複数の情報筋から、ヴァレリウス側が今回の紅城院家に関する案件から完全に手を引いた、との情報が出ています』

 

 直哉は、その一文を何度も読み返した。

 

(……手を引いた?)

 

『ヴァレリウス家側から、我々や紅城院家に対して公式な通達があったわけではありません。したがって、完全な安全を保証する情報ではありません』

『ただし、複数の信頼できる経路で同様の話が確認されており、現時点で紅城院玲蘭さんに対する再度の襲撃準備を示す兆候も、一切確認されていません』

 

 直哉は、スマホを持ったまま天井を仰ぎ見た。

 

「……よかったぁ……!」

 

 心底、安堵した。

 

 月曜日、あの地下駐車場で玲蘭は首を掴まれ、直哉自身も殺されかけた。

 さらに水曜日のオークションでは、ノア本人と普通に再会したので、「あいつ、まだ日本にいてウロウロしてるんだよな」という不安がどうしても拭いきれなかった。

 

 だが、あの時のノアの「仕事失敗したから契約も終わり」という言葉は、少なくとも強がりではなかったらしい。

 複数の情報筋が同じ話をしている以上、今回の仕事が手仕舞いになった可能性はかなり高い。

 

 ノアがまだ日本にいるかどうかと、玲蘭を再び狙うかどうかは、完全に別の話なのだ。

 

(玲蘭さんにも、早く教えておこう)

 

 直哉は、今日の予定を思い出した。

 

 今日は、八咫烏の施設へ行く予定はない。

 

 昨日は朝からレイジと千里という二人の新キャラクターの能力測定を行い、そのまま《広域観測支援業務》という、週一回三時間で百万円という破格のホワイト試験契約まで結んできた。

 

 今日、直哉が会う約束をしているのは、玲蘭だ。

 

 前日の夜、彼女の方から「もしお時間があるなら、明日少しだけお付き合いいただけませんか?」と連絡があったのだ。

 護衛任務ではない。正式な八咫烏を通した案件でもない。

 玲蘭個人からの、軽いお願い。都内でいくつか買い物と家の用事を済ませ、その後にお茶でもしたいという程度の、完全なプライベートの誘いだった。

 

 直哉としても、二つ返事で了承した。

 

(そういえば、玲蘭さんと普通の日常的な会話をするのって、久しぶりな気がするな)

 

 出会ってから、暗殺の危機、病院への搬送、高額な護衛契約、そしてノアとの遭遇と、常に緊迫した事態ばかりが続いていた。

 

 ただし。

 

 待ち合わせの直前に、玲蘭から少しだけ妙な『追加注文』のメッセージが届いていた。

 

『それと、一つお願いがあるのですが』

『可能であれば、本日はエレノアさんのお姿で来ていただけませんか?』

 

 直哉は首を傾げた。

 

(エレノア?)

(いや、別にいいけど……買い物に行くのに、なんでわざわざあのメイド服?)

 

 理由を尋ねると、すぐに返事が来た。

 

『今日お願いしたいのは、危険な護衛というよりは、お買い物に同行していただく「付き人」のような役割ですので』

『その……今のナオさんのお姿の中で、それが一番「それらしい」かと思いまして』

 

 直哉は納得した。

 

(まあ、確かに。一番それらしいどころか、完全に本職のメイド長だもんな)

 

 直哉は「分かりました」と返信を打ち、準備を始めた。

 

 ◆

 

 午後。

 

 直哉は、都内の指定された待ち合わせ場所の近くで、人目につかない場所と監視カメラの死角を正確に確認し、いつものように変身の手順を踏んだ。

 

『【CHARACTER CHANGE】』

 

 光の粒子が収まり、三十四歳の男の身体は、クラシカルなメイド服に身を包んだ、洗練された女性――エレノア・ヴァイスへと切り替わった。

 

 直哉は、服のシワを伸ばしながら内心で確認する。

 

(よし。今日は誰とも戦う仕事じゃない。ただの買い物だ)

(ノクターンが残していったカードのことは気になるけど……まあ、今日はただの付き添いだからな。気楽に行こう)

 

 自分にそう言い聞かせ、待ち合わせのカフェの前へと向かう。

 

 そこには、落ち着いた私服姿の玲蘭がすでに待っていた。

 

 直哉は、彼女の姿を認めるなり、極めて自然な動作で歩み寄った。

 そして、完璧な角度で頭を下げた。

 

「お待たせいたしました、お嬢様。本日は私が、お側を務めさせていただきます」

 

 直哉の内心は、激しく自分自身に突っ込んでいた。

 

(いや、付き人モードに入ると、普段以上にメイド長らしい所作になるな!?)

 

 玲蘭は、目の前に現れたエレノアの姿を、しばらく無言でじっと見つめていた。

 

「…………」

 

 エレノアが、静かに小首を傾げる。

 

「お嬢様。私の身だしなみに、何かお気に障る点でもございましたか?」

 

 玲蘭は慌てて首を横に振った。

 

「いえ。逆です」

「思っていた以上に……その、付き人として完成されすぎていて。少し見惚れてしまいました」

 

 直哉の内心が、少しだけ照れたように呟いた。

 

(中身は、ついこの前まで十一か月も無職だった三十四歳の男なんだけどな)

(今じゃ普通に仕事してるの、自分でもちょっと信じられないけど)

 

 玲蘭が、嬉しそうに微笑んだ。

 

「とても、よくお似合いです」

 

 エレノアは、淀みないトーンで優雅に返した。

 

「お褒めにあずかり、光栄の至りでございます」

 

 直哉の内心は、(勝手に返事が百点満点で出力されるんだよな、この身体の翻訳機能……)と、呆れるやら感心するやらだった。

 

 二人が合流し、目的の場所へと移動を始めたタイミングで。

 

 直哉は、今日一番最初に玲蘭へ伝えたかった話を切り出した。

 

 エレノアの落ち着いた口調で告げる。

 

「お嬢様。先ほど、八咫烏の担当者より、ノア・ヴァレリウスの件に関して連絡がございました」

 

 玲蘭の表情が、一瞬にして硬く強張った。

 

 直哉には、その反応も無理はないと思えた。

 つい数日前に、自分の命を直接奪いに来た相手の名前だ。

 

「……何か、あったのですか?」

 

 エレノアは、すぐに安心させるように首を振った。

 

「いいえ。むしろ、良い知らせかと存じます」

 

 そして、霧島から聞いた情報を正確に説明した。

 

「能力者社会の複数の情報筋において、ヴァレリウス側が、今回のお嬢様に関する案件から『完全に手を引いた』との情報が流れているそうです」

「八咫烏としても、現時点で彼らが再度の襲撃準備を示す兆候は、一切確認していないとのことでした」

 

 玲蘭は、足を止めた。

 

 彼女は、すぐにはその言葉を信じ切れないように、不安げな目でエレノアを見つめた。

 

「……本当に、終わったのでしょうか」

 

 直哉は、ここで無責任に「絶対に大丈夫だ」と断言するようなことはしなかった。

 三十四歳の社会人として、情報の正確な線引きを理解している。

 

「ヴァレリウス家からの正式な通知があったわけではございませんので、八咫烏も完全な保証まではしておりません」

「ですが、複数の別々の経路から全く同様の情報が確認されている以上、行政としても、その信憑性は極めて高いと判断しているようです」

 

 中身の直哉は、(俺だって絶対とは言えないけど……あいつの性格と裏社会のルールを考えれば、たぶんもう大丈夫だと思う)と、心の中で補足していた。

 

 玲蘭は、少しの間、黙って地面を見つめていた。

 

 そして。

 

 彼女の肩から、これまで入っていた力が、ゆっくりと抜けていく。

 

 玲蘭は、小さく、しかし深く息を吐き出した。

 

「……よかった」

 

 彼女は無理に笑顔を作るのではなく、ただ純粋に、心の底から安心したような表情を見せた。

 

「本当に……よかったです」

 

 直哉は、その様子を静かに見守った。

 

 月曜日の襲撃以降、玲蘭がどれほど不安を抱えていたのか。

 今、ようやく力の抜けた彼女の姿を見て、直哉にもその一端が伝わってきた。

 

 エレノアも、穏やかな声で同調した。

 

「ええ。私も、少々安心いたしました」

 

 直哉の内心は、(全くだよ、ほんとにな)と深く同意していた。

 

 ただし、玲蘭は一つだけ確認した。

 

「では、ノアさんはもう日本にはいらっしゃらないのですか?」

 

 直哉は、正確な事実だけを伝えた。

 

「そこまでは分かっておりません。あくまで、『今回のお嬢様に関する案件から手を引いた』という情報のみです」

 

 ノアがまだ日本にいて、別の目的で動いている可能性はゼロではない。

 

 玲蘭は少しだけ首を傾げた。

 

「そうですか……」

 

 直哉の内心は、一つの小ネタに気がついてツッコミを入れていた。

 

(……自分を殺しに来た相手にも、ちゃんと『ノアさん』ってさん付けで呼ぶんだな、このお嬢様は。ほんと育ちがいいわ)

 

 その後は、驚くほど穏やかな『付き人』としての時間が流れた。

 

 危険な能力者との戦闘も、怪異との遭遇もない。

 玲蘭の買い物の付き添い。紅城院家関連の店舗でのちょっとした書類の受け取り。大きな書店での専門書の物色。そして、落ち着いたレストランでの少し遅めの昼食。

 

 その間、エレノアの身体は、完全にプロの従者としての役割を全うしていた。

 

 玲蘭が向かう先々のドアを、自然なタイミングで開ける。

 受け取った荷物を、ごく滑らかに持ち替える。

 レストランでは、玲蘭が座る椅子を静かに引く。

 店員との応対にしても、姿勢や手の運びにしても、直哉自身が普段意識している時とは明らかに違う。

 

 直哉本人は、内心で首を傾げ続けていた。

 

(いや、俺、こんな上流階級の礼儀作法なんて知らないんだけどな)

(なのにエレノアの身体だと、姿勢も手の運びも妙に自然に決まるんだよな……夜行館のメイド長、こういうところでも便利すぎるだろ)

 

 ★5キャラクターの恩恵は、戦闘性能だけではない。

 少なくとも、エレノアという『メイド長』の姿になっている間は、その身体そのものが役柄に馴染んだ所作を見せるらしい。

 

 玲蘭も、いつもの「いつ襲われるか分からない」という張り詰めた護衛の時とは違い、少しずつ表情を和らげながら、買い物を楽しんでいるように見えた。

 

 直哉もそれを見て、少しだけ嬉しくなった。

 

(ああ。こういう普通の顔もするんだな)

 

 玲蘭の足取りが先ほどより軽く見えるだけでも、今日来てよかったと思えた。

 

 ◆

 

 午後。

 

 買い物を終えた二人は、外から会話を聞かれにくい、完全個室のある高級な喫茶店で休憩をとることにした。

 

 ただし、直哉は「個室だから絶対安全だ」と考えることまではせず、入り口の動線や非常口の位置だけは軽く確認しておいた。

 

 運ばれてきた紅茶を一口飲み、玲蘭がふと尋ねてきた。

 

「そういえば、ナオさん」

 

「はい」

 

「水曜日のオークションのお仕事は、無事に終わったのですか?」

 

 直哉は、少しだけ言い淀んだ。

 

 エレノアの口調で、慎重に答える。

 

「ええ。最終的には、警備業務そのものは問題なく完了いたしました」

「ただ……少々、想定外の人物に遭遇いたしまして」

 

 玲蘭が、ティーカップを置いた。

 

「想定外?」

 

「ノア・ヴァレリウスでございます」

 

 玲蘭の動きが、完全に固まった。

 

「…………」

 

 直哉は、慌てて補足しようとした。

 だが、当然出力されるのはエレノアの言葉だ。

 

「ご安心ください。あの場では、彼と敵対して戦闘になったわけではございません」

 

 玲蘭は、信じられないというように瞬きをした。

 

「……敵対していない?」

 

「はい。彼は、正式な招待客として、普通に会場におりましたので」

 

「あの方、あのようなオークションに、普通にいらっしゃったのですか?」

 

「ええ。普通にいらっしゃいました。ケーキを山ほど食べておられました」

 

 直哉の内心は、(ほんと、何で普通にいたんだよあいつ……)と再び理不尽さを思い出していた。

 

 玲蘭が、身を乗り出した。

 

「それで、一体何があったのです?」

 

 直哉は、水曜日に起きた事件の顛末をかいつまんで話した。

 

 怪盗ノクターンと呼ばれる能力犯罪者が現れたこと。

 キザな予告状。

 幻術、あるいは認識干渉と思われる能力。

 一時的に、目の前で宝石が消えたように見えたこと。

 ノアと即席のコンビを組んで、舞台裏を追跡したこと。

 だが、結局、宝石そのものは盗まれていなかったこと。

 

 そして。

 

「結果だけを申し上げますと」

 

 エレノアは、少しだけ悔しそうに目を伏せた。

 

「私と、ノア・ヴァレリウスの二人がかりで。あの怪盗に、見事に手玉に取られました」

 

 玲蘭は、絶句した。

 

「…………」

 

「ナオさんと、あのノアさんが、二人で?」

 

「ええ」

 

「それで、捕まらなかったのですか?」

 

「影すら、掴ませていただけませんでした」

 

 エレノアという完璧なメイド長の姿で、あまりにも素直に敗北を認めるものだから、その光景は余計にシュールだった。

 

 だが、玲蘭は笑わなかった。

 

 彼女は、ノアの恐ろしさを実際に知っている。

 加えて、目の前にいるナオは、時間を完全に停止させる能力を持つ。

 

 その二人を同時に欺き、翻弄した存在。

 

 玲蘭の表情が、真剣なものに変わった。

 

「その怪盗……かなり危険な方なのではありませんか?」

 

 直哉は、冷静に分析した結果を伝えた。

 

「ノアのように、正面から命を狙って戦いを挑んでくる類の方ではなさそうですが。こと『捕まえる』『出し抜く』という意味においては、非常に厄介な相手かと存じます」

 

「なお、当日の会場での盗難被害そのものは、一件もございませんでした」

 

 玲蘭が首を傾げる。

 

「え?」

 

「《祝福されし宝石》は、最初から最後まで、ガラスケースの中にございました」

 

 玲蘭は、混乱したように問い返した。

 

「では、その怪盗は、一体何を目的として現れたのですか?」

 

 少しの沈黙。

 

 エレノアは、静かに答えた。

 

「どうやら、狙われていたのは、私の方だったようです」

 

 玲蘭の目が、大きく見開かれた。

 

「…………ナオさんが?」

 

 直哉は、あの黒いカードの詳細な文面までは話さなかった。

 必要以上に彼女を不安にさせることはない。

 

 ただ、事実として。

 

「私の『秘密』に興味がある、という趣旨の言葉を残されました」

 

 玲蘭の顔から、先ほどまでの買い物を楽しんでいた柔らかさが消えた。

 

「……それは、明確な敵対行為なのでは?」

 

 直哉の内心は、(いや、別に危害を加えられたわけじゃないから、そこまで深刻には思ってないんだけどな)と、少しだけ楽観的だった。

 

 エレノアの口から、それを宥めるように言葉が出る。

 

「現状では、私に直接的な危害を加えられたわけではございません。どちらかと言えば、純粋に『興味を持たれている』という段階かと存じます」

 

 だが、玲蘭は即座に言い切った。

 

「でしたら、紅城院の方でも、その怪盗ノクターンについて独自のルートで調査させます」

 

 直哉は驚いた。

 

(えっ)

 

 エレノアが、やんわりと制止する。

 

「そこまでしていただく必要はございません、お嬢様」

 

「あります」

 

 玲蘭は、一歩も引かなかった。

 

「ナオさんに敵対する可能性があるのでしょう?」

 

「いえ、現状では危機と呼ぶほどの事態では――」

 

「今は、そうかもしれません」

 

 玲蘭は、首を横に振った。

 

「ですが、能力犯罪者に『秘密を知りたい相手』として目を付けられた時点で、何も起きていないから安全だとは、私は思えません」

 

 直哉が、少しだけ言葉に詰まる。

 

 玲蘭は続けた。

 

「本人から直接聞き出せないのであれば、その周囲から調べようとするかもしれません。家族や、親しい人、仕事で関わった方を調べる可能性だってあります」

 

「…………」

 

 直哉の内心に、今まで考えていなかった方向から冷たいものが走った。

 

(……そこまでは考えてなかったな)

 

 ノクターンが実際にそんなことをするかどうかは分からない。

 だが、「絶対にしない」と言い切れる材料もない。

 

 玲蘭は、真っ直ぐにエレノアの目を見た。

 

「ですから。私の、命の恩人の危機ですから」

 

 直哉の内心が、(いや、危機ってほどじゃないだろって思ってたけど……そう言われると完全には否定できないな)と、少しだけ認識を改めた。

 

 それでも、口から出るのは、あくまで従者としての落ち着いた対応だ。

 

「お嬢様のお気持ちは大変ありがたく存じます。ただ、現状では、私に差し迫った危険が確認されたわけではございません。どうかご無理だけはなさらぬようお願いいたします」

 

 しかし、玲蘭は頑なだった。

 

「差し迫ってから調べたのでは、遅いのです」

 

 そして、

 

「全てを任せろとは言いません。ですが、少なくとも、紅城院側で既に持っている裏社会の情報を洗うくらいは、私にさせてください」

 

 直哉には、その言葉が、「今度は自分にできることをしたい」と言っているように聞こえた。

 

 自分が狙われた時、直哉は命を張って玲蘭を守った。

 だから、玲蘭なりに返せるものを返そうとしているのかもしれない。

 

 直哉も、彼女のその真剣な瞳を見て、無下に断り続けることはできなかった。

 

(まあ、それくらいなら……ありがたいしな)

 

 エレノアは、静かに一礼した。

 

「……承知いたしました。八咫烏でも、既に情報漏洩の経路を含めて調査を始めております。ですので、お嬢様まで過度にご心配いただかなくとも――」

 

 ここで、玲蘭が少しだけ考えるような仕草を見せた。

 

 そして。

 

「……ナオさん」

 

「はい」

 

「そのことについて、一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」

 

 玲蘭は、少し声を落として言った。

 

「八咫烏へ、ご自身の情報を『何でも全て』開示してしまうのは、少し慎重になった方がいいと思います」

 

 直哉は、意外な言葉に少し驚いた。

 

 エレノアが尋ねる。

 

「八咫烏という組織を、信用してはならない、という意味でしょうか?」

 

 玲蘭は、即座に首を横に振った。

 

「いいえ。八咫烏の能力や管理体制を疑っているわけではありません」

「むしろ、国内の能力者社会においては、彼らは最も信頼できる行政組織の一つだと思っています」

 

 そこは、明確に肯定した。

 

「でも」

 

 玲蘭の目が、真剣な光を帯びる。

 

「八咫烏がどれだけ厳重に情報を管理し、機密を保護していたとしても……『能力』によって、その強固な壁の外側から直接情報を抜き取られる可能性までは、完全には否定できません」

 

 直哉は聞き返した。

 

「能力で、情報を盗むのですか?」

 

「はい」

 

 玲蘭は、いくつかの例を挙げた。

 

「例えば、未来や過去の出来事を見る能力者がいるかもしれません」

「遠く離れた場所を、直接見る能力者もいるかもしれません」

「数キロ、数十キロ先の会話を、ピンポイントで聞き取れる能力者がいても不思議ではありません」

「特定の人物を追跡する能力や、その場に残った何らかの痕跡から情報を得る能力だって、あり得ます」

 

 玲蘭は、静かに言った。

 

「能力者という存在は、極端な話。『そんなことまでできるのか』という理不尽な能力が、本当に、現実のこの世界に存在するのですから」

 

 直哉の内心は。

 

(…………)

 

 完全に、沈黙していた。

 

 昨日。

 

 彼が確認した、新しい★4キャラクターのプロフィール。

『最大40,000km』の観測範囲。

 壁抜き。地下施設透視。人間の広域検索。

 

(説得力が、ありすぎる……!)

 

 エレノアの顔は、完璧に冷静なままだったが。

 直哉の内心は、激しく同意していた。

 

 玲蘭が、さらに声を潜めた。

 

「ですから、極端な例を申し上げれば」

 

「今、この個室で私とナオさんが話しているこの会話の内容も。どこかの能力者に、遠隔から聞かれている可能性は、ゼロではありませんよ?」

 

 直哉は。

 

「…………」

 

 内心で。

 

(ええ……怖っ)

 

 直哉は、反射的に個室の壁を見た。

 天井の隅を見た。窓の外を見た。

 

 もちろん、何も分からない。

 

(いや、見たって俺に気配とか分かるわけないだろ!)

 

 だが、エレノアの発話フィルターは、直哉の恐怖とは似ても似つかないほど落ち着いた言葉を出力した。

 

「……それは、少々穏やかではございませんね」

 

 玲蘭が、その返答を聞いて、「ふふっ」と少しだけ笑った。

 

 直哉の内心は、(いや、俺は今、本気でビビってるんだけど!?)と抗議していた。

 

 だが、玲蘭は直哉を怖がらせっぱなしにはしなかった。

 ちゃんと、現実的な安心材料も提示してくれた。

 

「もちろん、必要以上に心配しすぎる必要はありません」

 

 直哉は身を乗り出した。

 

「そうなのですか?」

 

「はい」

 

 玲蘭は、紅茶のカップを手に取りながら説明した。

 

「そこまで高度で反則的な情報収集能力を持つ能力者が、実際に裏社会で活発に活動していれば。普通は、どこかで噂になります」

 

 能力者社会。裏社会。大企業。行政機関。

 そうした世界で能力を何度も使えば、不自然な情報漏洩や成果そのものが、いつかその存在を示す材料になる。

 

「特に、何の痕跡も残さず、どこからでも自由に他人の秘密を盗めるほどの能力者がいるとすれば、なおさらです。そんな存在がいれば、それ自体が大きな話題になるはずです」

 

 玲蘭は、直哉の目を見た。

 

「もちろん、誰にも知られていない未知の能力者が、絶対に存在しないとは言えません」

「ですが、『そんな能力者が、常に私たち全員の会話を二十四時間盗み聞きしている』なんて考え始めたら、私たちは日常生活で何もできなくなってしまいます」

 

 直哉の内心が、(それは確かにそうだな)と深く頷いた。

 

「ですから、『絶対に安全な場所はないと知った上で、必要以上の機密情報は軽々しく出さない』。それくらいの心構えでいるのが、一番良いと思います」

 

 直哉は、今の話を整理した。

 

「つまり、八咫烏という組織そのものを疑うのではなく――」

 

 エレノアの口調で言い直す。

 

「つまり、八咫烏を疑うのではなく、情報を一か所へ集中させすぎない方がよい、というご助言ですね?」

 

 玲蘭は頷いた。

 

「はい。それに近いです」

 

 直哉は、自分自身が抱えている『秘密』の大きさを考えた。

 

 《因果集結クロニクル》の存在。

 ガチャ。

 キャラクターへの切り替え。

 HPの概念。

 それぞれのキャラクターが持つ能力。

 

 考えてみれば、八咫烏にはかなりのところまで説明している。

 

 新しいキャラクターを引けば報告し、能力を説明し、測定を受ける。

 昨日など、千里の《天眼》について、実際に全国規模の試験まで行った。

 

(……考えてみたら俺、八咫烏には結構なところまで話してるな)

 

 もちろん、必要だったから話したことばかりだ。

 八咫烏を信用して情報を渡してきた判断そのものが、間違いだったとも思わない。

 

 彼らがいなければ、自分の能力の危険性や法的な扱いを知ることもできなかった。

 仕事を受けることも、能力者社会の常識を学ぶことも難しかっただろう。

 

(でも……これからは、「話してもいいか」だけじゃなくて、「今それを話す必要があるか」も考えた方がいいのかもしれないな)

 

 直哉は、ふと、昨日測定したばかりの『千里』のことを思い出した。

 

(そういえば俺、昨日まさに四万キロ先まで見られる、一番ヤバい観測能力者を――)

 

 直哉は、玲蘭へ向かって口を開きかけた。

 

「実は昨日――」

 

 だが。

 

 そこで、直哉の思考がピタリと止まった。

 

(…………)

(いや、待てよ)

 

 今まさに、玲蘭から「必要以上の情報を軽々しく出すな」という忠告を受けたばかりではないか。

 

 千里の詳細を、今ここで玲蘭へ説明する必要はない。

 

 直哉は学習した。

 

 エレノアは、言葉を途中で切り。

 

「……いえ。何でもございません」

 

 と、静かに口をつぐんだ。

 

 玲蘭が、少しだけ首を傾げる。

 

「そうですか?」

 

「はい」

 

 直哉の内心は、(千里の詳細は、今ここでわざわざ彼女に言う必要はないもんな)と納得していた。

 

 これは、玲蘭に対する不信感からではない。

「自分から、必要性のない情報を無闇に口にしない」という、彼女の忠告を即座に実践しただけだ。

 

 玲蘭も、「分かりました」とだけ言い、「何を隠したのですか?」と無理に追及することはなかった。

 

 それだけで、直哉には十分ありがたかった。

 

 ここで、玲蘭が少しだけ真剣な表情になって、言葉を続けた。

 

「ナオさん」

 

「はい」

 

「全部を、一人で抱え込む必要はないと思います」

 

 一拍置いて。

 

「でも、自分の全部を、誰か一人に完全に預ける必要もありません」

 

 八咫烏という行政組織を使う。

 紅城院家の情報網も使う。

 そして、自分自身で守る秘密も残す。

 

 そういう意味なのだろう。

 

 玲蘭は、少しだけ微笑んだ。

 

「私に対しても、同じです」

 

 直哉は聞き返した。

 

「お嬢様に対しても、ですか?」

 

「はい」

 

「ナオさんが話したくないご自身の秘密まで、無理に私に話す必要はありません」

 

 直哉は、少しだけ意外に思って尋ねた。

 

 エレノアの声で。

 

「お嬢様は、私の秘密について、お知りになりたくはないのですか?」

 

 玲蘭は、少しだけ間を置いて。

 

「……知りたいですよ?」

 

 直哉の内心が、(あ、知りたいんだ)と少し驚いた。

 

 玲蘭は、わずかに頬を赤くしながら言った。

 

「とても、知りたいです」

 

(そんなに!?)

 

 だが、玲蘭はすぐに表情を引き締めた。

 

「でも、『知りたい』と思うことと、無理に『聞き出していい』ことは別でしょう?」

 

 その言葉に、直哉は素直にありがたさを感じた。

 

「……ありがとうございます、お嬢様」

 

 直哉の内心も、(本当に、ありがたいな)と、心からそう思っていた。

 

 直哉は、話を怪盗ノクターンの件へと戻した。

 

「では、あの怪盗ノクターンが私について知っていたという情報も。能力によって、どこかから盗み聞きされた可能性があるのでしょうか?」

 

 玲蘭は頷いた。

 

「可能性はあります」

 

 ただし、即座に付け加えた。

 

「でも、それだけだと安易に決めつけない方がいいと思います」

 

「能力だと決めつけるのは、危険ですか?」

 

「はい」

 

 玲蘭は、いくつかの可能性を挙げた。

 

「八咫烏の内部のどこかから、情報が漏れたのかもしれません」

「別の関係者や、現場のホテルを調べたのかもしれません」

「直接、物理的に尾行していたのかもしれません」

「あるいは、私たちが全く想像もしていない、別の経路かもしれません」

 

 玲蘭は、真っ直ぐに直哉を見た。

 

「能力者の事件だからといって、何でもかんでも『能力のせいだ』と考えるのは、逆に相手の思う壺になる危険があります」

 

 直哉は、深く納得した。

 

(そりゃそうだ)

 

 相手は怪盗だ。

 潜入、偽装、情報収集のプロフェッショナルなのだ。

 

 特殊な能力が、全てとは限らない。

 

 エレノアも、静かに頷いた。

 

「確かに、お嬢様の仰る通りでございますね」

 

 玲蘭は、改めて提案した。

 

「ですから、紅城院側でも、通常の情報網を使って調べさせます」

 

「能力だけに頼らずに、ですか?」

 

「はい。怪盗ノクターンが過去にどのような事件を起こしたのか。どういう企業や人物と接触しているのか。彼が何を『価値』と考えているのか」

 

 直哉は、少しだけ考えてから、一礼した。

 

「……それでしたら、お嬢様のお言葉に甘えてもよろしいでしょうか」

 

 玲蘭は、嬉しそうに笑った。

 

「もちろんです」

 

 完全に、『守る側』と『守られる側』の関係が、少しだけ逆転していた。

 

 玲蘭は、直哉に命を救われた。

 だからこそ、今度は自分にできる形で助けようとしてくれているのかもしれない。

 

 玲蘭が言った。

 

「ナオさんばかりに守っていただくのは、不公平ですから」

 

「それは……私としては仕事でしたので」

 

「私にできることくらい、させてください」

 

 そこに明確な恋愛感情の告白のようなものがあるわけではない。

 

 ただ、二人の関係が、単なる「護衛と対象者」だけではなくなってきていることは、直哉にも感じられた。

 

 重い話はここまでだった。

 

 一通り話し終えた後、玲蘭が紅茶を一口飲み、少しだけ空気を変えるように言った。

 

「ところで、ナオさん」

 

「はい?」

 

「今日は、私の『付き人』をお願いしたはずなのですが」

 

「その通りでございます」

 

 玲蘭が、少し呆れたような目で直哉を見た。

 

「先ほどから、個室の壁や天井の隅、窓の外を、何度も鋭い目で確認していませんか?」

 

 直哉の内心は、(いや、あんな「能力で盗み聞きされてるかも」なんて怖い話された直後なんだから、そりゃ周りも気になるだろ!!)と激しく突っ込んでいた。

 

 しかし、エレノアの口からは、完璧に整えられた言葉がスラスラと出力された。

 

「お嬢様の安全をお預かりする以上、いかなる場所であっても、周囲への警戒と注意を怠るわけにはまいりません」

 

 玲蘭は、あきれたようにため息をついた。

 

「…………」

 

「ナオさん」

 

「はい」

 

「そのお姿と声で言われると、どんな言い訳でも格好よく聞こえてしまうので、少しずるいです」

 

 直哉の内心は、(そんなこと言われても知らないよ!?)と焦っていた。

 

 エレノアは、完璧な微笑みで返した。

 

「恐れ入ります」

 

(しかも、勝手に完璧な返しすんなよこの身体!)

 

 直哉は内心で頭を抱えながら、玲蘭の柔らかい笑い声を聞いていた。

 

 ◆

 

 午後後半は、完全な日常の時間が流れた。

 

 その後は、何の事件も起きなかった。

 

 怪異も出ない。

 暗殺者も来ない。

 怪盗の新しい予告状も届かない。

 

 直哉は、普通に玲蘭の買い物に付き合い、荷物を持ち、並んで歩き、他愛のない雑談をした。

 

 玲蘭が、最近のナオの忙しさを心配するような言葉をかけた。

 

 直哉は、エレノアの言葉を通して、最近の自分の仕事についての素直な感想を話した。

 

「以前の職場そのものが、少々私には肌が合わなかっただけなのかもしれません」

「今の仕事は、自分で選ぶことができますし、報酬も明確です。嫌なら断ることもできますから、普通に楽しいですよ」

 

 玲蘭は、少し安心したように笑った。

 

「ナオさんは、お仕事そのものがお嫌いだったわけではないのですね」

 

 直哉の内心は、(本当に、そうなんだよな)と、玲蘭との会話を通して、自分自身の現在地を再確認することができた。

 

 ブラック企業時代は、もう働きたくないと本気で思っていた。

 でも今は、自分で仕事を選び、能力を活かして生きることが、普通に楽しいのだ。

 

 ◆

 

 夕方。

 

 直哉は、玲蘭を安全な場所まで送り届けた。

 

 一日が終わる。

 

 何も起きなかった。

 

 それが、何よりも重要だった。

 

 玲蘭が、少し名残惜しそうに振り返った。

 

「今日は、一日お付き合いいただき、ありがとうございました」

 

 エレノアは、優雅に一礼した。

 

「いえ。私も、とても穏やかな時間を過ごさせていただきました」

 

 内心では、(こういう平和な仕事なら、毎回でもいいんだけどな)と本心から思っていた。

 

 玲蘭が、少しだけ上目遣いで尋ねた。

 

「また、お願いしてもよろしいですか?」

 

 直哉は即答した。

 

「もちろんでございます、お嬢様」

 

 玲蘭が、嬉しそうな笑顔を見せた。

 

 別れ際。

 

 玲蘭が、少しだけ真面目な顔になって言った。

 

「それと……ノアさんの件、本当にありがとうございました」

 

 直哉は首を振った。

 

「私が彼に手を引かせたわけではございませんよ」

 

「それでも、わざわざ最初に教えてくださったので」

 

 そして、玲蘭はホッとしたように言った。

 

「今夜は、少し安心して眠れそうです」

 

 直哉は、一瞬言葉に詰まった。

 

(……やっぱり、ずっと怖かったんだな)

 

 その一言で、月曜日から玲蘭がどれほど気を張っていたのか、直哉にも改めて伝わってきた。

 

 エレノアは、最高に優しい声で言った。

 

「どうぞ、今夜はゆっくりとお休みくださいませ」

 

 玲蘭は、小さく頷いた。

 

「はい」

 

 玲蘭と別れた後。

 

 直哉は、人気のない場所まで移動してから、エレノアの変身を解除した。

 

 青白い光が弾け、三十四歳の男の姿へと戻る。

 

 直哉は、夕暮れの空を見上げながら、今日一日を思い返した。

 

 今日は、怪異も出なかった。

 能力犯罪者も現れなかった。

 誰とも戦わなかった。時間も止めなかった。銃も剣も使わなかった。

 

 ただ、玲蘭と買い物をして、お茶を飲んで、話をしただけの一日だった。

 

 直哉は、小さく息を吐いた。

 

(……こういう平和な日も、ちゃんとあるんだな)

 

 少し前までは、何も起きない退屈な一日が当たり前だった。

 能力者になって、命懸けの非日常を経験したからこそ、今日のような何気ない日常が、妙にありがたく感じられた。

 

 ふと、玲蘭からの忠告を思い出す。

 

『全部を一人で抱え込む必要はありません。でも、全部を誰か一人に預ける必要もありません』

 

 直哉は、空を見上げた。

 

(情報、か……)

 

 怪盗ノクターンが、自分の秘密をどこまで知っているのか。

 八咫烏との距離感はどう保つべきか。

 自分の持つ能力の真相は、誰に、どこまで話すべきなのか。

 

 そこは、まだ分からない。

 

 でも、今日すぐに答えを出す必要もない。

 

 直哉は、軽く伸びをして、家路へ向かって歩き出した。

 

「……まあ、とりあえず今日は、早く帰ってゲームでもするか」

 

 事件なし。

 不穏な物音もなし。

 謎の視線もない。

 怪盗からの新しいカードも飛んでこない。

 

 直哉は、本当にそのまま、平和な日常の続きへと帰っていった。




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