俺の異能が中華ゲーだった ~34歳無職、ガチャで引いたキャラに変身して働きます~ 作:パラレル・ゲーマー
夜摩紗羅という新たな戦力と専用武装《冥皇帳》を引き当てた翌日の午前。
青森の山あいにある御巫神社の社務所には、昨日までのガチャ騒動が嘘のように穏やかで静かな時間が流れていた。
朝の掃き掃除を終えた直哉は、居間の縁側であぐらをかき、湯気を立てる熱い緑茶をすすりながら秋の澄んだ庭の景色を眺めていた。その向かいでは、白衣と緋袴の巫女装束に身を包んだ御巫梓が、手元に広げた和紙の予定帳をめくりながら今月の神社の行事や点検スケジュールを確認している。
しばらく無言で予定帳に目を通していた梓が、ふと筆ペンを止め、思い出したように顔を上げた。
「そういやさ、ナオさん。来週なんだけど、あーしの方でちょっと大きめの仕事が入ってるのよねー」
「おお、そうなんですか? また山の中の祠みたいな、封印のメンテナンスのお仕事です?」
直哉が湯呑みを置いて尋ねると、梓は「そそ」と頷いてから、少しだけ苦笑交じりに人差し指を立てた。
「ただね、こないだあんたに紫苑ちゃんの姿でついてきてもらった山の祠なんかより、ずーっと大物よ。うちの御巫家の『初代サマ』が昔に封じ込めたっていう、古い山の神様の封印のやつね」
「山の神様、ですか! いや、名前からしてめちゃくちゃ凄そうですね!」
「凄そうっていうか、実際とんでもないスケールの荒神様だったらしいわよ。うちに残ってる古い記録だと、その神様が暴れた時は、そこら辺の『山を三つ並べたくらい巨大な姿』で現れて、あたりの地形が変わるくらいめちゃくちゃに暴れ回ったんだって」
さらりと口にされた表現に、直哉は思わず目を丸くして聞き返した。
「……山を、三つ並べたくらい!?」
「そ。ちょっとしたビルくらいの大きさの怪異ならあーしも何度か見たことあるけど、山三つ分なんて言ったら、もう普通の怪異や術者の常識とは桁が違いすぎるのよね」
直哉は、頭の中でそのサイズ感を想像しようとして、すぐに諦めた。
以前、アルビオン公国で城の設備と融合して五十メートル級の怪物と化したクロイツや、京都の古い寺の本堂を見下ろすほど巨大だった《九番目の御霊》と戦った時も「デカい!」と度肝を抜かれたものだが、『山を三つ並べた大きさ』などと言われてしまえば、もはや怪獣映画の枠すら超えて地殻変動か天災の領域である。
「そんな途方もないバケモノみたいな神様を、昔の人は一体どうやって封印したんです?」
「うちの初代サマが、文字通り命懸けで封じ込めたらしいのよ。並大抵の結界や封印術なんて鼻息一つで吹き飛ばされて全然通じなくてさ、最後は初代サマが自分自身のすべてを懸ける特別な大術を組んで、どうにかこうにか今の場所に縛り付けて封印を成立させたんだって」
「……えっ、自分自身を懸けてって……!」
「ま、詳しい術式の構造や記録はうちの奥の蔵にちゃんと残ってるんだけどね。とにかく、あーしら御巫家の歴史の中でも、一番特別で一番重たい最上位の封印なのよ」
梓は、先祖の偉業を語りながらも、決して悲壮な顔はしていなかった。
「で、その初代サマが作った大封印を今の時代まで維持するための定期的な『更新作業』の日が、ちょうど一週間後に迫ってるってわけ」
「おお、そんな何百年も前から続く大仕事が、もう来週なんですか!」
「そそ。数年に一度の大掛かりな術式の締め直しになるから、今回はあんたにも護衛として横についてきてもらおうかと思ってたんだけど、どう? 予定空いてる?」
「もちろん行きますよ! 俺はそもそも、梓さんの護衛としてこの神社に居候させてもらってるんですからね!」
直哉が力強く請け負うと、梓は「ありがと、心強いわ」と嬉しそうに笑ってから、ひらりと手を振った。
「まあ、大物とは言っても、封印の更新作業自体は先代の頃から毎回決まった手順でちゃんとやってる定例行事みたいなものだから、そんなにガチガチに身構えなくてもいいわよ。緩みかけてる楔(くさび)に新しい霊力を流し込んで、外側の結界を編み直すだけだしね」
梓の口ぶりには、一切の不安も気負いもなかった。
今の時点でその山の神の封印にひびが入って揺らいでいるわけでもなければ、不気味な鳴動が起きているわけでもない。ただ、定期的に訪れる保守点検の日が来週に迫っているというだけの話なのだ。
梓は、自分の胸をポンと叩いて明るく言った。
「ま、万が一にもあの山三つ分の神様の封印が完全に解けて外に出てきちゃったら、今の現代日本でも地図が書き換わるくらい相当ヤバい大惨事になるでしょうけどねー。あははは!」
「……あの、梓さん、それ全然笑い事じゃない気がするんですけど!?」
「いやー、だって実際に解ける予定なんてこれっぽっちもないもん! あんた、あーしが誰だか忘れたの? これでも封印術に関しちゃ、今の日本で指折りの実効Tier0.5の専門家なんだから!」
「……あっ、そうでしたね!」
「あんたねえ、今さらあーしの腕前を疑ってんのー? 失礼しちゃうわね!」
「疑ってませんって! 頼りにしてますよ!」
ケラケラと屈託なく笑う梓を見ていると、本当に何事もなく一週間後の更新作業もすんなり終わってしまいそうな気がしてくる。
ただ、直哉は湯呑みにお茶を注ぎ足しながら、頭の中でほんの少しだけ冷静にパズルのピースを並べていた。
(……ん? いや、ちょっと待てよ)
(初代サマが自分自身を懸けてようやく封じ込めた、山三つ分くらいデカい規格外の神様? そして、ちょうど一週間後にその封印の更新作業がある……?)
直哉の脳裏に、東京を出発する前、八咫烏の応接室でゴスロリ姿の八百比丘尼――陽葵が語っていた言葉が蘇った。
『どうやらあの子、近い将来、どこかでとんでもない神格を封印することになるみたいなんだよね。ただ、その封印を維持するために、自分自身を封印の中に残しちゃうみたいなの』
(……あれ? ひまりちゃんが未来視で見た『梓さんが命懸けで封印することになるTier0.5級の神格』って、どう考えてもその来週更新する山の神様のことなんじゃ……!?)
一瞬だけ、直哉の背筋がピンと伸びた。
しかし、目の前の梓はまだ何も起きていない平穏な縁側で呑気にお煎餅をかじっているし、今すぐここで「来週その封印が破れますよ!」と騒ぎ立てたところで、陽葵の言葉をまったく信用していない梓が「また八百のホラ話を真に受けて!」と笑い飛ばすだけなのは目に見えている。
それに、仮に一週間後の更新作業で不測の事態が起きて山の神とやらが暴れ出したとしても、今の直哉は丸腰ではない。
概念ごと接続を断ち切る紫苑と《月白》があり、昨日には万単位の霊軍を統率して巨大武神《冥皇》を顕現させる夜摩紗羅と《冥皇帳》まで手に入ったのだ。そして何より、現場にはこの梓本人がいる。
(……まあ、今から一人で深刻になって心配しすぎても仕方ないか!)
(もし本当に来週、その山の神様の封印に何かトラブルが起きたら、梓さんが自分を犠牲にする前に、俺の持ってる全力の切り札を全部ぶつけて神様ごとぶっ飛ばせばいいだけの話だ! そもそも、そのために俺は青森まで来て一緒に暮らしてるんだしな!)
自分の中でやるべきことをしっかりと再確認すると、直哉はすぐにいつもの気楽な笑顔へと戻った。
すると、お煎餅を食べ終えた梓が、予定帳をパタンと閉じて今日一番の真剣な顔で尋ねてきた。
「――それよりさ、ナオさん。一番大事な話なんだけど、今日の晩ご飯、何にするー?」
「あ、俺、カレーが食べたいです!」
来週の神格の話など一瞬で吹き飛ぶほどの、コンマ一秒の即答だった。
「おっ、カレー! いいわねー!」
「はい! ここ数日、テレビのCMで見かけてから、ずっと家のカレーが食べたいなと思ってたんですよ!」
「分かるー! あーしもさ、今までずっと一人暮らしだったでしょ? 一人分だと、わざわざルーを一箱使って大鍋いっぱいにカレーを作ったりしないから、実はしばらく家のカレーって食べてなかったのよ!」
梓もすっかり乗り気になって、身を乗り出してきた。
「じゃあ、今夜はカレーで決まりね! せっかく二人で食べるんだし、お肉も野菜もゴロゴロ入った具だくさんのやつ作ろっか!」
「めちゃくちゃいいですね! 俺、カレーのジャガイモは溶けきらないくらい大きく切ってあるやつが好きなんですよ!」
「あ、それ分かる! ニンジンもタマネギも大きめにして、お肉もたっぷり入れましょ! あ、ナオさん、ルーの辛さはどれくらいがいい? 甘口? 辛口?」
「俺は断然、王道の中辛派ですね!」
「奇遇ね、あーしも中辛が一番好き! よし、じゃあ午後になったらまた麓のスーパーまで材料買いに付き合ってね!」
「はい、喜んで!」
つい一分前まで『山三つ分の巨大な荒神と初代当主の命懸けの封印』という、世界の破滅にも直結しかねない物騒極まりない話をしていたはずの二人は、もうすっかり今夜のカレーに入れるお肉を牛にするか豚にするかという平和な議論で盛り上がりきっていた。
◆
青森の社務所で直哉と梓が今夜のカレーの具材について熱く語り合っていた、ちょうどその頃。
遠く離れた東京都内の新居マンションでは、《並列集結》によって維持されている御影千里の身体が、新しく購入したばかりのハイスペックPCの前で八咫烏からの連絡資料を整理していた。リビングのソファでは、もう一つの身体である鳴海伊織が静かに待機している。
そこへ、デスクの上に置いてあった千里用の業務用スマートフォンが着信を知らせて震えた。画面に表示された名前は『八咫烏・霧島』だ。
千里はヘッドセットを外し、通話ボタンをタップして耳へと当てた。
「はい、御影です」
『おはようございます、御影さん。霧島です。現在、少しお時間はよろしいでしょうか』
「ええ、問題ございません。本日はまだ外部の予定も入れておりませんので」
『ありがとうございます。実は、先ほど民間の企業から八咫烏の窓口を通じて、急ぎで御影さんにお願いしたいという観測依頼の打診が入りまして』
「緊急の観測依頼、ですか」
『はい。ただ、今回の対象は……これまで御影さんにお願いしてきた地上での行方不明者捜索や施設の監視とは、少々毛色が異なる案件なのですが』
電話の向こうで、霧島が少しだけ言葉を選ぶようにしてから、その依頼内容を告げた。
なんでも、ある国内の大手民間企業が運用している『人工衛星』に原因不明のトラブルが発生しており、地上の管制室からのデータだけではどうしても状況が特定できず、運用チームが対応に苦慮しているのだという。
そこで、八咫烏に所属・協力している高位の遠隔観測能力者の存在を聞きつけた先方の幹部から、正式な契約として御影千里の《天眼》の力を借りられないかという要請が舞い込んだらしかった。
千里は、落ち着いた声で静かに復唱した。
「……人工衛星、でございますか」
その冷静な声色の裏で、直哉の内心は(……えっ!? 人工衛星!? 俺、今度は宇宙にある機械を見る仕事までするの!?)と目を丸くして驚いていた。
千里は、実務的な確認事項として最も重要な点を霧島へと尋ねた。
「差し支えなければ、その人工衛星が現在どのくらいの高度を飛んでいるのか、教えていただけますか?」
『はい。対象は赤道上空の静止軌道上に配置された通信衛星でして、地表からの高度はおよそ三万六千キロメートルとなります』
(……三万六千キロメートル!?)
途方もない数字に一瞬だけひるみかけた直哉だったが、すぐに自分の頭の中で千里のプロフィール画面の数字を思い出した。
(……あっ! 待てよ、千里ちゃんの《天眼》の最大観測射程って『四万キロメートル』だから、三万六千キロなら理論上は余裕で射程圏内に届くのか!!)
これまで千里の能力を使う時は、日本国内の建物や山の中、遠くても地球上の別の場所を見ることにしか使っていなかった。地球一周が約四万キロだから地球上のどこでも見える、という認識で止まっていたのだが、よくよく考えれば、その四万キロの射程を『真上の宇宙方向』へと向ければ、静止軌道の人工衛星までそのまま届いてしまうのだ。
霧島が、事前に確認した軌道計算のデータを補足する。
『対象の衛星は現在、日本から見通せる東経百四十度付近の赤道上空静止軌道に留まっております。ここ東京の地点から衛星までの直線距離を計算いたしますと、角度の分を含めておよそ三万七千キロメートル強となり、御影さんの申告されている最大射程四万キロメートルの範囲内に収まる計算です』
「なるほど。距離の面では、私の観測範囲内で間違いございませんね」
『はい。もちろん、宇宙空間の対象を直接観測されるのは初めてかと存じますので、もし見えにくい場合やご負担が大きい場合は途中で打ち切っていただいて構わないという条件で先方とも合意しております。いかがいたしましょうか?』
直哉に断る理由など一つもなかった。むしろ、自分の能力で宇宙に浮かぶ人工衛星がどんな風に見えるのか、ゲーマー的な好奇心がうずいて仕方がない。
「承知いたしました。私の能力でお役に立てるのであれば、ぜひお引き受けさせていただきます」
『ありがとうございます。では、ただちに迎えの車を手配し、私も同行して先方の衛星管制センターへご案内いたします』
(……よーし! 怪異討伐に人探しに続いて、今度は宇宙の人工衛星の故障調査か! なんか俺の仕事、日ごとにゲームのジャンルがガラッと変わって面白いな!)
◆
それから一時間後。
霧島とともに公用車で移動した千里が到着したのは、東京都内のオフィスビルの一角に入る『東都衛星通信株式会社』の衛星管制センターだった。
厳重なセキュリティゲートを通って案内された管制室の扉を開けると、そこには八咫烏の施設や警察庁の会議室とはまた違った、純粋な最先端科学技術の現場が広がっていた。
正面の壁面には、世界地図の上に人工衛星の軌道ラインやテレメトリ(遠隔計測)の数値データがリアルタイムで表示された巨大なスクリーンが並び、何十台ものモニターが置かれたコンソールデスクには、ヘッドセットを着けた技術者たちが張り付いてキーボードを叩いている。
今回トラブルが起きているのは、同社が先月ロケットで打ち上げ、現在は静止軌道上での初期運用試験を進めている新型の大型通信衛星《蒼天三号》だという。まだ本格的な商用通信サービスに投入される前の試験段階であるため、今回の不具合によって世間のテレビ放送や通信網がストップしているわけではないが、このまま原因が分からず復旧できなければ、数百億円規模のプロジェクトと今後の通信事業計画に甚大な遅れが生じる瀬戸際らしかった。
霧島と千里を出迎えたのは、この初期運用チームの技術主任を務める藤崎理沙(ふじさき・りさ)という三十代後半ほどの女性エンジニアだった。
白衣ではなく動きやすいシャツとスラックス姿で、知的な目元には何日も泊まり込みで対応を続けてきたであろう濃い隈(くま)が浮かんでいるが、その立ち居振る舞いは極めて冷静で実務的だった。
「東都衛星通信の藤崎です。本日は急な要請にもかかわらずお越しいただき、本当にありがとうございます。八咫烏の霧島様から、特別なお力を持った観測の専門家がいらっしゃると伺いまして……」
藤崎は丁寧に頭を下げてから、小柄な制服姿の千里を見て、少しだけ戸惑いを隠せないように言葉を継いだ。
「……ただ、大変失礼ながら、地上から三万六千キロ以上離れた宇宙空間にある衛星の姿を、望遠鏡も使わずに直接目で見ることができる方がいらっしゃるなんて、技術者としてはまだ信じられない気持ちなのですが……」
千里は、そんな藤崎の正直な反応に対しても気を悪くすることなく、静かに一礼して答えた。
「御影千里と申します。そのようなご疑問を持たれるのは当然かと存じます。まずは実際の状況をお聞かせいただき、私の目で確認できるかどうか試させていただければと思います」
(……まあ、普通に科学と物理の世界で生きてきたエンジニアの人からしたら、生身の人間が宇宙の衛星を直接覗き見るなんて言われても、最初は半信半疑になるよな)
直哉が内心で頷きながら促すと、藤崎は「ありがとうございます。では、こちらへ」と、サブモニターが置かれたブリーフィング用のテーブルへと二人を案内した。
◆
藤崎はモニターを操作し、新型通信衛星《蒼天三号》の緻密な三次元CAD図面と、現在のステータス画面を表示させた。
「まず、現在の《蒼天三号》の状況をご説明します。打ち上げ後、予定通り赤道上空の静止軌道への投入には成功しておりまして、太陽電池パドルの展開も完了し、機体の電力系や姿勢制御系、それに地上とコマンドをやり取りするための低速の管制用通信回線は正常に生きています」
「機体そのものが制御不能になっているわけではないのですね」
「はい。問題は、この衛星の心臓部である『大型主通信アンテナ』の展開機構にあります」
藤崎がペンライトで図面の側面部分を指し示した。
画面には、ロケットのフェアリング(先端部)に収まるよう機体側面にコンパクトに折り畳まれた『打ち上げ時形態』と、宇宙空間に出たあとに複数のアームが関節のように伸びて大きなパラボラ状の反射鏡を広げる『展開後形態』の二つの模式図が並んでいる。
「三日前、地上からこの主通信アンテナを展開するコマンドを送信しました。通常であれば、固定していたロックが外れ、バネと駆動モーターの力でアームが順番に伸びて、数十分で所定の位置に固定される設計です。ところが……コマンド送信後、展開完了を示す一部のセンサーの数値が正常値に達しておらず、主アンテナを使った試験電波の送受信もまったく確立できない状態に陥っているのです」
千里は、図面の構造をじっと見つめながら尋ねた。
「衛星の機体自体に、外側の様子を確認するためのカメラは搭載されていないのでしょうか?」
「太陽電池パドルの展開などを確認するためのモニターカメラは二基搭載されているのですが、あいにく今回問題が起きている主アンテナの可動部と付け根の機構は、構造上どうしてもそのカメラの『死角』になっておりまして、画像では端の方がわずかに写るだけで肝心の部分がまったく見えないのです」
藤崎は悔しそうに唇を噛んだ。
「現在、我々技術チームの間では、大きく分けて三つの原因の可能性が議論されています。一つ目は、そもそも電気的なトラブルで展開駆動部そのものが最初から動いていない可能性。二つ目は、展開の途中で可動部のどこかが機械的に引っかかって止まっている可能性。そして三つ目は、アンテナ自体は正常に開いているのに、完了を検知するセンサーと通信機器側が故障して嘘の異常を出している可能性です」
隣で聞いていた霧島が、静かに相槌を打つ。
「どの原因であるかによって、地上から送るべき復旧の処置がまったく変わってくるわけですね」
「その通りです。何しろ三万六千キロ先の宇宙空間ですから、人間がレンチを持って近づいて点検することは絶対にできません。もし可動部が物理的に引っかかっているのに、センサーの故障だと決めつけて無理な通信テストや別の駆動コマンドを送れば、最悪の場合、アームが破損してこの衛星は永久にただの宇宙ゴミになってしまいます」
(……なるほどなあ。地上の倉庫の機械なら見に行けば一発で分かることでも、宇宙にある人工衛星だと『今どうなってるか外から見えない』ってだけで、技術者の人たちは手も足も出せなくなっちゃうのか)
直哉は、自分の持つ《天眼》という能力が、なぜこうした最先端の科学現場で切実に求められたのかを深く理解した。
「事情はよく分かりました。では、まずは現在の《蒼天三号》の外観が実際にどのようになっているのか、直接確認させていただきます」
千里が静かに告げると、管制室にいた他の技術者たちも作業の手を止め、固唾を呑んでこちらへと視線を集めた。
◆
藤崎から、現在の《蒼天三号》が位置している正確な軌道座標――東経百四十度、赤道上空高度三万五千七百八十六キロメートル、ここ東京からの直線距離にしておよそ三万七千二百キロメートル――および地上から見た方位角と仰角のデータが提示された。
今回は広大な山の中から行方不明者を探し出す時とは違い、対象が宇宙空間のどの座標に静止しているかが数学的にピタリと分かっているため、《広域索引》で検索をかける必要すらない。指定された方角と距離へ向けて、《天眼》の視点をまっすぐ飛ばすだけでいい。
千里は椅子に深く腰掛け、背筋を伸ばしたまま静かにまぶたを閉じた。
『《天眼》』
能力を発動させた瞬間、直哉の意識の中にある観測の視点が、東京のビルの一室から弾丸のように上空へと駆け上がっていく。
分厚いコンクリートの天井を透過し、秋の雲海を突き抜け、成層圏を越えて、大気の層が薄れゆく漆黒の宇宙空間へ。
高度一千キロ、一万キロ、二万キロ、三万キロ――。
これまで地上の景色を見るためにしか使ったことのなかった《天眼》の射程限界に近い領域へと視点が到達した時、直哉の視界いっぱいに、息を呑むほど壮大で美しい光景が広がった。
音が一切存在しない、絶対的な静寂と暗黒の宇宙空間。
その下方に浮かんでいるのは、白い雲の渦をまとい、眩いばかりに青く輝く巨大な『地球』の姿だった。日本列島の弓なりの輪郭や、広大な太平洋の海原が、まるで本物の宇宙飛行士が窓から見下ろしているかのように鮮明に広がっている。
そして、その青い地球を背景にした指定座標の空間に――太陽の強烈な光を浴びて金色の断熱材と銀色のボディを煌めかせる一機の人工衛星が、静かに浮かんでいた。
(……うおおおおおおお!! ま、マジで宇宙まで見えたああああ!!)
(すげえええ!! 地球が丸い! 青い! そして目の前に本物の人工衛星が浮いてるぞ! なにこれ、どんなVRゲームよりも迫力が凄すぎるだろ!!)
直哉は、生まれて初めて自分の能力で目の当たりにした本物の宇宙空間の光景に、少年のように大興奮してしばらく見惚れてしまった。もちろん、肉体は東京の管制室の椅子に座ったままであり、視覚の座標だけを三万七千キロ先へ飛ばしているため、無重力で酔うこともなければ酸素がなくて苦しくなることもない。
数秒後、ハッと仕事中であることを思い出した直哉は、衛星の全体像をぐるりと確認してから、千里のまぶたを静かに開いた。
「……対象を、確認いたしました」
その落ち着いた一言に、周囲を取り囲んでいた藤崎たち技術者が「……えっ?」と一斉に身を乗り出した。
「も、もう見つかったのですか!? まだ目を閉じられてから十秒ほどしか経っておりませんが……!」
「はい。指定された座標に、左右へ長い太陽電池パドルを展開した人工衛星が確認できます。本体中央に巻かれた金色の多層断熱材の形状や、側面のマーキングの配置も、先ほど拝見した《蒼天三号》の図面と完全に一致しております」
千里が事もなげに細部の特徴を口にすると、管制室の中に「おお……!」「本当に地上から静止軌道の衛星が直接見えているのか……!」と驚きとどよめきの声が広がった。
(……いやー、これだけ驚いてもらえると、やっぱり千里ちゃんの能力って鼻が高いよな!)
直哉が内心で少し得意げになりつつも、ここからが本番だ。
千里の《天眼》は、見えている映像をそのままモニターへHDMIケーブルで出力できるような機械ではないため、先日の警察庁での捜索と同じく、千里が見たままの形状や状態を言葉で正確に伝え、技術者たちが手元の詳細な設計図面と照らし合わせていく必要がある。
藤崎はすぐに技術者としての顔を取り戻し、大型モニターに主通信アンテナ周辺の拡大構造図を表示させた。
「御影さん! では早速ですが、機体側面にある大型の主通信アンテナの状態を確認していただけますか!?」
「承知いたしました。視点を移動させます」
◆
千里は再び《天眼》の視界に集中し、宇宙空間に浮かぶ《蒼天三号》の側面へとぐっと視点を寄せていった。
数万キロの距離があろうと、千里の観測には距離による画質の劣化やボケは一切生じない。まるで自分の目の前数十センチの距離に衛星の模型が置かれているかのように、金属パーツの継ぎ目やボルトの一本一本までがくっきりと見えた。
そして、機体側面に設置された大型アンテナの構造を見た直哉は、すぐに(……ん? なんかこれ、さっき見た展開後の完成図面と形が違わないか?)と違和感を覚えた。
千里の口から、冷静な観測報告が紡がれる。
「……主通信アンテナですが、やはり展開が正常に完了しておりません」
藤崎たちが息を呑む。
「具体的には、どのような状態でしょうか!?」
「図面では、二本の展開アームが左右対称に伸びて反射鏡を正面へ向ける構造になっていたかと存じますが、現在は向かって左側の第一アームが、途中まで開いた角度で完全に停止しております。そのため、アンテナ全体が斜めに傾いた状態で止まっています」
「……やはり、途中で機械的に止まっていたのですね! モーターや電気系統が最初から死んでいたわけではないんだ……!」
原因の候補が一つ消え、技術者たちの間に緊張と希望が入り混じった空気が走る。
しかし、千里の観測はそこでは終わらなかった。
「さらに詳しく、その停止している左側アームの付け根の機構を確認いたします」
千里は視点をアームの関節部分――打ち上げ時の激しい振動に耐えるためにアンテナを機体側へ固定していた『保持解放機構』の内部へと透過させるように近づけた。
すると、そこにある金属製の小さな筒状のパーツの中で、本来ならバネの力で完全に奥まで引っ込んでいなければならないはずの『金属製の保持ピン』が、ほんの数ミリだけ斜めに噛み込むような形で途中で引っかかり、アームの回転軸の端を邪魔しているのが見えたのだ。
直哉にはその部品の正式な専門名称までは分からないが、見たままの物理的な位置関係なら図面を使って説明できる。
千里は目を開けると、モニターの拡大設計図の一点を指先で示した。
「藤崎さん。このアームの付け根にある、円筒形の固定部品の内部なのですが……ここに入っている長さ数センチほどの金属のピンが、図面の解放位置まで完全に移動しきっておらず、先端が二ミリほど残ってアームの縁に引っかかっているように見えます」
その報告を聞いた瞬間、藤崎をはじめとする機構設計の担当者たちが、弾かれたように設計図とテレメトリのログ画面へと噛り付いた。
「……第2保持ピンの引き込み不良!? ま、待ってください、そこは打ち上げロックを解除する火工品が作動したあと、リターンスプリングで奥へ抜ける構造のはずですが……」
「あ! 主任、見てください! 三日前のロック解除コマンド送信時の微小振動センサーのログ、第2ピンの箇所だけ減衰波形がわずかに通常と違っています!」
「本当だ……! ロック自体は外れたのに、ピンが抜ける途中で熱変形か摩擦でわずかに傾いて固着し、アームの縁に噛み込んで止まっていたんだわ! これなら、展開モーターに負荷がかかって安全装置で停止したデータとも完全に辻褄が合います!」
千里が「ピンが二ミリ引っかかっている」という視覚的な事実を一つ伝えただけで、それまで暗闇の中を手探りしていた技術者たちが、ものの数分で故障の正確なメカニズムを完全に解き明かしてしまった。
(……おおお! 俺はただ『ここにあるピンがちょっと引っかかってますよ』って言っただけなのに、専門家の人たちが図面とデータを見比べると、なんで止まったのか全部一瞬で繋がるんだな!)
直哉は、科学技術の積み重ねというものの凄みに、改めて感嘆するのだった。
◆
故障の原因が『保持ピンのわずかな噛み込みによる固着』だと特定されたことで、管制室の議論はすぐさま「どうやってそれを宇宙空間で外すか」という復旧方法の検討へと移った。
藤崎は、ホワイトボードの前に集まった各部門のエンジニアたちと早口で意見を交わしたあと、千里の前へと戻ってきた。
「御影さんのおかげで、原因がはっきりしました。実は、今回引っかかっている保持機構には、こうした固着トラブルが起きた時のために、通常のバネとは別系統で強い押し出し力を発生させる『予備の解放アクチュエータ』がバックアップとして組み込まれています」
「では、それを地上から作動させれば、ピンが抜けるのでしょうか?」
「可能性は高いです。……ただ、問題はその予備装置が作動した時に発生する機械的な『衝撃』と、現在中途半端な角度で止まっているアームのバネの力が一気に解放された時の挙動なのです」
藤崎は、真剣な眼差しで図面の周辺機器を指した。
「この予備装置は、事実上やり直しのきかない一度きりの切り札です。もし現在、引っかかっているピンのすぐ近くにある通信ケーブルの束や、隣の姿勢制御センサーのブラケットにアームが歪んで接触しかけていた場合、予備装置を無理に作動させた反動でそれらを巻き込んで破損させてしまうリスクがあります。これまでは外から見えなかったため、怖くてその予備装置を使う決断ができなかったのです」
つまり、安全に復旧コマンドを撃てるかどうかは、現在のミリ単位のクリアランス(隙間)と噛み込みの角度にかかっているということだ。
そこから先は、千里の『目』と、技術者たちの『頭脳』による徹底的な共同作業となった。
構造解析の担当者が前に出て、千里へと次々に具体的な確認事項をリクエストしてくる。
「御影さん! 引っかかっているピンの先端と、アーム側の受け金具は、現在どのくらいの角度で接触していますか? こちらの図面のAとBで言うと、どちらに近いでしょう?」
「……確認します。図面で言いますと、Bの角度に近いです。ピンの先端の角が、金具の段差にわずか一ミリほど乗っかっている状態です」
「一ミリか……! なら、完全に食い込んで溶接されたようになっているわけではないぞ!」
続いて、熱制御と姿勢制御の担当者が声を上げる。
「御影さん、その機構部のすぐ横を通っている黒い被覆のケーブル束と、可動アームとの間には、現在どれくらいの隙間が空いていますか?」
「およそ三センチほどの空間がございます。接触はしておりません。ただ、反対側の銀色のセンサーボックスとの間隔は狭く、五ミリ程度しか空いていないように見えます」
「五ミリ……! このままの冷えた状態でいきなり予備装置を撃ったら、アームが跳ねた反動でセンサーボックスに干渉する恐れがあるな……!」
すると藤崎が、即座にホワイトボードへ計算式を書き殴りながら提案した。
「だったら、先に衛星の姿勢を数度だけロールさせて、あの固着しているヒンジ部分に直接『太陽光』を当てて温めましょう! 金属の熱膨張の差を利用すれば、噛み込んでいる一ミリの引っかかりがわずかに緩むうえに、アームの歪みもセンサー側から逃げる方向に数ミリ開くはずです! そのタイミングで予備解放装置を作動させれば、他の部品に一切触れずにピンが抜けます!」
「計算します! ……いけます主任、太陽光を二十五分間照射して機構部の温度を摂氏四十度まで上げれば、クリアランスが安全圏まで広がります!」
次々と飛び交う専門用語と、緻密極まりない物理計算。
千里の視界でそれを見守っていた直哉は、内心でほとほと感心していた。
(……いやー、本職のエンジニアの人たちって本当に凄いなあ!)
(俺の能力はただ『今の見た目がこうなってますよ』ってそのまま伝えてるだけで、どうすれば直るかなんて俺一人じゃ絶対に分からないのに、みんながその情報をパズルみたいに組み立てて、『太陽の光で金属を温めて隙間を作ってから予備装置を動かそう』なんて解決策をどんどん導き出してくる!)
紫苑や紗羅の力で巨大な敵を一人で薙ぎ払う時の爽快感とはまったく違う、自分の能力が現代科学のプロフェッショナルたちの知識と結びついて不可能を可能にしていくワクワク感が、そこには確かにあった。
◆
方針が決定すると、管制室はただちに復旧オペレーションへと移行した。
まずは姿勢制御用のスラスターをごくわずかに噴射し、《蒼天三号》の機体の向きを数度だけ傾けて、日陰になっていた主アンテナの付け根へと太陽光を直接照射する。
二十五分間の待機時間のあいだも、千里は数分おきに《天眼》でヒンジ部分を観測し、「太陽光が当たっています」「先ほどより、センサーボックスとの隙間がわずかに広がって七ミリほどになりました」とリアルタイムで微細な変化を報告し続けた。
そして、温度センサーの数値と千里の目視確認の双方が、計算通りのベストな状態に達した瞬間。
管制室全体の空気が、針が落ちても音が響きそうなほどピンと張り詰めた。
藤崎がマイクを握り、最終手順を読み上げる。
「機構部温度、およびクリアランス確認完了。これより、主通信アンテナ第2保持機構の予備解放装置を作動させます。運用責任者、最終承認を」
後方で全体の指揮を執っていた事業部長が、重々しく頷いた。
「……実行してください」
「了解。コマンド送信――3、2、1、マーク!」
オペレーターがエンターキーを強く叩き、地上のパラボラアンテナから遥か三万七千キロ先の宇宙空間へと向けて、復旧の電波が放たれた。
その瞬間も、千里の《天眼》は、静止軌道上に浮かぶ《蒼天三号》のヒンジ部分の一ミリ先を凝視し続けていた。
電波が到達し、機体内部の回路がそれを受信して、コンマ数秒後。
音のない宇宙空間で、予備解放装置のアクチュエータが力強く作動した。
太陽光で温められて噛み込みが緩んでいた金属製の保持ピンが、押し出し力を受けて、カクンッ、と奥の正常な収納位置へと一気に滑り込んだのがはっきりと見えた。
(……おっ! 抜けた! 動いたぞ!!)
千里が、静かな管制室に響く明瞭な声で報告する。
「……保持ピンが、完全に奥へと抜けました!」
「……っ!!」
藤崎がテーブルの縁を強く握りしめて身を乗り出す。
「アンテナは!? アームはどうなっていますか!?」
千里の視界の中で、つっかえ棒が外れた主通信アンテナの展開アームが、内蔵されたスプリングと駆動モーターの力によって、ゆっくりと、しかし滑らかに外側へと広がり始めた。
心配されていた隣の銀色のセンサーボックスとも、事前の太陽光加熱で広がった隙間の通り、数ミリの余裕を残して干渉することなく綺麗に通り抜けていく。
まず第一段のアームが伸びきり、続いて第二段のアームが展開し、折り畳まれていた大口径のパラボラ反射鏡が、青い地球の方角へと向かって花開くように美しい円形を描いて広がっていく。
(……うおおおおお!! 本当に動いてる!! 地上から三万七千キロも離れた宇宙の機械を、みんなの計算と遠隔操作で本当に直してるんだ!!)
そして、アームの関節部分のラッチ(留め具)が全てガチリと所定の位置に噛み合い、アンテナの展開動作がピタリと完了した。
千里は目を開け、藤崎へと向き直って告げた。
「……主通信アンテナが、正常な展開完了位置まで移動し、固定されました。現在、展開後の構造図と外観が完全に一致しております。周辺のケーブルおよびセンサー類への接触・損傷も一切ございません」
「……ほ、本当ですか!?」
「はい、間違いございません」
それでも、管制室の技術者たちはまだ歓声を上げるのを我慢し、食い入るようにコンソールの画面を見つめた。見た目が開いていても、実際に通信機能が働かなければ意味がないからだ。
数秒後、テレメトリ担当のオペレーターが裏返ったような声で叫んだ。
「だ、第一・第二アームともに、展開完了リミットスイッチのON信号を確認! ロック正常です!」
さらに、通信試験担当のエンジニアがヘッドセットを押さえて立ち上がった。
「主通信アンテナからの試験キャリア電波、地上局で受信!! 信号強度、設計通りの規定値ど真ん中です! 主アンテナの通信リンク、完全に確立しました!!」
一拍の静寂の後。
「「「やったああああああああああああっ!!!」」」
管制室の中が、割れんばかりの拍手と歓声、そして抱き合って喜ぶ技術者たちの熱狂で埋め尽くされた。
何日も徹夜続きで原因不明のトラブルと戦い続けてきた藤崎も、その場でへたり込みそうになりながら両手で顔を覆い、大きく、深く安堵の息を吐き出していた。
千里の《天眼》の視界の片隅では、正常に大きなアンテナを広げた《蒼天三号》が、丸く青い地球と眩しい太陽の光を背にして、誇らしげに宇宙空間に浮かんでいた。
(……うわあ、なんか、めちゃくちゃ感動するな、これ……!)
直哉は、自分がバトルで強敵を倒した時とはまた全然違う、胸の奥がじんわりと熱くなるような達成感を味わっていた。
(俺自身は人工衛星の仕組みなんて全然知らなかったけど……ここにいる人たちが何年もかけて必死に作って打ち上げた機械が、俺の目をきっかけにして、宇宙できちんと動くようになったんだな)
◆
その後もしばらく管制室では興奮冷めやらぬ様子で各部の詳細なチェックが続けられていたが、最大の問題であった主アンテナの展開不良が完全に解消されたことで、初期運用試験は無事に正常な軌道へと乗った。
ひと通りの緊急対応を終えた藤崎が、千里の前へと歩み寄り、これ以上ないほど深々と、長いこと頭を下げた。
「御影さん。本日は、本当に……本当にありがとうございました! あなたのお力がなければ、私たちは今も暗闇の中で原因が分からず、あの衛星を諦めることになっていたかもしれません」
千里は、いつもの落ち着いた穏やかな声で静かに首を横に振った。
「いいえ。私はただ、その場で見えていた機械の形を言葉でお伝えしただけでございます。原因を突き止め、あの見事な手順で衛星を直されたのは、藤崎さんをはじめとする技術者の皆様のお力です」
「そう言っていただけると嬉しいですが……でも、宇宙開発に携わる人間にとって、『三万六千キロ先の機械の死角が、地上から直接リアルタイムで見える』ということがどれほど奇跡のようにありがたいことか、言葉では言い表せないほどです」
疲れの残る顔に心からの晴れやかな笑顔を浮かべる藤崎を見て、直哉は内心で(……いやー、俺はガチャで引いた千里ちゃんに変身して宇宙を眺めてただけなんだけど、そんなに感謝されるとめちゃくちゃ照れるな!)とこそばゆい気分になっていた。
藤崎は、少しだけ遠慮がちに、しかし強い期待を込めて尋ねてきた。
「あの、御影さん。もちろん、毎回このようなトラブルが起きるわけではないのですが……今後また、私どもの宇宙機の運用において、どうしてもカメラの死角や地上のデータだけでは判断がつかない事態が生じた際には、今日のように八咫烏様を通じてお力を借りることは可能でしょうか?」
千里は、隣に立つ霧島と軽く視線を交わしてから、コクリと頷いた。
「はい。私どものスケジュールや業務の条件が合う範囲であれば、ぜひまた協力させていただければと存じます」
「本当ですか! ありがとうございます、心強いです!」
霧島も微笑みながら、「今回の件は八咫烏を窓口とした単発の特別観測業務として処理いたしますが、今後のご依頼につきましても、御影さんのご負担にならない範囲で随時調整させていただきます」と補足してくれた。
先日確認した通り、登録能力者である直哉は八咫烏の専属職員ではないため、こうして民間の宇宙関連企業からの専門的なスポット依頼も、自分の意思で自由に選んで受けることができるのだ。
なお、今回の人工衛星の復旧劇については、帰りの車に乗っても《因果変動記録》の通知が鳴って因果晶がドロップするようなことはなかった。人間の生死に直結する事件ではなかったからか、あるいは技術者たちの力による解決の比重が大きかったからかは分からないが、代わりに民間企業からの特例技術協力として破格の日本円報酬が支払われることが確定しており、直哉としては文句なしの大収穫だった。
(……いやー、しかし今日は本当に面白い体験ができたな! まさか俺の人生で、宇宙の静止軌道にある人工衛星の故障を直す仕事に関わる日が来るとは思わなかったわ!)
(戦うだけじゃなくて、警察の人探しから宇宙開発のサポートまで……千里ちゃん、マジで★4とは思えないくらい仕事の幅が無限大すぎるだろ!!)
◆
そうして東京側の千里の身体が宇宙規模の仕事を終えてマンションへと帰還した頃。
時間は夕方となり、青森の御巫神社の台所では、生身の直哉と私服に着替えた梓の二人が、並んで夕食の支度に取り掛かっていた。
昼過ぎに二人で麓のスーパーへ買い出しに行き、今夜のメニューは朝の約束通り『具だくさんの手作りカレー』である。
シンクの前に立った直哉は、ピーラーと包丁を使って、買ってきたばかりのジャガイモの皮を剥いてはゴロゴロとした大きめのサイズに切っていた。隣では、梓がまな板の上でタマネギとニンジンをリズムよく切っている。
ボウルの中に積まれた直哉のジャガイモを見た梓が、目を丸くして笑った。
「ちょっとナオさん、そのジャガイモ、本当に二つ割りくらいでそのままお鍋に入れる気なの? ずいぶん大きくない?」
「はい! 朝も言いましたけど、俺、カレーのジャガイモはこれくらいゴロゴロしてて、スプーンで割りながらホクホク食べるやつが一番好きなんですよ!」
「へえー、まあ煮込む時間はちょっと長くなるけど、まだ時間も早いしいいか。じゃあ今日はナオさんの好みに合わせて、お肉もニンジンも全部大きめのゴロゴロカレーにしよっか!」
「やった! ありがとうございます!」
もはや特別な気遣いや遠慮もなく、ごく当たり前の日常として二人で台所に立ち、好みの具材の大きさについて笑い合う。
大鍋で角切りの牛肉と野菜をジュージューと炒めながら、梓がふと思い出したように直哉へ尋ねた。
「そういやさ、ナオさん。今日の昼間、あんた客間でちょっと静かにしてた時間あったでしょ? 東京に残してる分身の方で、またなんか警察のお仕事でもしてたの?」
「ああ、そうなんですよ! いや、今日は警察じゃなくてですね、聞いてくださいよ梓さん! 俺、今日東京の千里ちゃんの身体で『人工衛星』を見てきたんです!」
菜箸を動かしていた梓の手がピタリと止まり、キョトンとした顔で直哉を見た。
「……人工衛星?」
「はい! 地上から三万六千キロ上の宇宙空間に浮かんでる、本物の通信衛星です!」
「……あんたねえ、こないだはウィーンだの京都だのに行ってたと思ったら、今度はついに宇宙まで行ったわけ!?」
「あはは、行ったって言っても、東京の管制室に座ったまま千里ちゃんの《天眼》の視界を宇宙まで飛ばして、壊れて開かなくなってたアンテナのピンが引っかかってるのを見つけただけなんですけどね! でも、本物の青い地球と人工衛星がすぐ目の前に見えて、めちゃくちゃ綺麗で感動しましたよ!」
直哉が興奮気味に語ると、梓は数秒間呆気にとられたあと、「あはははは!」と楽しそうに声を上げて笑った。
「いやー、地上から宇宙の人工衛星の故障箇所を目視で見つけるなんて、あんたのその観測能力も大概デタラメよねえ! ほんと、あんたと一緒にいると退屈しないわ!」
「俺も、自分の能力がまさか宇宙開発の役に立つとは思ってませんでしたよ!」
そんな賑やかな会話を交わしているうちに、大鍋の中では具材がコトコトと柔らかく煮え、カレールーを溶かし入れると、台所中に食欲を猛烈に刺激するスパイシーで香ばしい匂いが立ち込めた。
やがて炊きたての白いご飯が盛られた大皿の上に、大きなジャガイモと牛肉がゴロゴロと入ったとろみのある中辛カレーがたっぷりと注がれ、二人は居間のちゃぶ台で向かい合って座った。
「「いただきまーす!!」」
声を合わせてスプーンを取り、直哉はさっそく湯気を立てる大きなジャガイモを半分に割って、ルーとご飯と一緒に大きく口へと運んだ。
じっくり煮込まれて牛肉と野菜の旨味が溶け込んだ王道の家カレーの味と、ホクホクとしたジャガイモの甘みが口いっぱいに広がる。
(……うまっ!! いやー、やっぱり家で大鍋で作るゴロゴロ野菜のカレーって、なんでこんなに最高に美味いんだろうな!!)
向かいで食べていた梓も、頬を押さえて「んーっ!」と幸せそうに目を細めた。
「やっぱり家のカレーって美味しいわねー! 具を大きくしたのも食べごたえがあって大正解だわ!」
「ですよね! お肉も柔らかくてめちゃくちゃ美味いです!」
「しかもさ、一人だとルーが余っちゃうからなかなか作れないけど、こうして二人で食べると大鍋で作ってもどんどん減るから、作りがいがあっていいわよね」
直哉は、カレーを頬張りながら心の底から同意して頷いた。
「本当にそうですね。俺も東京のマンションで一人で食べるより、こうやって梓さんと二人で喋りながら食べる方が何倍も美味しくて楽しいですよ!」
直哉が何のてらいもなく真っ直ぐにそう言うと、梓は一瞬だけ目を瞬かせ、それから「……ふふ、そっか。ならいっぱい食べなさいよ」と、少しだけ嬉しそうに柔らかく微笑んで、自分のお皿のカレーをまた一口運んだ。
二人でハフハフとお代わりまでして食べたあと、梓が台所の大鍋の中を覗き込んで、少しお腹を押さえながら言った。
「……あー、でも、やっぱりちょっと張り切って作りすぎちゃったかも。まだお鍋に半分近く残ってるわ」
「全然大丈夫ですよ! 俺、二日目の味が染みたカレーも大好きですから、明日の朝ご飯も昼ご飯もカレーで余裕でいけますよ!」
「えー、あんた朝からあんな重たいカレーライス食べる気なの?」
「余裕です!」
「若いのかおっさんなのか分かんない胃袋ねえ……。あ、じゃあさ、明日のお昼は残ったカレーにお出汁を足して、特製のカレーうどんにでもしよっか!」
「おおっ、カレーうどん! それ最高ですね、絶対美味いやつだ!」
(……いやー、昼間は東京で三万六千キロ先の宇宙の仕事をこなして、夜は青森の神社で梓さんと美味しい手作りカレーをお腹いっぱい食べて……最近の俺の二重生活、ちょっと信じられないくらい充実してるなあ!)
一週間後に控えているという『山三つ分の神様の封印更新』のことなど、今この温かな食卓の上ではすっかりどこかへ追いやられたまま、北国の神社の夜は、美味しいスパイスの香りと二人の笑い声に包まれて穏やかに更けていくのだった。
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