キャプテン翼if武蔵の10番〜三杉淳の意志を継ぐ者〜 作:ロンゲスト・ロード
夕暮れ時の武蔵中学校グラウンド。笛の甲高い音が、静寂を切り裂くように何度も鳴り響いていた。
三杉淳という絶対的な存在を失った悲しみから立ち上がり、前を向いた武蔵中サッカー部。しかし、新監督として赴任した兵藤剛の指導は、部員たちの甘えを一切許さない苛烈なものだった。
「ストップ! 一ノ瀬、そこだ! なぜ今、右斜め後ろに3メートル下がった!?」
兵藤の大声がグラウンドに響き渡る。パイプ椅子から立ち上がった兵藤の手には、すでに戦術用のボードとストップウォッチが握られていた。
「相手ボランチが前を向いた瞬間、バックライン全体で押し上げるんだ! センチ単位のズレが、そのまま致命的なスペースになるぞ!」
「す、すみません!」
滝のような汗を流しながら、一ノ瀬が声を張り上げる。兵藤の要求するラインコントロールとポジショニングは、あまりにも精密だった。それはチームの絶対的エースである大空翼に対しても、例外ではなかった。
「翼! 前線からのプレスが単発になっている! お前ひとりが追いかけても、後ろのパスコースが消えていなければただの無駄走りだ! 相手の選択肢を左サイドに限定するように、体勢の向きを意識して寄せろ!」
「はいっ!」
翼は鋭い眼光で返事をすると、すぐさまポジションを修正する。一切の妥協を排した兵藤の指示。だが、グラウンドを包んでいるのは疲弊ではなく、どこか研ぎ澄まされた集中力と熱気だった。
全体練習を止め、兵藤は部員たちをグラウンド中央に集めた。ホワイトボードに磁石を並べ替えながら、兵藤は静かに語り始める。
「いいか、お前たちに叩き込んでいるのは、現在ヨーロッパで急速に広まりつつある最先端の戦術——『ゾーンプレス』だ」
「ゾーン……プレス……?」
本間が息を整えながらつぶやいた。
「そうだ。ボールではなく『スペース』と『人との距離』を基準に陣形を保つ。フォワードからディフェンダーまでの縦の幅を常に30メートル以内に保ち、コンパクトな陣形を維持したまま、全員で連動して相手の自由を奪う」
兵藤は磁石をキュッと狭め、一箇所に相手を閉じ込めるような動きを見せた。
「かつて武蔵中は、三杉がその卓越した戦術眼で自らサインを出し、完璧なオフサイドトラップを仕掛けていた。だが、あれは三杉という天才の頭脳に依存した戦術だ。俺たちが目指すのは違う。全員が同じ理論を共有し、連動した結果として自然と相手がオフサイドにかかり、ボールを奪い取る組織だ。……三杉が遺した武蔵の頭脳を、チーム全体へと進化させる」
三杉の遺産を進化させる——その言葉に、部員たちの目つきが変わった。
一方、グラウンド脇にある用具倉庫の陰——。
泥のついた練習着のまま、息を潜めてその光景を見つめる男がいた。真田だった。一度は部を去りながらも、どうしてもサッカーへの未練を捨てきれず、こうして物陰から密かに練習を覗き込んでいたのだ。
(キャプテンの頭脳を……チーム全体に……!?)
兵藤の言葉と、必死にラインを上げ下げする一ノ瀬たちの姿に、真田の胸は激しく波打っていた。
グラウンド中央では、一ノ瀬や本間がその要求される密度の高さに息をのんでいた。
「全員で……30メートルの幅を保ち続ける……」
「口で言うのは簡単だけど、これ、試合中に休みなく走り回りながら判断し続けるってことだろ……? 正直、頭も体もパンクしそうだ……」
戸惑いの空気が広がりかけたその時、翼がボールを強く踏みつけ、パーンと心地よい音を響かせた。
「すごいよ……! すごいや、兵藤監督!」
翼の顔には、汗にまみれた輝かしい笑顔があった。
「空間をみんなで奪い取って、そのまま全員で攻める……! このサッカーが完成したら、どんな強豪だって攻めあぐねるはずだ。日向くんや松山くんや岬くんのいる東邦学園にだって、絶対に勝てる!」
翼のまっすぐな言葉と圧倒的な前向きさに、下を向きかけていた部員たちの胸に再び火が灯る。
「……ふっ、翼の言う通りだな。キャプテンが残してくれた武蔵のサッカーを、俺たちの手で完成させるんだ」
「やるぞ! 兵藤監督、もう一回お願いします!」
本間や一ノ瀬が声を上げ、部員たちは再びグラウンドへと散っていった。
倉庫の陰で拳を強く握りしめる真田の目には、熱いものが込み上げていた。
(俺は何をやっているんだ……あいつらは、もう前を向いて進んでるっていうのに……!)
夕闇が深まり、部員たちが引き上げた後の静まり返ったグラウンド。兵藤は一人、ナイター照明の光を見上げながら煙草を吹かしていた。
(戦術の概念自体は、あいつらの飲み込みの早さもあって落とし込めつつある。翼という絶対的な軸がいることも大きい……だが問題はそこからだ)
兵藤は手元の日誌に目を落とす。
ゾーンプレスは強烈な運動量と、一瞬の判断力を90分間維持し続ける強靭なフィジカルを要求する。だが、相手はまだ成長途上の中学生だ。大人のプロチームと同じトレーニングを課せば、たちまち故障者が続出し、最悪の場合選手としての寿命を縮める。精神論で走らせることだけは絶対に避けなければならない。
(育成年代だからこそ、根性論に頼らない科学的なトレーニング理論と、綿密な医学的データに基づくコンディショニング管理が不可欠だ。俺一人の目で全員の心拍数や疲労度、筋肉の限界まで見極めるには限界がある……)
兵藤の脳裏に、かつて日本サッカー協会の男が言っていた言葉が蘇る。
「……片桐に頼んでみるか」
兵藤は煙草の火を消すと、夜の校舎へと足を進めた。武蔵中サッカー部の真の組織改革は、まだ始まったばかりだった。
今ではゾーンプレス戦術は目新しくない戦術ですが、作品の舞台を80年台中頃から後半にかけてに設定しております。その当時は最新の戦術でした。さて、未だサッカーを忘れることができない真田信次、彼が部に戻ることはあるのだろうか!