中央トレセン学園。その広大な敷地の一角にある試験用コースでは、来年度の入学を志す若きウマ娘たちの実技テストが粛々と行われていた。
■
メインスタンドの最上段、試験官席からターフを見下ろす老トレーナーの顔には、穏やかな感心の影が落ちていた。
「……ほう。今年の連中も、なかなかどうして見どころがあるじゃないか」
彼は手元のバインダーに目を落とし、次々と合格ラインの評価を書き込んでいく。
現代のウマ娘たちは素晴らしい。スポーツ科学に裏打ちされた合理的なトレーニング法、計算し尽くされたフォーム、ターフの芝を傷つけないよう改良された最新鋭のシューズ。彼女たちの走りは美しく、しなやかで、まるで芸術品のようだった。
だが、老トレーナーの胸の奥底には、その「美しさ」に対するほんの僅かな物足りなさがあった。
彼がまだほんの子供だった頃――あの『鉄の時代』の記憶である。
泥に塗れ、血の味を噛み締めながら、ただ己の闘争心のみを燃料にして大地を抉り取っていた、あのシンザンの時代。あの大地を踏み砕く「鉈(なた)」のような重く恐ろしい足音を、彼はコースの脇で幾度となく聞いて育った。
あの泥臭く、暴力的なまでの情念のぶつかり合い。それに比べれば、現代の洗練されたレースは、どうにも綺麗すぎるきらいがあった。
「ま、時代は変わるものさ。老人の郷愁だな」
老トレーナーは自嘲気味に笑い、冷めたコーヒーを一口すすった。
■
やがて、アナウンスが実技試験の『第11レース』を告げた。
距離は1000メートル。スタートから一気に最高速へと到達し、息つく暇もなくゴールまで駆け抜ける、純粋なスプリント戦である。
ゲートに向かう少女たちの列の中に、一人の奇妙なウマ娘がいた。
白みを帯びた銀髪に、ふわりと赤いメッシュが入った少女。手足の筋肉はまだ出来上がっておらず、いかにも地方から出てきたばかりの素朴さを残している。だが、その眼差しだけが異常だった。緊張も、気負いもなく、まるでこのコースの主であるかのように、ただ静かに芝の感触を確かめている。
「……ファーロングポウル、か」
老トレーナーは、手元の書類にあるその奇妙な名前を指でなぞった。
地方の小さなスクールで教鞭をとっている彼の古い親友から、一通の熱烈な推薦状が届いていたのだ。そこには、興奮で震えたような筆致でこう書かれていた。
『信じられないかもしれないが、あの「鉈」が再びターフに現れたのだ』と。
―――まさか。
老トレーナーは鼻で笑っていた。鉈の時代はとうの昔に終わったのだ。あんな無骨で不器用な走りが、現代の洗練されたターフで通用するはずがない。親友もとうとう耄碌(もうろく)したか、と思いながらも、彼は義理で彼女の受験を許可していた。
「さて、どんなものか。見せてもらおうじゃないか」
老トレーナーはストップウォッチを構え、スターターに向かって小さく手を挙げた。
■
ダァンッ!
乾いた号砲とともに、ゲートが開く。
1000メートルという超短距離戦。セオリー通りならば、いかに素早く飛び出し、好位置を確保するかが勝敗を分ける。他の受験生たちは一斉にダッシュを決め、バ群を形成して第一コーナーへと殺到していった。
だが。
ファーロングポウルは、最後方にいた。
出遅れたわけではない。スタートの初動そのものは完璧だった。しかし彼女は、あえて自らペースを落とし、最後方からの『追い込み』を選択したのだ。
「馬鹿な。1000メートルで最後方に下がるなど……届くはずがないだろう」
老トレーナーは眉をひそめた。いかに才能があろうと、物理的な距離のロスを挽回できる距離ではない。
バ群はあっという間に残り600メートル――第3コーナーへと差し掛かった。
ここで、最後方にいた彼女が動いた。
インコースで小賢しいポジション争いをする集団を嘲笑うかのように、彼女はバ群の大外へと進路を取った。セオリーを完全に無視した、あまりにも大外のライン。
まるで、自らが主役である舞台のクライマックスを演出する、不遜な演出家のような立ち回りだった。
それは、かつてターフを熱狂の渦に巻き込んだ、あの「自由奔放な三冠ウマ娘」の姿に酷似していた。常識など知ったことか。自らの力こそがルールであると言わんばかりの、派手で痛快な跳躍だった。
「……ッ!」
老トレーナーは身を乗り出し、ファーロングポウルの走りに喰いついた。コーナーの遠心力をものともせず、彼女は大外から一気にバ群に取り付いていく。
そして、残り400メートル。
直線の入り口。
歓声のない静寂のターフで、彼女のフォームが劇的に変化した。
先ほどまでの軽やかな跳躍が嘘のように、重心が地を這うように沈み込む。そして、ドゴォン、ドゴォンと、メインスタンドの最上段にまで響くような、重く鈍い踏み込みの音が鳴り始めた。
前を塞ぐ数人のウマ娘たちが、その異様な気配とプレッシャーに耐えきれず、まるで道を開けるように左右へ割れていく。
それはまさに『鉈(なた)』であった。
小手先のスピードや技術ではない。圧倒的な質量の暴力で、立ち塞がる丸太を真っ二つに叩き割るように、じりじりと、しかし確実に前との距離を食いちぎっていく。
「本当に……鉈だと……?」
老トレーナーの手に握られたストップウォッチが、微かに震えていた。友の言葉は真実だった。あの記憶の中の重脚が、今、目の前のターフで蘇っている。
だが、驚愕はそれで終わりではなかった。
先頭に立ち、いよいよ栄光と絶望の境界線――残り200メートルのハロン棒を通過しようとしたその瞬間。
重く鈍かった彼女の走りが、唐突に「消えた」。
いや、よく見れば消えたのではない。圧倒的な質量を持った鉈の踏み込みが、一瞬にして極限まで圧縮され、研ぎ澄まされたのだ。一切の無駄がない、精密機械のようなフォーム。絶対的な君主が下す処刑のような、冷徹にして完璧な加速。
バチィッ!
空気が爆ぜたような錯覚。鉈の重さをそのまま維持した巨大な刃が、あろうことか『雷(いかずち)』の速度で解き放たれたのだ。
それは、かつてターフを支配したあの完璧なる皇帝の走りであった。鉈の破壊力と、雷の絶対的な速度。相容れるはずのない二つの時代の頂点が、この一人の無名の少女の肉体の中で完全に融合し、爆発していた。
彼女は、他の受験生たちを文字通り「置き去り」にし、ただ一人、暴風となってゴール板を駆け抜けた。
■
完全な静寂。
共に走っていた受験生たちも、コース脇のスタッフたちも、皆、魂を抜かれたように立ち尽くしている。
老トレーナーは、言葉を失ったまま、無意識のうちにストップウォッチのボタンを押し込んでいた。
カチリ、という小さな音が、やけに大きく響いた。盤面に刻まれた数字を見る。
……1000メートル走の記録としては、もはや異常としか言いようのない、十二分すぎる合格タイムであった。
老トレーナーは、ゆっくりと息を吐き出し、バインダーの上にストップウォッチを置いた。ゴール板の先で、何事もなかったかのように静かに息を整えている銀髪の少女を見つめる。
「……鉈、か」
彼はポツリと呟き、やがて肩を震わせて笑い始めた。
「はは、ははははっ! あいつもまだまだ見る目が無い!」
友は、彼女を「鉈」と評した。
だが、老トレーナーの目は誤魔化されなかった。彼女は鉈ではない。名刀でもない。
「まだ鍛えられていない鉄だ。そう、なまくらも良いところだというのに……」
老トレーナーは、己の震える両手を見つめた。
まだ基礎体力も出来上がっていない、荒削りで不格好な肉体。だというのに、彼女はただその身に宿した「才能」だけで、鉈をへし折るほどの質量を生み出し、雷を消し飛ばすほどの速度を叩き出したのだ。
もし、この『なまくら』な鉄の塊を、中央の最高峰の環境で、極限まで叩き上げ、鍛え抜いたとしたら――。
一体、どんな恐ろしい怪物が誕生するというのだろうか。
「……はは。これは、嵐の時代が来るぞ」
老トレーナーはニヤリと、まるで少年のように無邪気で獰猛な笑みを浮かべた。
■
長年、綺麗に整えられすぎていたターフに、すべてを吹き飛ばすほどの巨大な嵐がやってくる。
彼は、バインダーの『ファーロングポウル』の名前の横に、力強く、紙が破れんばかりの筆圧で『特A』の合格印を書き込んだ。