俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~ 作:パラレル・ゲーマー
水曜日の朝。
自宅でトーストとコーヒーという簡単な朝食を済ませた直哉が、食器を片付けていた時だった。
スマートフォンの着信音が鳴った。
画面を見ると、『霧島』の名前が表示されている。
直哉は、昨日の夜、自室のベッドで寝転がりながら呟いた自分の言葉を思い出していた。
「……明日も、なんか石がもらえそうな仕事、ねえかな」
直哉は、スマホの画面を見つめたまま、内心で一人ツッコミを入れた。
(……本当に、翌日に即仕事の電話が来ちゃったよ)
(言霊って怖いな)
もちろん、願っていたことなので断る理由はない。直哉はすぐに電話に出た。
「はい、森川です」
『おはようございます。朝早くから、しかも急な連絡で申し訳ありません。森川さん、今日、一つ対応をお願いしたい案件がありまして』
直哉の内心は、(来た!)と少しだけテンションが上がっていた。
だが、そこは三十四歳の元社会人だ。仕事の電話でそんな浮かれた声は出さない。極めて冷静な、落ち着いた声で返した。
「大丈夫ですよ。どんな仕事ですか?」
霧島は、手元の資料をめくるような音をさせながら、端的に説明を始めた。
『本日、警視庁の能力犯罪対策班が、ある能力犯罪者グループのアジトへ強制捜査のために突入する予定です』
『我々八咫烏は、その作戦における「能力者に関する情報の提供」「怪異や特殊な呪物への対応」、そして「必要に応じた高位能力者の現場支援」を担当しています』
直哉は頷いた。
実際にアジトへ突入し、容疑者を制圧・逮捕する法的な主体はあくまで警察側だ。八咫烏はその後方支援と、超常的なトラブルが起きた際の処理を担う。
『相手は、ここしばらく関東圏で発生していた、複数の「無許可降臨事件」への関与が疑われている術者のグループです。数十人規模の大組織ではありませんが、怪異の召喚や違法な呪物の密売など、危険な事案に関わっている可能性が極めて高い連中です』
直哉は、先週八咫烏の施設で霧島から聞いた話を思い出していた。
『日本全国で平均して週に一件、無断怪異降臨儀式が行われている』という、あの世紀末のような話だ。
そういった案件に関与している連中の拠点が、ついに割れた。だから今日、一気に警察が押さえるのだ。
だが。
『ただし、少しだけ厄介な情報があります』
霧島の声が、一段階低くなった。
『拠点内部の最奥に、降臨儀式用と思われる設備が存在している可能性があります』
直哉は、嫌な予感がして問い返した。
「……つまり?」
『相手が完全に追い詰められたと判断した場合、自暴自棄になって、何か危険な怪異や存在をその場に無理やり呼び出す可能性を、完全には否定できません』
だからこそ、警察の突入部隊だけでは対応しきれない最悪の事態を想定しておく必要がある。
『そこで。本日は、森川さんに「白峰レイジ」の姿で、現場の後詰めの待機要員として参加していただきたいのです』
直哉は確認した。
「……レイジ、ですか?」
『はい』
白峰レイジ。
★★★★★のキャラクター。
Tier2帯でも非常に高い因果規模を持つ。
固有能力《既判適応》。
一度自分に成立した有害な事象を《判例》として記録し、それ以降、その事象には完全に自動で対応し無効化する。
直哉は、レイジのその特殊すぎる能力の仕様を思い出していた。
霧島が、少し申し訳なさそうに説明を加えた。
『白峰さんの能力は、防御面においては極めて強力ですが。未知の相手に対して、一番最初に先陣を切って突入させるよりも……前衛が戦って、ある程度の能力や攻撃の情報が割れた後の方が、遥かに安全に運用しやすいと考えています』
直哉は、深く頷いた。
(そりゃそうだ)
レイジの《既判適応》は、めちゃくちゃ強い。
でも、『一番最初の一発目』は普通にダメージを食らうのだ。
もし、相手の最初の一撃が即死クラスの超火力だった場合、適応する間もなく終わってしまう。
だから、安全な初撃の耐え方が分からない状態での先鋒には向かない。
直哉は、自分の役割を理解した。
「つまり、普通の突入班がそのまま制圧して処理できるなら、俺の出番はなし」
『はい』
「もし、警察の手におえないようなヤバい何かが奥から出てきたら。俺がレイジの姿で投入される」
『大雑把に言えば、その認識で結構です』
直哉の内心は、(完全に、ボス戦用の控えメンバーじゃんか)とツッコミを入れていた。
直哉は答えた。
「分かりました。受けます」
もちろん、未知の化け物が出てくる危険性は十分にある。
だが、八咫烏側も、いきなり何の準備もなくレイジを敵の攻撃へ放り込むわけではない。「後詰め」という慎重な運用なら、直哉も納得して仕事を受けられた。
そして何より。
(昨日、三時間椅子に座って百万円もらった仕事よりは……確実に、ガチャ石が出そうな仕事だな……!)
直哉は一瞬そう思ってから、激しく自分自身に突っ込んだ。
(いや、ガチャ石が出るかどうかを基準にして、自分の命が懸かってる危険な仕事を評価すんなよ俺! 完全に思考がガチャに侵されてるぞ!)
昼前。
直哉は、指定された首都圏郊外の工業地帯へと向かった。
対象のアジトは、廃業した古い物流会社の施設をそのまま居抜きで改装したものだった。
巨大な倉庫と、それに併設された三階建て程度の錆びれた事務棟。
周囲は工場や資材置き場ばかりで、一般の住宅地からはかなり離れている。だからこそ、こうした大規模な強制捜査にも向いている場所だった。
現場の周辺道路は、すでに完全に封鎖されていた。
多数の警察車両、万が一のための救急車、さらには消防車両までが待機している。
八咫烏の支援車両も何台も並び、一般人が近づかないように何重にも規制線が張られていた。
直哉は、その物々しい光景を見て息を呑んだ。
(うわ……ガチじゃん)
これまで経験したオークションの警備や、夜の女子校での護衛とは、空気の質が全く違う。
これは、明確な、国家権力による『強制捜査』の現場だ。
直哉は、指定された八咫烏のバン型の支援車両の内部へと入り、他の職員に見られないようにパーテーションの奥へ入った。
視界の《因果集結クロニクル》を開く。
『★★★★★ 白峰レイジ Lv.20』
『HP:4,930 / 4,930』
『【CHARACTER CHANGE】』
三十四歳の男の身体が、青白い光に包まれる。
光が収まる。
188センチの長身。
黒と紺、白を基調とした、豪奢でありながら機能的な執行官の法服。
腰には、青白い光を放つ片手剣。
切れ長の目をした、冷徹で落ち着いた表情。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気をピリッとさせるような、妙な威圧感がある。
口から出る声も、三十四歳の男の少し間の抜けた声や、セナの凛とした少女の声とは全く違う。
深く、低く、厳格な男の声だ。
「準備完了しました」
直哉の内心は、(相変わらず、見た目だけなら絶対に俺じゃないんだよな……)と、自分の外見と内面のギャップに少しだけ引いていた。
レイジの姿で、現場に設けられた臨時の指揮所テントへと向かう。
テントの中には、警察側の実働班の責任者、八咫烏側の現場担当者、通信のオペレーター、そして救護班のスタッフが詰めていた。霧島本人は本部にいるらしく、今回の直哉の窓口は八咫烏の現場担当の男性職員だ。
担当者が、レイジの姿を見て少しだけ緊張したように一礼した。
「白峰さん。本日はよろしくお願いします」
「ええ」
「改めて確認ですが。白峰さんには、この指揮所の外、第二線の安全な位置で待機していただきます」
「通常の制圧と確保は、警察の実働班が全て行います。あなたに出動をお願いするのは、怪異の発生、降臨体の出現、あるいは高位能力者など、『想定を超える対象』が確認された場合のみです」
レイジは、小さく頷いた。
「承知しました」
そして、直哉は完全に『暇』になった。
現場のかなり後方。
規制線の内側だが、突入する倉庫の建物からは十分な距離がある安全な場所。
レイジは、法剣を腰に差したまま、ただ腕を組んでジッと立って待っていた。
直哉の内心が、ボヤき始めた。
(……え。また待機仕事?)
(オークションの時も基本は警備で待ってたし、昨日のオペレーターは三時間座りっぱなしだったし。今回もアジトの強襲作戦なのに、俺は外で突っ立ってるだけ?)
(俺、こんなバリバリの戦闘キャラに変身してるのに、まだ一回もまともに戦ってないぞ……)
だが、現場の空気は直哉の内心のような呑気なものではなかった。
指揮所の周辺は、極度の緊張感に包まれている。
トランシーバーから、絶え間なく通信が飛び交う。
『各班、配置完了』
『突入口、ロック解除準備よし』
『対象人数、熱源反応で約十二名と推定』
『救急班、待機完了』
警察の責任者が、インカムに向かって厳しく念押しをした。
「もし内部で『降臨』の兆候を示す異常な因果反応が確認された場合は、絶対に無理をするな。即時撤退だ。いいな」
予定時刻。
現場指揮官が、短く鋭い声で命じた。
「突入開始!」
複数方向の出入り口から、対能力者用の特殊装備で固めた警察の能力犯罪対応班が一斉にアジトの倉庫内へと突入していった。
レイジは外にいる。
当然、直接中の様子を見ることはできない。
直哉は、指揮所の外に設置されたモニターから漏れ聞こえてくる無線通信と、突入班のボディカメラの映像だけを頼りに、内部の状況を把握するしかなかった。
最初のうちは、作戦は極めて順調に進んでいた。
無線から報告が入る。
『一階入口、クリア。確保』
『対象二名、抵抗なし。確保』
『右区画の事務所、クリア』
『二階で抵抗一名! 能力使用確認――制圧完了。確保』
直哉はモニターをチラリと見た。
映像の中で、一人の術者が手から何か火球のようなものを飛ばそうとしていたが、警察側の能力者があっさりと防護の結界で防ぎ、あっという間に取り押さえていた。
別の容疑者が、床に小さな陣を書いて怪異を一体呼び出そうとしていたが、それも儀式が完成する前にスタンガンで無力化されていた。
直哉の内心は、ホッとしていた。
(なんだ、思ったより普通に終わりそうだな)
もちろん、相手は危険な犯罪者だ。
でも、しっかりと訓練され、圧倒的な数と装備で準備された国家権力の強制捜査部隊の方が、烏合の衆の犯罪グループよりも遥かに強くて当然なのだ。
通信が続く。
『二階、三名確保』
『倉庫区画、四名』
『負傷者なし』
『一部抵抗ありましたが、全て制圧済みです』
直哉は、完全に気を抜いていた。
(……これ、俺いらないパターンでは?)
八咫烏の担当者が、レイジの横に来て少しだけ安堵したように言った。
「順調ですね。白峰さんの出番がないのが、我々としては一番ありがたい結果です」
レイジは、静かに答えた。
「……そうですね」
直哉の内心は、(前にも警備の時、似たようなこと言われたな……)と思い出していた。
そう。平和に終わるのが、仕事としては一番良いのだ。
だが。
強襲開始から十数分が経過し、作戦が終盤に差し掛かった頃。
状況が、少しだけ変わった。
無線からの報告の声が、少しだけ緊張を含んだものになった。
『最奥の地下区画。分厚い扉で封鎖されています』
『内部に複数名の熱源反応あり』
『扉の隙間から……何か、儀式用の設備らしきものを確認しました』
指揮所のテントの空気が、一瞬で凍りついた。
モニターに、突入班のボディカメラの映像が映し出される。
分厚い鉄製の扉。
その向こう側の床に、巨大な術式の一部が描かれているのがカメラ越しに見えた。
蛇の鱗のような、奇妙で悍ましい模様。
古びた祭具。
複数の、儀式に使用するものと思われる呪物。
八咫烏側の担当者が、顔色を変えて呟いた。
「……降臨のための設備ですね」
直哉の内心が、激しく警鐘を鳴らした。
(嫌な単語が出てきたぞ……)
警察側の現場指揮官が、怒号のような指示を飛ばす。
『絶対に儀式を起動させるな! 強行突破しろ! 対象を優先して確保!』
『了解!』
扉が、爆薬によって破壊される。
突入班が、一斉に最奥の区画へと雪崩れ込んだ。
ボディカメラの映像が激しく揺れる。
地下の広い空間。
そこには、数人の術者たちが追い詰められていた。
その中の中央に立つ一人の男。
彼は、突入してきた警察部隊を見ても、両手を上げて降伏するつもりは全くないようだった。
男の足元。
そこには、床一面に巨大な円が描かれていた。
蛇が自分の尾を噛むような、不気味な紋様。
大量の供物。古びた祭具。
そして、その円の中央に置かれた、蛇の形をした禍々しい依代。
警察の隊員が銃を構えて叫ぶ。
『動くな! 両手を上げろ!』
しかし、男は狂気じみた笑みを浮かべた。
「……もう、遅い」
男は、足元の祭具に手を触れた。
「なら、お前らも全部一緒に持っていけ」
男が、己の能力を全開にして発動させる。
床に描かれた巨大な文様が、ドクンと脈打つように、不気味な黒緑色に光り輝いた。
即座に、現場の観測センサーに異常事態が告げられた。
『儀式区画を中心に、因果律改変反応が急上昇!』
『降臨反応のパターンを確認!』
現場指揮官が、絶叫した。
「全班、即時退避! 儀式区画から離れろ!!」
中の部隊も、事態の異常さを即座に悟った。
ボディカメラの映像の中で、床が激しく揺れ始める。
コンクリートの壁に亀裂が走り、天井の照明が次々と割れて降り注ぐ。
そして。
術式の中央から。
まるで泥のような、濃い黒緑色の霧と水が、滝を逆流するように溢れ出し始めた。
円の中央。
その霧の中から、巨大な『鱗』のようなものが一枚、現れた。
それだけで、人間の胴体よりも太い。
無線の向こうから、悲鳴に近い報告が飛ぶ。
『何か出てる!』
『撤退! 撤退しろ!』
『神格存在の可能性あり!』
八咫烏側の担当者の表情が、完全に青ざめた。
異変は、レイジが待機している外の空間にまで及んだ。
ズズン……。
地面が、微かに震える。
直哉は、足元を見た。
(……ん?)
直後のことだった。
『ズンッ!!!』
今度は、明確な巨大な振動だった。
倉庫の窓ガラスが一斉にビリビリと震え、周囲に駐車している警察車両の盗難防止アラームが一斉に鳴り響く。
指揮所のモニターの中で、映像が激しく揺れ、ノイズが走る。
地下の儀式区画の天井が、物理的に内側から砕け散っていくのが見えた。
何か、とてつもなく巨大なものが。
地下から上へ向かって、建物を突き破るように押し上がってきているのだ。
倉庫の正面入り口から、警察の実働班が次々と外へ逃げ出してきた。
負傷した仲間を肩に担いでいる班員もいる。
だが、部隊が完全に壊滅したわけではなかった。現場指揮官の初動の撤退判断が極めて早かったため、大半の隊員は無事に建物の外へと逃れられていた。
『最終班、退避完了!』
『全員の無事を確認!』
指揮所で点呼が行われ、まずは死亡者が出ていないことに、直哉もホッと息を吐いた。
だが。
その直後だった。
アジトの建物の、中央部分。
三階建ての倉庫全体が。
まるで、内側から巨大な風船が膨らんだかのように、異様に大きく歪んだ。
轟音。
『ドゴォォォォォォォンッ!!!』
倉庫の分厚い屋根が、内側からの圧倒的な力によって完全に吹き飛んだ。
コンクリートの外壁が砕け散り、太い鉄骨が飴細工のようにへし折れる。
無数の瓦礫が空高く舞い上がり、もうもうとした土煙が周囲一帯を包み込んだ。
そして。
その土煙と瓦礫の中から。
まず、現れたのは。
乗用車ほどもある、巨大な『蛇の頭部』だった。
長く鋭い牙。
そして、冷酷に見下ろす、黄金にも琥珀色にも見える巨大な瞳。
さらに、建物の残骸を容赦無く押し潰しながら。
二十メートルを超えるであろう、巨大な蛇の胴体が姿を現した。
その太さは、大人の人間が両手を広げても到底届かないほどだ。
一枚一枚の鱗が、不気味に湿ったような光を放っている。
ただの巨大な蛇の化け物ではない。
その身体の周囲には、濃い水気と、薄暗い霧。微かに走る青白い雷光と、周囲の空気を歪ませるような異様な熱気。
複数の異質な超常現象が、同時にその巨体にまとわりついていた。
直哉の内心は、完全に限界を超えていた。
(……いやいやいやいや)
直哉の、第一の素直な感想。
(……蛇じゃん)
一拍置いて。
(いや、デカすぎるだろ!!!)
さらに。
(つーか、これ……)
横にいる現場担当者が、震える声で叫んだ。
「神格存在と思われる降臨体を確認!」
今回、あの術者たちが無理やり降臨させたものは。
蛇を神体として祀る、何らかの『神格存在』に属するものらしい。
具体的な正式名称や、どこの神話体系の神なのかは、この場ではまだ分からない。
現地では単に、《蛇神(へびがみ)》という暫定呼称で呼ばれることになった。
それは、怪異がただ神を名乗っているだけの偽物とは様子が違う。
八咫烏の専門職員たちが、儀式の形式、観測された反応、そして目の前に顕現した存在を照合しながら、神格存在の降臨体と見て間違いないと判断している。
ただし、その神の本体そのものが丸ごとこの世界へやって来たのか。
分霊のようなものなのか。
あるいは、一時的な降臨体としてどこまでの力を現世へ持ち込んでいるのか。
そこまでは、この瞬間には分からない。
だが、直哉にとっては。
(神様って、本当に実在するんだな……)
能力者。怪異。異界。吸血鬼の前例。時間停止。
この一ヶ月で色々なものを見てきた。
でも、目の前に明確に『神』と分類される存在が物理的に顕現したのは、これが初めてだった。
蛇神が、ゆっくりとその巨大な頭を持ち上げた。
黄金の瞳が、周囲の景色を睥睨する。
砕け散った建物の残骸。逃げ惑う人間たち。パトカー。赤いコーンの規制線。
蛇神が、大きく口を開いた。
『ゴォォォォォォォォォォ……!!!』
それは、単なる鳴き声というより、空気そのものを物理的に震わせるような、低く重い咆哮だった。
ビリビリと、周囲の建物の窓ガラスが震える。
警察の隊員たちが、本能的な恐怖に顔を歪め、思わず後退りをする。
音量だけではない。
その場にいる全ての生物の魂に、「格が違う」と本能で理解させるような、絶対的な『神の威圧感』だ。
精神支配の能力とまではいかないが、それだけで人間の戦意を喪失させるには十分な圧力だった。
現場指揮官が、必死に声を張り上げる。
「第二規制線まで後退しろ!」
「周辺の避難範囲をさらに拡大! 一般人を絶対に近づけるな!」
警察、消防、八咫烏の職員たちが、一斉に陣形を後退させ、動き始めた。
その時。
八咫烏の現場担当者が、隣に立つレイジを見た。
さっきまで「あなたの出番がないのが一番です」と安堵していた男が。
今度は、明確に、すがるような目をして言った。
「白峰さん」
「後詰めを、お願いします」
白峰レイジの表情は、一ミリも変わらなかった。
彼は、静かに、短く答えた。
「承知しました」
だが、直哉の内心は絶叫していた。
(出番、本当に来ちゃったよ!! どうすんだよこれ!!)
レイジが、ゆっくりと蛇神のいる前方へと歩みを進める。
担当者が、移動するレイジの背中へ向かって、通信で状況を説明する。
「対象は、神格存在の降臨体と推定されます」
「現在、確認できた明確な攻撃能力はまだありません。戦闘データは完全にゼロです」
直哉は、一瞬だけ足を止めそうになった。
(いや、待てよ)
(レイジの能力は《既判適応》だ。でも、最初の一発目だけは普通に食らうんだぞ?)
相性が良いとはいえ、相手は未知の神格存在だ。最初の攻撃が即死クラスだったら、適応する間もなく終わる。
担当者も、それを重々理解していた。
「無理に交戦を継続する必要はありません」
「相手の初撃が危険すぎると判断した場合は、すぐに即時離脱してください」
「我々周辺部隊が完全に撤退するための、最初の数分間の時間を作っていただくだけでも構いません」
レイジは、前を向いたまま答えた。
「了解しました」
ちゃんと撤退の選択肢は用意されている。
だが。
直哉は、前方の景色を見た。
目の前には、二十メートル級の巨大な蛇神。
そして背後には、まだ怪我人を抱えて完全に撤収しきれていない、現場の警察や救急の部隊がいる。
もし、このまま自分が逃げて、あの蛇神が暴れて道路側へと出てくれば、大惨事になるのは目に見えている。
直哉は、腹を括った。
(……やるしかないか)
レイジが、腰の片手剣の柄に手をかけた。
チャキッ、と冷たい音を立てて、青白い光を帯びた法剣を静かに抜刀する。
《蒼律剣式》の、隙のない構え。
外見は、冷静で厳格な執行官。
一歩ずつ、静かに蛇神へと前進していく。
だが、直哉の内心は。
(神様相手に、剣一本で立ち向かうって何なんだよ!!)
と、半ばヤケクソになりながら笑っていた。
しかし、彼の足は決して後ろへは下がらなかった。
巨大な蛇神が、その黄金の瞳を動かし、ゆっくりとレイジの方を見た。
他の逃げ惑う人間たちとは明らかに違う、彼だけが放つ異質な存在感を感じ取ったのか。
あるいは、単に自分に向かって一番近づいてきた愚かな羽虫だと思ったのか。理由は分からない。
だが、蛇神の標的が、完全にレイジ一人へと絞られた。
距離。
五十メートル。四十。三十。
直哉は、剣を構えたまま思考を研ぎ澄ました。
(まず、何が来る)
ここが、《既判適応》という能力の最大の恐怖だ。
知らない攻撃。未知の事象。
その最初の一撃だけは、防ぐことができない。
蛇神が、大きくその顎を開いた。
鋭い牙。
その口の奥底で。
ドロドロとした、黒緑色の気味の悪い霧が、渦を巻くように圧縮されていくのが見えた。
直哉は息を呑んだ。
(毒……!?)
インカムから、担当者の切羽詰まった警告が飛ぶ。
『白峰さん、何か来ます!』
レイジは、低く答えた。
「確認しています」
ここで、回避して横へ逃げる選択肢もあった。
だが、この距離で、あれほど広範囲に広がりそうな霧の攻撃を避け、後方へと流してしまえば。背後でまだ撤退中の中隊や車両まで巻き込む可能性がある。
レイジは、逃げずに、さらに一歩前へ踏み込んだ。
蛇神が、その口から圧縮された毒霧を、一気に吐き出した。
『ゴバァァァァァァッ!!』
大量の、黒緑色の霧。
それは一瞬にして道路全体を覆い尽くし、周囲の車両や建物の残骸を完全に霞ませた。
アスファルトが、毒の成分でジューッと嫌な音を立てて溶けていく。
レイジは、それを避けなかった。
というより、彼の能力において《判例》を取得するためには、一度はその事象をその身で受けて、成立させなければならないのだ。
黒緑の毒霧が、レイジの全身を完全に包み込んだ。
直哉の身体に、強烈な反応が走った。
皮膚を焼かれるような激痛。
吸い込んだ喉と肺を内側から焼かれるような苦痛。
視界が激しく揺らぎ、吐き気がこみ上げる。
そして。
『HP:4,930 → 4,180』
視界の端のHPゲージが、一気に削れた。
直哉の内心が悲鳴を上げた。
(ぐっ……!!)
(普通に効く!! 痛え!!)
ここが、レイジの最大の弱点。
初撃は、完全に受けるしかない。
《既判適応》だからといって、一発目のダメージを自動で軽減してくれるわけではないのだ。
今の一撃だけで、750ものHPを失った。
しかも。
失ったHPは、判例が成立したからといって戻ってこない。
本当に、命懸けの危険な能力だ。
だが。
その直後。
毒による有害な事象が成立した瞬間。
直哉の視界の《因クロ》に、一行のテキストが点灯した。
『《判例》登録:毒性事象』
直哉の身体の中で、何かが完全に書き換わった。
毒に焼かれたような激しい苦痛は、まだ残っている。
失った750のHPも、そのままだ。
だが。
《既判適応》が成立した。
これ以後、少なくとも今受けた毒霧と同一の事象として判定される有害な影響は、二度とレイジの身体に成立しない。
普通なら、人間が数秒で倒れていてもおかしくないほどに濃い、黒緑色の毒の霧。
その中から。
『コツッ』
と、静かな足音が一つ、響いた。
レイジが、法剣を構えたまま、その猛毒の煙の中からゆっくりと歩いて出てきたのだ。
最初の毒で受けた激痛は残っている。
HPも、4,180まで減ったままだ。
だが、彼が今この瞬間も新しく吸い込んでいる周囲の猛毒の霧は、もはや追加のダメージを一切与えていない。
モニターを見ていた現場の職員が、信じられないというように呟いた。
「……立ってる」
別の職員が、計器を見て叫ぶ。
「周辺の毒性反応、致死量を超えて継続中です! なのに……」
レイジは、何事もなかったかのように、蛇神へ向かって歩みを進めていた。
蛇神の巨大な黄金の瞳が、僅かに細められた。
そこには、ただの獣ではない、明らかな知性を感じさせる反応があった。
自分の毒を全身に浴びた人間が、まだ倒れずに近づいてくる。
直哉は、内心で残る激痛に耐えながら、恐怖と、そして同時に得も言われぬ高揚感を感じていた。
彼は今、初めて実戦の中で、《既判適応》という能力の真の意味と強さを、肌で理解したのだ。
(……なるほど)
蛇神が持っている、いくつもの攻撃手段。
その中の一枚の強力なカードを。
今、完全に潰したのだ。
直哉は、レイジの顔で静かに口の端を上げた。
(まず、一個)
蛇神が、再び動いた。
その巨大な身体を覆う鱗が。
パチッ、パチッ、と音を立てて逆立つ。
今度は。
鱗の隙間から、青白い強烈な『雷光』が迸り始めた。
直哉の内心が、激しく突っ込んだ。
(次は雷かよ!! お前、セナかよ!!)
蛇神の全身に、雷がバチバチと音を立てて収束していく。
次の瞬間には、あの巨体からどれほどの規模の雷撃が放たれるのか、想像もつかない。
だが。
レイジは、表情を一切崩さなかった。
冷静で、厳格な執行官の顔のまま。
青白い法剣を、スッと正眼に構え直す。
一歩も、後ろへは退かない。
直哉の視界には。
『HP:4,180 / 4,930』
そして。
『《判例》:毒性事象』
の記録が、確かに刻まれている。
目の前では、巨大な蛇神が咆哮を上げ、青白い雷光を今まさに解き放とうとしている。
直哉は、剣の柄を強く握り締めながら、内心で不敵に笑った。
(……で?)
(あと何種類、攻撃のカードを持ってんだ、お前)
蛇神の咆哮が、轟音と共に雷光を弾けさせた。
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