キャプテン翼if武蔵の10番〜三杉淳の意志を継ぐ者〜 作:ロンゲスト・ロード
そしてついにブラジルから大空翼が帰国した。
残暑の熱気がまだ残る9月中旬の成田国際空港。
到着ロビーの自動ドアが開くと、湿度の高い日本の空気に混ざって、どこか懐かしい匂いが鼻をついた。
「翼! ロベルト!」
手荷物受け取りのゲートを抜けたところで、見慣れた笑顔が二人を迎えた。一足先にブラジルから帰国し、日本での生活環境を整えていた母・奈津子だった。
「母さん!」
荷物を抱えた翼が駆け寄る。日焼けした顔に浮かぶ笑みには、過酷な環境と、それを上回る心の葛藤をくぐり抜けてきた少年特有のたくましさが宿っていた。
「お疲れ様、翼。ロベルトも、長旅ご苦労様でした」
「やあ、奈津子さん。無事に着いてよかったよ」
空港の駐車場に用意されていた車に荷物を積み込み、一行は首都高速へと車を走らせる。
後部座席では、同行してきたナトゥレーザが窓の外を眺めながら、物珍しそうにはしゃいでいる。
「おい翼! 日本の街ってどこもビルだらけだな! あっちの自動販売機、缶の飲み物がボタン一つで出てくるのか!?」
「あはは、落ち着きなよナトゥレーザ。これから住むのはもう少し緑が多い武蔵野の方だからさ」
無邪気に声をあげるナトゥレーザの横顔を見ながら、運転席の奈津子はずっと気になっていた問いを鏡越しに投げかけた。
「しかし、驚いたわ。日本に帰国するのはいいとして……南葛ではなく武蔵に転校したいなんて」
流れる車窓の風景を見つめる翼に、奈津子は優しい目線をバックミラー越しに送る。
「静岡の南葛に戻れば、石崎君たち昔の仲間が待っているでしょう? あそこならすぐに打ち解けて、余計な苦労をせずにサッカーに専念できるかもしれないのに」
翼は膝の上で静かに両手を握りしめた。どこまでも続く灰色の高架線を追うように見つめながら、静かだが揺るぎない声で答える。
「……確かに、南葛に戻ればみんな温かく迎えてくれると思う。石崎君たちとやるサッカーは楽しいし、すぐに一つのチームになれるかもしれない。でも……それじゃ駄目なんだよ、母さん」
「翼……」
「三杉君が愛した武蔵で日本一にならないと……本当の意味で、俺は三杉君の死を乗り越えたことにならないんだ」
前を見つめる翼の瞳には、逃避や甘えを一切排除した覚悟が宿っていた。
あの夏、ピッチの上に崩れ落ちた三杉淳の姿。そして、あのあまりにも凄惨だった通夜の席での光景。何もできなかった自分の無力さ。そこから逃げ出して南葛の温かさに守られるのではなく、三杉が残した「武蔵」という場所で傷と正面から向き合うこと。それが、翼が出した唯一の答えだった。
バックミラー越しに息子の表情を見た奈津子の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「翼……よくぞあれから、立ち直ってくれたわね……」
あの試合と通夜の出来事以来、激しいショックと罪悪感から一時期は完全に心を閉ざし、ボールを蹴ることすらできなくなっていた息子。その地獄のような苦悩を誰よりも近くで見守ってきたからこそ、この言葉の重みが胸に刺さった。奈津子は目元を指で拭い、力強く頷いた。
「分かったわ。母さんはどこまでもあなたの味方だから」
「母さん……ありがとう」
「それはそうと、明日は三杉君のお家にご挨拶に行くわよ。しっかり三杉君と向き合わないとね」
「うん……わかってる」
翌日。
秋の気配が混じり始めた閑静な住宅街。
大きな門構えの三杉家の玄関を、翼と奈津子の二人がくぐった。ロベルトとナトゥレーザたちは、東京のサッカー環境の視察と観光を兼ねて都心へ出かけており、二人だけの訪問だった。
通された重厚な和室の奧には、黒漆塗りの仏壇が静かに鎮座していた。
遺影の中で爽やかに微笑む三杉淳の姿に、翼の胸が激しく締め付けられる。線香の煙が細く立ち上る中、二人は深く頭を下げ、静かに手を合わせた。
「翼君も……ごめんなさいね。淳の通夜の時は、辛い思いをさせてしまって……」
三杉の母が、どこか小さくなった背中で茶を淹れながら、消え入りそうな声で口を開いた。当時のパニックと混乱の中、翼に十分な言葉をかけてやれなかったことを悔やんでいるようだった。
翼は膝の上に手を置き、絞り出すように声を上げた。
「……そんなことはありません。俺のせいなんです。三杉君が亡くなったのは……俺のせいです。三杉君に対してあんなプレイをしなければ……」
「それは違うわ、翼君」
三杉の母が静かに、しかしきっぱりと翼の言葉を遮った。
「淳の死因は……あの子自身が限界を超えてしまったことなの。子ども同士の衝突で死ぬなんてことはないわ。あなたが自分を責める必要なんて、どこにもないの」
「でも……! 俺が三杉君に無理をさせてしまったのは俺の責任です!」
立ち上がりそうになる翼の肩を、横から静かな手が受け止めた。三杉の父だった。厳格だが、どこか深い哀しみを湛えた瞳が翼を見つめている。
「それなら、そんな状態になっていた淳を止められなかった、私たち大人の責任だ。翼君、君が罪を背負う責任なんてないんだよ」
「……」
大人の優しさが、逆に翼の胸を痛く刺した。誰のせいにもできない不条理。それが「死」という現実だった。
三杉の母は立ち上がると、仏壇の横に置かれていた棚から、使い込まれた数冊のB5サイズのノートを取り出し、翼の前の座卓にそっと置いた。
「……これは?」
翼が尋ねると、母は切なく微笑んだ。
「淳の部屋を整理したら出てきたの。あの子、練習で気づいたこととかをこうやってノートに書き留めていたみたい。淳は死の直前まで、本当にサッカーが大好きだったの」
翼は手でノートの表紙をめくった。
そこには、十代半ばとは思えないほど整った繊細な文字で、日々のトレーニング内容や試合中のポジショニングの理論が緻密に書き込まれていた。
そして、あるページで翼の指が止まった。
そこには、翼との対戦を心待ちにする三杉の素直な心境と、ピッチで全力をぶつけ合いたいという情熱が綴られていた。
「三杉君……」
ノートの紙面が、翼の目からあふれ出た涙でかすんでいく。
そこにあったのは、翼に対する怨嗟などではなく、一人のアスリートとしての純粋な情熱だった。
三杉の父が、優しく翼に語りかけた。
「翼君……できたら、このノートをもらってくれないか。淳が生前に認めていた君に……このノートを託したいんだ」
「そうね」と母も頷く。
「このノートは、あなたが引き継いでほしいの。きっと淳も喜ぶと思うわ」
遺影の三杉は、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
翼はノートを両手で強く抱きしめた。
「叔父さん……叔母さん……ありがとうございます。三杉君が残してくれたノート、大事にします」
「ありがとう、翼君」
深々と頭を下げる翼に、三杉の母は穏やかに微笑みながら語りかけた。
「翼君、また淳の墓参りにも行ってあげて。きっと淳も喜ぶと思うわ」
「わかりました。必ず行きます」
三杉の母から三杉の墓の場所を教えてもらい、翼親子は三杉家を後にした。
重苦しい罪悪感ではなく、三杉淳という天才が遺した情熱を胸に抱いて。
大空翼は、自らの新たな舞台となる西東京・武蔵野の地へと向かっていくのだった。
南葛に戻るのではなくあえて武蔵でサッカーをする選択を選んだ翼、果たしてどうなるのか。