『ウマ娘の世界って戦争、大戦とかあったんか?』
『その場合は戦火に出たウマ娘もいたのでは?』
と思っていたら思いついた物語。
―――1944。幻の二冠ウマ娘。彼女は確かにそこにいた。
※1話完結です。
そこには、何一つとして存在しなかった。
ターフを揺るがす地鳴りのような大歓声も。
少女たちの背中を押すファンの熱狂も。
それぞれの決意と夢が織り込まれた、色鮮やかな勝負服も。
ただ、鉛色に淀んだ1944年の空と、荒れ果てた芝生だけが広がっていた。
■
「一番手、通過。タイム、2分30秒台――」
感情の消え失せた男の事務的な声と、無機質なストップウォッチのクリック音だけが、広大な東京優駿場に響き渡った。
無地の粗末な運動着に身を包んだカイソウは、ゴール板――いや、ただ白線が引かれただけの殺風景な境界線を駆け抜けると、荒い息を吐きながらゆっくりと速度を落とした。
通常であれば、無数のフラッシュが瞬き、無数の笑顔が彼女を迎え入れるはずの場所だ。しかし今、彼女を取り囲んでいるのは、カーキ色の軍服を着た数人の将校と、記録係の役人だけだった。
「ご苦労。流石は今年の最優秀個体といったところか」
歩み寄ってきた将校の一人が、カイソウの汗に塗れた顔を一瞥して手元の野帳に何かを書き込んだ。
―――個体。
その冷ややかな響きに、カイソウの耳が微かに伏せられる。
「……あの」
「なんだ」
「これで、検定は終わりですか」
「ああ。貴様らの優れた心肺機能と積載能力は十分に証明された。この脚があれば、泥濘んだ南方戦線でも、物資と伝令を滞りなく運べるだろう」
将校は抑揚のない声で告げた。
これが「東京優駿大競走」。後の、日本ダービーと呼ばれるレースであったことを、ここにいる誰一人として口に出さなかった。いや、出してはいけないのだ。娯楽は不謹慎であり、今この国において彼女たちが走る理由は「人々を笑顔にするため」ではなく「国家の役に立つ兵器であることの証明」でしかないのだから。
カイソウは振り返り、広大で、ただひたすらに静まり返ったスタンドを見上げた。誰もいない。誰も笑っていない。誰も自分の勝利を祝ってはくれない。
(……私たちは、なんのために走るのだろう)
自分の足元を見る。土に塗れたシューズ。この脚は明日から、ファンの待つステージではなく、火の粉と硝煙が舞う戦地へと向かうのだ。
「次、二番手通過!」
記録係の声が響き、泥だらけになった同期のウマ娘が白線を越えて崩れ落ちた。カイソウは静かに歩み寄り、肩で息をする仲間に無言で肩を貸した。
歓声の代わりに重苦しい静寂が支配する、無音の東京優駿。
それが、後に「空白の世代」と呼ばれる彼女たちの、輝かしくも哀しい頂点の景色だった。
■
カタ、カタ、カタ……と、古い映写機が回るような音が記憶の底で鳴った。
無彩色の景色が弾け、視界が一気に極彩色の春へと巻き戻る。
時は数年遡る。空はどこまでも青く抜け、世界はまだ、希望と熱狂に満ち溢れていた。
「すごい……! ここが、トレセン学園……!」
舞い散る桜吹雪の中、真新しい制服に身を包んだカイソウは、目の前にそびえ立つ壮麗な白亜の洋館を見上げて息を呑んだ。
当時、国内最大の財閥がその巨財を惜しみなく投じて設立したエリート育成機関――『中央トレセン学園』。選ばれし才覚を持つウマ娘だけが門を叩くことを許される、誰もが憧れる夢の学び舎だ。
門をくぐれば、ハイカラな洋装の令嬢たちや、溌剌とした顔つきの特待生たちが、鈴を転がすような笑い声を響かせながらターフへと向かっていく。そこには、戦争の影など微塵も感じさせない、ただひたすらに前だけを向く無垢な青春があった。
そして、その年の日本中を最も熱狂させたのは、一人の偉大なウマ娘の誕生だった。
『――抜け出した、抜け出した! 先頭はセントライト! 圧倒的な末脚だ!』
学園のラウンジに置かれた巨大な最新式の真空管ラジオから、実況の絶叫が響き渡る。スピーカーの前にすし詰めになった生徒たちが、固唾を飲んでその声に耳を傾けていた。
カイソウもまた、同期の仲間たちと手を強く握り合いながら、祈るようにラジオを見つめていた。
『今、栄光のゴールイン!! セントライト、見事京都農林省賞典四歳呼馬を制覇! 史上初、史上初の三冠ウマ娘の誕生であります!!』
その瞬間、ラウンジは爆発するような歓声に包まれた。
「やった!」
「セントライト先輩、万歳!」
抱き合って喜ぶ者、感極まって涙を流す者。窓の外を見れば、学園中から地鳴りのような歓喜のどよめきが湧き上がり、遠く街の方からも、号外を配る鈴の音と万歳三唱がかすかに聞こえてくるようだった。
日本中が、彼女の走りに熱狂している。誰もが、彼女の三冠という偉業に夢と希望を託し、心の底から笑い合っている。
「……すごい」
カイソウは震える両手を胸に当てた。
心臓が、早鐘のように鳴っている。セントライトがターフを駆け抜けたその風が、ラジオの電波越しに自分の中まで吹き込んで来たかのような、強烈な憧れ。
「すごい、すごいや……!」
カイソウは仲間たちの手を引き、ラウンジの窓枠から身を乗り出して、広大な学園のターフに向かって大声で叫んだ。それは、何者でもない少女が、己の運命を決めた瞬間だった。
「私、決めた! セントライト先輩みたいに、日本中を熱狂させるウマ娘になる!」
春の陽光が、彼女の真っ直ぐな瞳をキラキラと照らし出す。
「私も絶対に……誰よりも速く走って、東京優駿大競走で一番になるんだ!」
屈託のない笑顔。隣で笑う同期たち。
自分たちの未来は、このどこまでも続くターフのように明るく、輝かしいものだと信じて疑わなかった。
誰の目にも、数年後に待ち受ける「無音の絶望」など、微塵も映っていなかったのだ。
■
あの桜の下で誓い合った夢の残滓は、鉛色の空と軍靴の足音に掻き消されていった。
「――以上。これより各員は、直ちに指定された任地へと赴くこと」
殺風景な講堂に、将校の冷徹な声が響く。数年前まで、華やかな勝負服のデザインを語り合い、次のレースの作戦を練っていた少女たちは今、全員がカーキ色の軍服に身を包み、息を潜めて整列していた。
「カイソウ、お前は南方戦線だ。主にジャングル地帯での物資運搬と、部隊間の伝令を命ずる」
「……は、はい」
「そしてお前たちは、満州への配備となる。極寒の地における傷病兵の輸送、および医療班としての任務だ」
将校の視線が、カイソウの隣に立つ同期の少女たちへ向けられた。
満州と、南方。
それは、どちらも生きて帰れる保証のない過酷な死地であり、そして何より、共にターフを駆け抜けた仲間たちとの、絶望的な距離での決別を意味していた。
「案ずるな」
不安に揺れる少女たちの瞳を見て、将校はあえて声を張り上げた。
「ウマ娘の軍事利用は、国際条約によって厳しく制限されている。貴様らはあくまで後方支援要員であり、最前線での戦闘行為に巻き込まれることはない。これは我が国の誇り高き『建前』であり、絶対のルールだ」
その言葉に、少女たちの肩からわずかに力が抜けた。人を殺さなくていい。戦闘にはならない。その「建前」は、か細い蜘蛛の糸のような安心感を彼女たちに与えた。
だが、その儚い安堵は、続く輜重兵(現在でいう補給部隊)たちの行動によって無惨に打ち砕かれる。
「各員、支給品を受け取れ」
次々と少女たちの手に押し付けられていくのは、救急箱でも、伝令用の鞄でもなかった。
鈍い光を放ち、油の匂いがこびりついた重い鉄の塊――歩兵銃だった。
「あの……!」
カイソウは、自らの細い腕にずっしりと沈み込む銃の重さに耐えかねて、思わず声を上げた。
「私たちは、非戦闘員では……国際条約で、守られているはずじゃ……」
「自己防衛用だ」
将校は感情の読めない目でカイソウを見下ろした。
「敵が常に条約を遵守するほど紳士的だとは限らん。ジャングルで鉢合わせた敵兵に、『私はウマ娘だから撃たないでくれ』とでも懇願するつもりか ……いいか、撃たれる前に撃て。これは『人殺しの武器』ではない。お前たちの命を守るための、ただの『道具』だ」
反論は許されなかった。手渡されたその鉄の塊は、今まで彼女たちが履いてきたどんな蹄鉄よりも、どんなトレーニング機材よりも重く、冷たかった。
列が解け、出征への短い待機時間。
カイソウは、北の地へと旅立つ同期の友と向かい合った。
「満州は、雪が深いらしいね」
「南方なんて、毎日スコールと泥濘みだそうじゃない」
互いに無理をして作った笑顔は、酷く引き攣っていた。
どちらの足元も、かつて憧れた芝を捉えるための軽いシューズではなく、分厚く重い軍靴に覆われている。そしてその肩には、人を殺すための銃が掛けられていた。
「……死なないでね、カイソウ」
「うん。そっちも。絶対、生きて……また、走ろうね」
それが、ただの気休めでしかないと分かっていても、そう誓うしかなかった。彼女たちは、観客のいないダービーで証明してしまったのだ。自分たちのこの脚が、夢を追うためではなく、泥と血に塗れた戦場で命を繋ぐためにこそ「役に立つ」ということを。
遠くで、出発を知らせる列車の汽笛が悲鳴のように鳴り響いた。カイソウは銃の革紐を握りしめ、南へと向かう貨車へと重い足取りで歩き出した。
振り返ることは、できなかった。
■
南方のジャングルは、緑の地獄だった。
絶え間なく降り注ぐスコールが、視界と体温を奪っていく。かつてターフで培った「重馬場」への適性など、腰まで浸かるほどの狂った泥沼と、飛び交う銃弾の前では無力に等しかった。
「しっかりして! あと少し、あと少しだから……!」
カイソウは、腹部を赤く染めた若い兵士を背中に担ぎ上げ、鬱蒼とした茂みの中を駆け抜けていた。本来なら大の大人を背負って走るなど造作もない彼女の脚は、極度の飢餓と疲労で鉛のように重かった。
不意に、前方のシダの葉が大きく揺れた。現れたのは、見慣れぬ迷彩服に身を包んだアメリカ兵だった。
鉢合わせた瞬間、互いの時が止まった。
敵兵の目が、泥だらけのカイソウの頭にある「馬の耳」を見て驚愕に見開かれる。だが、戦場という極限状態は、彼に咄嗟に小銃を構えさせた。
(殺される――!)
思考するより先に、カイソウの身体が動いていた。肩から提げていた、あの忌まわしい鉄の塊。震える指が引き金にかかり、躊躇なくそれを引いた。
鼓膜を劈く乾いた破裂音。アメリカ兵の胸に赤い花が咲き、泥の中へと力なく崩れ落ちていく。
「ぁ……あ……」
人を撃った。殺してしまった。
強烈な吐き気が込み上げる。しかし、背中の兵士の微かな呻き声が、彼女を現実に引き戻した。立ち止まることは許されない。彼女は血の味のする唾を吐き捨て、見開かれた敵兵の死体を飛び越えて、再び泥濘を蹴り飛ばした。自らの魂が決定的に穢れていくのを感じながら。
しかし、一人のウマ娘がどれほど超人的な脚力で駆け回り、血を流そうとも、戦局という巨大な濁流を覆すことなど不可能だった。
敗戦。
弾薬も食料も尽き果て、抵抗の術を完全に失ったカイソウたち残存部隊を包囲したのは、圧倒的な物量と装備を誇るアメリカ軍だった。
(これで、終わるんだ……)
泥に塗れた銃を落とし、静かに目を閉じたカイソウの耳に届いたのは、銃声でも罵声でもなく、ひどく狼狽したような英語の囁きだった。
『オーマイゴッド……信じられない。ウマ娘だ』
覚悟を決めていた彼女の運命は、捕虜。そして彼女を待っていたのは、想像を絶する「手厚い保護」だった。
ウマ娘の軍事利用禁止条約は、戦勝国であるアメリカにおいて厳格に機能していた。「世界の宝」であり神聖なるアスリートである彼女たちを、正規の捕虜収容所で人間と同列に扱うことは、国際社会における致命的な汚点になり得るからだ。
通されたのは、軍の野戦病院の奥に急遽用意された、清潔な個室だった。
真っ白なシーツのベッド。泥と血を洗い流す温かいシャワー。そして、山盛りのパンと甘いジャム、新鮮な野菜とオートミール。
ジャングルで餓死寸前だった日本の兵士たちが見れば狂乱するような贅沢な配給が、彼女には「当然の権利」として与えられた。軍医は彼女の傷を極めて丁寧に手当てし、将校たちは彼女に対してまるでVIPに接するかのような敬意と、少しの哀れみを向けた。
だが、その「優しき檻」の中で、カイソウの心は軋みを上げていた。
「どうして……」
甘いジャムを塗ったパンを喉に押し込むたび、涙が溢れて止まらなかった。
脳裏に焼き付いているのは、泥の中で息絶えていった味方の兵士たちや、自分が撃ち殺したあの若いアメリカ兵の顔。そして、遠く満州の雪原へ向かい、二度と会えないであろう同期の笑顔だ。
彼らは地獄の中で死んでいったのに。
人を殺した自分だけが、ウマ娘であるというただそれだけの理由で、こんな清潔なベッドの上で生き長らえている。
「あぁ……ああぁっ……!」
誰もいない個室に、少女の慟哭が響く。
生き残ってしまった。守られてしまった。
かつてダービーのターフを夢見た真っ直ぐな魂は、皮肉にもこの安全で温かいアメリカ軍のベッドの上で、静かに、そして完全に壊れていった。
■
焦土と化した東京の空には、どこか白々しいほどの青空が広がっていた。
復員船で本土の土を踏んだカイソウを待っていたのは、無残に焼け落ちた街並みと、薄っぺらい紙切れの束だった。
『消息不明』『戦死認定』
引き揚げ者の名簿が張り出された復員局の壁の前で、カイソウは抜け殻のように立ち尽くしていた。
南方戦線よりも遥かに悲惨だったとされる、満州からの引き揚げ。極寒の雪原と、ソ連軍の侵攻という地獄の中で、あの出征の日に「また走ろう」と笑い合った同期のウマ娘たちは、誰一人として帰ってこなかった。
遺骨すらない。彼女たちが最期にどこで倒れ、どんな顔で息絶えたのかすら、知る術はなかった。
「……あ、あ……」
乾いた喉からは、声にならない息が漏れるだけだった。
銃を撃ち、泥水をすすり、アメリカ軍の清潔なベッドで「特別扱い」を受けた自分だけが、五体満足でこの焼け野原に突っ立っている。その事実が、鋭い刃となって彼女の心を何度も、何度も切り刻んだ。
■
時は流れ、1947年(昭和22年)。
絶望のどん底にあった日本は、驚異的な逞しさで立ち上がりつつあった。その復興の象徴として、あのターフに再び大観衆が戻ってきた。
『第14回 東京優駿競走』
――復興記念競走と銘打たれたそれのスタンドの最後列。熱狂する人だかりのずっと後ろの暗がりで、カイソウはすり切れた外套の襟を立て、死んだような目でターフを見下ろしていた。
『――マツミドリ! マツミドリが一着でゴールイン!! 堂々たる勝利です!』
割れんばかりの大歓声が、初夏の空気をビリビリと震わせる。
ターフの中央には、鮮やかな緑と白の『勝負服』に身を包んだマツミドリが、弾けるような笑顔で観客の歓声に応えていた。平和な時代に生まれた、新しい世代のダービーウマ娘。泥にも血にも塗れていない、純白のシューズが緑の芝生の上で眩しく光っている。
ウイニングライブの華やかな音楽が鳴り響き、色とりどりの紙吹雪が舞う。
それはかつて、カイソウが学園のラウンジでラジオを聴きながら思い描いた、何よりも憧れた「ダービーの景色」そのものだった。
しかし、今の彼女の目に映るのは、眩しすぎる光でしかなかった。
(……うるさい)
大観衆の笑顔も。
マツミドリの華やかな勝負服も。
希望に満ちたファンファーレも。
今のカイソウには、すべてがひどく空虚で、残酷なものに見えた。目を閉じれば、今でも聞こえてくるのだ。自分たちの走りを無機質に計る、あのストップウォッチのクリック音が。ジャングルの泥濘に沈んでいった命の、最後の呻き声が。満州の雪原で、誰にも看取られずに消えていった同期たちの無念が。
彼女たちが命をすり潰した泥の上に、この薄っぺらで華やかな「平和」が建っている。誰も、自分の同期たちがどんな思いで死んでいったのかを知らない。知ろうともしない。
「――チッ」
音楽と歓声が最高潮に達したその時。カイソウは、自らの内に渦巻く黒い感情を吐き捨てるように、短く、鋭く舌打ちをした。
怒りなのか、嫉妬なのか、あるいはどうしようもない絶望なのか。
自分でも分からないその感情を外套の奥に隠したまま、彼女は光に溢れたターフに背を向けた。
歓喜に沸く群衆とは逆の方向へ。
暗く冷たいコンクリートの通路を、かつての「幻のダービーウマ娘」は、二度と振り返ることなく一人静かに立ち去っていった。
■
都心の一等地に建つ、瀟洒な洋館。
戦勝国からの手厚い保護と、ウマ娘という特別な身分に対する政府からの莫大な年金により、カイソウには不釣り合いなほどの豪邸があてがわれていた。
しかし、その重厚なマホガニーの扉の奥に広がっていたのは、吐き気を催すほどの退廃だった。
「……カイソウ。いるのか」
黒のスーツに身を包んだセントライトは、ハンカチで鼻口を押さえながら薄暗いリビングへと足を踏み入れた。
遮光カーテンが閉め切られた室内には、饐(す)えた酒の匂いと、薬品の甘ったるい悪臭が充満している。高級な絨毯の上には、空になったウイスキーの瓶と、そして――当時「疲労回復の特効薬」として市販され、瞬く間に社会問題となりつつあった覚醒剤(ヒロポン)の空きアンプルが無数に転がっていた。
「ああ……先輩。わざわざ、こんな所までどうして」
部屋の隅、ベルベットのソファに深々と沈み込んでいた影が、気怠げに動いた。
かつてダービーのターフを夢見た真っ直ぐな少女の面影は、そこにはない。無造作に伸びた髪は脂ぎり、焦点の定まらない虚ろな目は、異常なほどに淀んでいた。手には半分ほど液体の残った注射器が力なく握られている。
「お前……その有様は、なんだ」
セントライトの低い声が震えた。
三冠ウマ娘として日本の頂点に立ち、戦火の中でも凛とした誇りを失わなかった彼女の目に、信じられないほどの怒りと悲哀が宿る。
「なんだって……? 英雄へのご褒美ですよ。私は死なずに済んで、お金も山ほどもらった。だから、こうして有意義に使ってやってるんじゃないですか」
ヘラヘラと笑いながら、カイソウは再び注射器に手をかけようとした。
「いい加減にしろッ!!」
セントライトが踏み込み、カイソウの胸ぐらを荒々しく掴み上げた。注射器が床に落ちて砕け、無残な音を立てる。
「何をしているんだお前は! 命からがら帰ってきて、この国がもう一度立ち上がろうとしている時に、薬に溺れて……同期の連中がこれを見たら、何て言うか分かっているのか!」
その言葉が、カイソウの何かを決定的に壊した。
「……同期?」
カイソウの口から、空気が漏れるような笑い声が出た。それは次第に大きくなり、やがて狂気じみた嘲笑へと変わった。
「あはは、アハハハハッ! 同期って誰ですか!? 満州で凍え死んだあの子ですか!? それとも、南方で腹を撃ち抜かれて泥水の中で死んだあの子ですか!?」
カイソウは、胸倉を掴むセントライトの腕を力一杯振り払った。
「みんな死んだんだよ!! 私を残して、誰一人帰ってこなかった! なのに……なのに、外に出ればみんな笑ってる! マツミドリがダービーで勝った、平和が戻ったって、馬鹿みたいに騒いでる!」
カイソウの目に、大粒の涙が溢れ出した。怒り、絶望、そして底なしの虚無。
「ねえ、先輩……教えてよ。どうすればいいんだよ。あの子たちの骨は今も雪と泥の中にあるのに、どうして私はこんな広い家で、生きていなくちゃならないの……! 私は……どうやって、あの歓声を聞けばいいの……ッ!」
床に崩れ落ちたカイソウは、子供のように泣きじゃくった。
「せんぱい、助けてよ……」
と弱音を吐きながら、ボロボロと涙を流し続ける。
セントライトは、何も言えなかった。
三冠という絶対的な称号を持つ自分ですら、彼女の背負った地獄の底を覗くことはできない。戦争に行かなかった自分には、泥濘の中で友を失い、自らの手で人を殺めた彼女の痛みを分かち合う資格などなかった。
(……私は、無力だ)
セントライトは静かに屈み込むと、床に散らばったヒロポンのアンプルと未使用の注射器を、無言のまま全て拾い集めた。
「……薬は、やめろ」
絞り出すように発したその一言には、かつての威厳はなく、ただ悲痛な響きだけがあった。
セントライトは、泣き崩れるカイソウの背中にそれ以上触れることはできなかった。
拾い集めた毒をコートのポケットに押し込み、踵を返す。重いマホガニーの扉を閉める瞬間、背後から聞こえる慟哭が、彼女の心に消えない傷を刻み込んだ。
■
復興の槌音が響く表通りから一本裏に入った、薄暗い酒場。
換気の悪い店内に紫煙が立ち込める中、壁際の粗末なテーブルで、二人のウマ娘が黙々とグラスを傾けていた。
「……で、どうするべきかね」
年季の入ったグラスを眺めながら、セントライトの先輩ウマ娘であるタイレイが気怠げに口を開いた。彼女の前に座るセントライトは、眉間を深く寄せたまま、安酒の注がれたグラスを両手で強く握りしめている。カイソウの邸宅から戻って以来、彼女はずっとこの調子だった。
「全員根こそぎ戦地へ連れて行かれたのは、後にも先にも『あの世代』だけだ」
タイレイは紫煙を細く吐き出し、天井の染みを見上げた。
「生まれが悪かった。……そう言うしかないさ」
「生まれのせい、ですか。そんな言葉で片付けられる問題じゃありません」
「じゃあ何て言うんだ? 私の同期だって、何人かは志願して戦地へ赴いたらしいがね。私やあんたみたいに、三冠だの歴史的名馬だのって『功労ウマ娘』の肩書きを持った連中は、特例で徴兵を免除されてたからなぁ」
タイレイの口から、カハッ、と乾いた笑いが漏れた。その笑い声には、自分たちだけが安全な内地で生き残ってしまったことへの、どうしようもない自嘲と罪悪感がこびりついていた。
「考えてもみろよ。ターフを走らされて、演目もウイニングライブも、歓声のひとつもない。その虚しいダービーの褒賞が『戦争への参加権』だ」
タイレイはグラスの縁を指でなぞりながら、ひどく冷めた声で続けた。
「で、弾雨と泥濘の『戦争』っていうクソみたいなレースを勝ち残って、命からがら帰ってきたら……その最高のご褒美は『同期の二階級特進』と『豪華な生活』ときたもんだ。紙切れ一枚の戦死公報を押し付けられて、はいご苦労さん、だ。……頭がおかしくもなるさ。ヒロポンに手を出したくなる気持ちだって、私には否定できないね」
「タイレイ先輩……ッ!」
セントライトはたまらず身を乗り出し、テーブルをドンと叩いた。
「でも、彼女は! 彼女は! 東京優駿大競争を勝ったウマ娘なんですよ! 世代の頂点に立った、誇り高きウマ娘だ! このまま薄暗い部屋で、薬と酒に溺れて腐らせていいわけがない……何とかしてやらないと!」
「無理だ」
すがるような後輩の叫びを、タイレイは短い一言で叩き斬った。
「タイレイ先輩……」
「いいか、セントライト。戦争に行ってない私らが、あの地獄を見てきたあいつに掛けられる言葉なんて、この世のどこにもないんだよ。特権階級の綺麗事なんて、あいつの傷を抉るだけの毒にしかならない」
タイレイは残っていた酒を喉の奥に一気に流し込み、ドン、と乱暴にグラスを置いた。
「時間でしか解決しない話だ、コレは。あいつが自分で立ち上がるのを待つか、それともこのまま……」
その先の言葉は濁し、タイレイはただ静かに目を伏せた。
自分たち三冠ウマ娘の持つ圧倒的な力も、名声も、傷ついた一人の後輩の心を救うことすらできない。絶対的な無力感が、重く湿った空気となって二人の間にのしかかる。
「……クソッ」
セントライトは低く悪態をつき、自らのグラスを鷲掴みにした。
喉を焼くような安酒を煽る。その味はひどく苦く、まるで泥水を啜っているかのように、いつまでも胸の奥に不快な熱を燻らせていた。
■
1964年(昭和39年)、秋。
日本中がオリンピックの熱狂に沸き、高度経済成長の槌音が響き渡る中、ターフにもまた、新しい時代の到来を告げる爆発的な歓声が轟いていた。
『――シンザン、圧倒的! 圧倒的な強さで三冠達成!!』
秋空の下、満員のスタンドが揺れた。
セントライト以来、実に23年ぶりとなる三冠ウマ娘の誕生。戦後の復興を完全に成し遂げた平和な日本の象徴のような、力強く、そして美しい走りだった。
関係者席からその光景を見届けていたセントライトは、ふうと短く息を吐き、喧騒から離れるようにスタンド裏のコンコースへと足を向けた。自分の背負っていた「唯一の三冠」という重い看板を、ようやく次の世代に引き継げたような、心地よい疲労感があった。
もつ煮込みや焼き鳥の匂いが漂う、薄暗い売店通り。その片隅の柱に寄りかかり、一人でターフの熱狂を遠巻きに眺めている女の姿があった。
「お……」
くたびれたトレンチコート。手には串焼きと、安っぽいワンカップの酒。白髪が混じり始めたその横顔を見た瞬間、セントライトの足がピタリと止まった。
間違いない。あの幻のダービーウマ娘だ。
「……カイソウ」
思わずこぼれた声に、女がゆっくりと振り返る。かつての、淀みきった狂気の瞳はそこにはなかった。ただ、深い皺と、途方もなく長い時間を耐え抜いてきた静かな諦念だけが、彼女の顔に刻まれていた。
「……先輩、どうも」
カイソウは少しだけ目を丸くすると、串焼きをかじりながら、ひどくあっさりと頭を下げた。
「お前……、15年ぶり、か?」
「多分、そのぐらいですかね」
セントライトの呟きに、カイソウはワンカップの酒を一口あおり、遠くの芝生へ視線を戻した。
「……生きて、いたんだな」
「ええ、まあ。しぶといですからね、私らの世代は」
カイソウは自嘲気味に笑った。
その穏やかな口調に、セントライトは胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。あの薄暗い洋館で、注射器を握りしめながら同期の死を叫び、泣き狂っていた彼女の姿が脳裏を過る。
「……薬は、やめたのか」
恐る恐る尋ねるセントライトに、カイソウは「ああ」と短く頷いた。
「薬はやめてますよ。先輩が全部持って帰ってくれたあの日から、一度もやってない」
「そうか……」
「でもね」
カイソウは手元のグラスを軽く揺らし、ちゃぷり、と音を立てた。
「酒は、どうもやめらんねーですよ」
ターフから響くシンザンの勝利を祝うファンファーレ。その平和の音色を聞きながら、カイソウの顔に、諦めのような苦笑が浮かんだ。
「夢見がね、悪いんです」
たったその一言に、彼女が一人で戦い続けてきた20年間の地獄が詰まっていた。
泥の匂い。銃声。友の死顔。
どれだけ時代が豊かになろうと、どれだけターフに歓声が戻ろうと、目を閉じれば彼女はいつでもあのジャングルと雪原に引き戻されるのだ。アルコールで脳を麻痺させなければ、夜を越えることすらできない。戦争は、彼女の中で一日たりとも終わってなどいなかったのだ。
「……そうか」
セントライトはそれ以上、何も言えなかった。「頑張ったな」も「もう大丈夫だ」も、今の彼女にはただの無責任な綺麗事だ。
セントライトは無言のままカイソウの隣に並び、ポケットから小銭を出して、売店で同じワンカップの酒を一つ買った。ポン、と蓋を開け、カイソウのグラスに軽く打ち当てる。
「……乾杯くらいはいいだろう」
「……ええ。新しい三冠ウマ娘の誕生……、ですからね」
二人のグラスが、カチンと小さく鳴る。
華やかな表舞台の熱狂を背に、二人の老いたウマ娘は薄暗いコンコースで、ただ静かに、泥のように苦い酒を喉へ流し込んだ。
■
「この二十年間……お前、どこで何を――」
口に出しかけて、セントライトは慌てて言葉を飲み込んだ。
あまりにも野暮だ。彼女がどれほどの地獄を一人で抱え込み、どんな暗闇の中で今日まで息を繋いできたのか。それを無傷の自分が問いただすなど、傲慢以外の何物でもない。
しかし、カイソウは隣に立つ先輩の躊躇いを察したのか、ふふ、と喉の奥で笑い声を漏らした。
「いえいえ。気になさらず、良いですよ」
「……すまん」
「謝るようなことじゃありません。この20年の間、生きていましたがね。本当に何もしてないんですから。いただいた特別年金で、ただ泥みたいに酒を飲んでただけです」
カイソウは悪びれる様子もなく、ひょうひょうと語った。
「でも、最近になって久しぶりに外へ出てみたら、世間的には私、『行方不明』ってことになってたらしくて。どこかの記事で『幻の二冠ウマ娘、戦地の露と消える』なんて書かれてたのを見た時は、流石にびっくりしましたよ」
あはは、と力なく笑うカイソウ。その笑い声には不思議と刺々しさはなく、自らの数奇な運命すらも安酒の肴にしてしまえるような、枯れ果てた響きがあった。
カイソウはワンカップの焼酎をグイと呷り、ぷはぁ、と長く息を吐いた。アルコールの強い熱が喉を焼くのに任せながら、彼女の視線は再び、眩い光に満ちたターフへと向けられる。
視線の先では、偉業を成し遂げたシンザンが誇らしげにターフを周回し、数万人の観衆が総立ちになって万歳を叫んでいた。色とりどりの紙吹雪が、秋の陽光を反射してキラキラと舞い散っている。
「……やっぱ、レースって良いですね」
ぽつりと、カイソウが呟いた。その横顔には、かつて「無音のダービー」を走らされた時の虚無感も、戦後の復興ダービーを裏口から睨みつけた時の、黒い憎悪もなかった。
「ここには熱狂がある。明日への希望もある。ただひたすらに速さを競うだけで、こんなにもみんなを沸かせられる」
カイソウは目を細め、歓喜に波打つスタンドを見つめた。
自分たちが喉から手が出るほど欲しくて、ついに手に入れることができなかったもの。
それが今、目の前で確かに光り輝いている。かつての痛みが消えることは決してないが、それでも、この光景を見届けるために自分は生き残ったのかもしれないと、今は少しだけ思えた。
「世間じゃオリンピックで大騒ぎしてますし、あれも確かに素晴らしいもんです。でも……」
カイソウは手元の空になった焼酎のカップを軽く揺らし、二十数年前のあの日、同機たちと桜の下で夢を語った時のように、静かに、そして少しだけ誇らしげに微笑んだ。
「私にとっては、やっぱりこのレースの熱狂こそ……、何事にも敵わない」
その言葉に、セントライトは小さく息を吸い込み、そして、深く頷いた。
ターフを吹き抜ける秋風が、二人の老いたウマ娘のコートを優しく揺らしていた。
■
ターフからの歓声が少しずつ落ち着きを見せ始めた頃、セントライトは空になったワンカップをゴミ箱に放り込み、ゆっくりと振り返ってカイソウに向き直った。
「……なぁ、お前」
「はい?」
不意に真剣な声音になった先輩に、カイソウが首を傾げる。セントライトは少しだけ躊躇うように息を吸い込み、しかし、決意を込めた真っ直ぐな瞳で告げた。
「お前……『勝負服』を、作らないか?」
「……え?」
カイソウの動きが止まった。手にした串焼きが、ポロリと紙皿の上に落ちる。
勝負服。
それは、トレセン学園のウマ娘たちがデビューの際に与えられる、自身の魂の形。ターフで観客の歓声を浴びる者だけが袖を通すことを許される、華やかで神聖な衣装だ。
軍用検定として走らされたカイソウには、生涯与えられることのなかった「憧れの象徴」だった。
「な、何を言い出すんですか、急に」
カイソウは慌てて乾いた笑いを作って誤魔化そうとした。
「私みたいな、もうとっくに現役を退いた……泥と酒に塗れたババアが、今更そんなもの着たって笑い草ですよ。それに、もう登録だって抹消されて……」
「作れる」
セントライトは、強い口調でカイソウの言葉を遮った。
「伊達に歳をとっちゃいない。私も、トレセンや連盟でそこそこの重役になってるんだ。歴史の闇に消えかけた『幻のダービーウマ娘』一人に、正式な勝負服を仕立ててやるくらいの手回しは、いくらでもしてやれる」
セントライトは一歩踏み出し、カイソウの肩を真っ直ぐに見据えた。
「――というか、作れ。お前には、その権利がある」
「……」
カイソウは息を呑んだ。
自分の手を見る。ジャングルの泥に塗れ、銃の引き金を引き、そしてヒロポンと安酒のグラスばかりを握りしめてきた、皺だらけの汚い手。
こんな自分が、あのターフで光り輝くための衣装を着る資格など、本当にあるのだろうか。同期たちはみな、ボロボロの軍服を着たまま異国の土になったというのに。
目を伏せ、強く唇を噛んで迷うカイソウ。そんな後輩の痛切な逡巡を察して、セントライトの顔が悲痛に歪んだ。
「カイソウ……」
セントライトは、自らの両手でカイソウの震える肩を包み込んだ。
そして、まるで神仏にすがるような、祈るような震える声で告げた。
「お前は、ダービーウマ娘だ」
「……ッ」
「歓声がなくても、誰も祝福してくれなくても……お前があの残酷な時代を、誰よりも速く駆け抜けた。それだけは……それだけは、紛れもない事実なんだ」
その声には、二十年間、ずっと後輩を救えなかった自分への悔恨と、だからこそ今、彼女の生きた証を何としてでも世界に刻みつけたいという、切実な願いが込められていた。
「ダービーウマ娘が、勝負服を持たずに歴史から消えていいはずがない。……だから、作らせてくれ。お前の、本当の姿を」
ぽた、と。カイソウのトレンチコートの襟に、小さな染みができた。
「……ずるいですよ、先輩」
カイソウは顔を伏せたまま、子供のように鼻をすすった。薬の幻覚でも、アルコールで麻痺した感情でもない。それは二十年間、ずっと心の奥底に凍りついていた「ただの女の子」としての本物の涙だった。
「ずっと……欲しかったんです。本当は、ずっと……」
しゃくり上げながら、カイソウは不格好にコートの袖で乱暴に涙を拭い、そして、深く頷いた。
「お願いします……。私の、勝負服を」
その言葉を聞いて、セントライトは張り詰めていた糸が切れたように、ふっと安堵の笑みを漏らした。
「ああ、任せておけ」
と力強く頷き、カイソウの肩を軽く叩く。
秋風が吹き抜けるコンコース。
ターフの向こうでは、新しい三冠ウマ娘の誕生を祝うファンファーレが、どこまでも高く、澄み切った空へと響き渡っていた。
しかし今、カイソウの胸の中に鳴り響いていたのは、二十年遅れでようやく彼女のためだけに鳴らされた、新しい人生のスタートの鐘だった。
■
シンザンの三冠からしばらくの事。
東京レース場に用意された控室のテーブルの上には、真新しい勝負服が静かに折り畳まれていた。
深い森を思わせるエメラルドグリーンを基調とし、純白の意匠が施されたその衣装は、軍服の無機質なカーキ色とも、野戦病院の無菌室の白とも違っていた。それは、命の躍動と希望をそのまま織り上げたような、鮮やかで力強い色彩だった。
「……私の、勝負服」
カイソウは震える指先で、滑らかな生地に触れた。
袖を通す。背中のジッパーを引き上げる。その瞬間、信じられないことが起きた。
アルコールで焼け爛れ、ヒロポンの後遺症と加齢で重く沈み込んでいたはずの身体の奥底から、微かな、しかし確かな熱が湧き上がってきたのだ。
かつて背負わされた歩兵銃の冷たい重みも、ジャングルの泥の感触も、この衣装には存在しない。あるのは、ただ純粋に「風を切って走るため」だけに計算し尽くされた、羽のような軽さと優しさだけ。
鏡の中に立つ自分を見たカイソウは、息を呑んだ。そこにいたのは、酒に溺れた初老の女ではない。二十年という凍りついた時間を溶かし、本来あるべき姿を取り戻した、誇り高き一人のウマ娘だった。
「……行こう」
不思議と背筋が伸びていた。足取りには、若い頃のような力強さすら宿っている。
ターフへと続く地下通路を歩く彼女の耳には、かつての軍靴の重い響きではなく、芝を掴むために研ぎ澄まされた蹄鉄の軽やかな音が響いていた。
通路を抜け、秋の陽光が降り注ぐターフへ足を踏み出す。
眩しさに目を細めたカイソウは、そこに広がる光景に思わず足を止めた。
「な……」
ただの記録用の記念撮影だと聞いていた。
セントライトとカメラマンが一人いれば十分なはずの場所に、数十人のウマ娘たちが整列していたのだ。
タイレイをはじめとする、戦前・戦中を生き抜いた往年のダービーウマ娘たち。彼女たちもまた、それぞれの誇りを刻んだ勝負服に身を包み、静かに、しかし深い敬意を込めた眼差しでカイソウを見つめていた。
そして、その群衆の中央。誰よりも力強く、誰よりも眩いオーラを放つ若きウマ娘が一歩、前へと進み出た。
今年の主役。日本中を熱狂の渦に巻き込んだ新たな三冠ウマ娘、シンザンだった。
シンザンはカイソウの真っ直ぐな瞳を見つめ返し、深く、丁寧なお辞儀をした。
「お待ちしておりました。先輩」
凛とした、よく通る声が秋の空気を震わせた。
カイソウは困惑に唇を震わせた。自分はただの、歴史の闇に葬られた名もなき敗残兵に過ぎない。そんな自分が、今まさに頂点を極めた最高傑作のウマ娘から「先輩」と呼ばれる資格などあるのだろうか。
「私なんかが……どうして」
戸惑うカイソウに対し、シンザンは静かに首を振り、言葉を紡いだ。
「セントライト先輩から、すべて伺いました。私たちが今、こうして大観衆の前で歓声を浴び、心から走る喜びを分かち合えるのは、決して当たり前のことではないのだと」
シンザンの言葉に、タイレイたちベテラン勢も静かに頷く。
「先輩たちが、あの歓声のない時代を走り抜いてくれた。泥の中で、雪の中で、絶望の淵にあっても……『ウマ娘が走る』という行為そのものを、歴史の底で支え続けてくれた。先輩が繋いでくれたレースという歴史、その轍(わだち)があったからこその、今日なのです」
シンザンは真っ直ぐに手を伸ばし、カイソウの手を両手で優しく、そして力強く包み込んだ。その手は温かく、平和な時代を全力で駆け抜ける、命の喜びに満ち溢れていた。
「私たちは、先輩たちの世代が背負った悲しみを、完全に理解することはできないかもしれません。ですが、忘れることは絶対にありません。……どうか、真ん中でお写りください。私たちの、偉大なるダービーウマ娘として」
カイソウの視界が、ふいに歪んだ。
二十年間、自分たちだけが取り残されているのだと呪い続けてきた。自分たちの流した血も涙も、無神経な平和の足音にかき消されてしまったのだと絶望していた。
――しかし、違ったのだ。歴史は断絶してなどいなかった。自分たちが血を吐きながら歩いた泥だらけの道は、間違いなくこの眩いターフへと繋がっていた。
「……あ、ああ……」
カイソウの目から大粒の涙が溢れ落ち、真新しい勝負服の胸元を濡らした。もう、かつてのような黒い絶望の涙ではなく。それは二十年分の呪縛を洗い流す、浄化の涙だった。
セントライトが優しく背中を押し、シンザンが手を取って導く。
歴代の『名馬』たちが作る花道の中央、最も名誉あるセンターの立ち位置へ。
カイソウがそこに立った瞬間、秋の柔らかい風がターフを吹き抜け、緑の芝が黄金色に輝いた。
(みんな、見てるか。……私たちの走った証は、ちゃんとここにあるぞ)
満州の雪原で、南方のジャングルで散っていった同期たちの笑顔が、隣に並んで立ってくれているような気がした。
「それでは、いきますよ!」
カメラマンの明るい声が響く。
カイソウは涙を拭い、正面を見据えた。背筋を伸ばし、泥に塗れた過去も、酒に溺れた日々もすべて抱え込んだ上で、彼女は生涯で最も美しい、誇り高き笑顔を作った。
―――パシャリ、と。
時を越えたフラッシュの閃光が彼女らを包み込む。
幻のダービーウマ娘が、確かに、そこに存在したという証明を永遠の歴史の中へと焼き付けた。