念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
ガタガタと激しく揺れる古びた路線バスの窓から、鬱蒼と茂る木々が後ろへと流れていく。
東京の郊外とは思えないほどの山深さだ。
舗装の甘いアスファルトの振動が、バスのすり減ったシート越しに俺の尻を情けなく揺さぶっている。
俺は吊り革に掴まりながら、深い、本当に深いため息を吐き出した。
「あー……。マジで帰りてぇ……」
口からこぼれ出た本音は、バスの古いエンジン音に掻き消されることなく、隣に立つ相棒の耳にしっかりと届いたらしい。
「ちょっと、さっきから何回目よ、それ」
二乃が呆れたようにため息を返す。
彼女は俺の横で、揺れるバスの中でも体幹をブレさせることなく、綺麗な姿勢で立っていた。
淡いピンク色のカーディガンが、窓から差し込む木漏れ日に照らされて柔らかい色合いを作っている。手には、俺が持たされている紙袋とは対照的な、小さなハンドバッグ。
「死んだ魚にもなるさ……。俺はこれから、地獄の釜茹でにされるカエルなんだからな」
俺は窓ガラスに額をくっつけ、さらに深く息を吐く。
「本当に大げさよね。たかが昔通ってた道場に顔を出すだけでしょ?」
「たかが? 今、たかがって言ったか?」
俺は泣きそうな顔で、二乃の横顔を見つめた。
数日前、うちの事務所の郵便受けに入っていた一通の封書。差出人は風林寺隼人と岬越寺秋雨。
『成長を確かめるべく、一度当道場へ出頭されたし。期日までに姿を見せぬ場合、長老および全員で直々に迎えに赴く』
その手紙を見た瞬間、俺は本気で夜逃げを考えたのだ。パスポートを持って南の島に高飛びしようとした俺の襟首を掴んで、このバスに乗せたのはどこの誰だ。
「あそこは道場なんて生ぬるい場所じゃない。人間の限界を遥かに超えたバケモノどもの巣窟なんだぞ……」
俺の悲痛な訴えも空しく、二乃はジトッとした目で俺を睨み返した。
「育ててもらった恩義があるんだから、ちゃんと挨拶に行くのが筋でしょ。それに……」
二乃は少しだけ言葉を切り、窓の外を見た。
「あんたがどんな場所で、どんな修行をして、その……『オーラ』のコントロールとかを身につけたのか。私も、ちょっと見てみたいし」
彼女の言葉には、ただの好奇心だけじゃない、何か別の感情が混ざっているように聞こえた。
俺の過去を知りたい。
そんな風に思ってくれるのは嬉しいが、知るべき過去と知らなくていい過去がある。梁山泊は間違いなく後者だ。
「後悔するぞ……。俺は忠告したからな」
「はいはい。あんたのヘタレ具合にはもう慣れてるわよ。ほら、着いたわ」
バスが古びた停留所に停まり、プシューッと音を立ててドアが開く。
外に出ると、むせ返るような青葉の匂いと、土の匂いが鼻を突いた。
都心とは明らかに空気が違う。酸素濃度が濃いというか、野生の気配が満ちているというか。
バス停から続く石段の先には、巨大な木製の門がそびえ立っていた。
城門かよ、とツッコミたくなるようなスケール感。門に掛けられた『梁山泊』という達筆な看板が、俺の脳内に染み付いたトラウマを強烈に呼び覚ます。
「うわぁ……すごく立派な門構えね。歴史を感じるっていうか」
二乃が感嘆の声を漏らし、門を見上げている。
「歴史というか、ただの要塞だよ、要塞」
俺がぶつぶつと文句を言っていると、門の向こう側から、ドゴォォォォン! という、爆発のような轟音が響き渡った。
「きゃっ!?」
二乃がビクッと肩を震わせ、俺の背中に隠れるように身を寄せる。
「な、なによ今の音! 爆発!?」
「いや……たぶん、誰かが壁に激突した音だな」
俺は冷静に分析した。この音の波長、コンクリートか土壁に、質量のある肉体が叩きつけられた時の音だ。
「か、壁に激突……?」
二乃が引きつった顔で俺を見上げる。
続いて、門の内側から、世にも恐ろしい絶叫が聞こえてきた。
「ひぃぃぃぃぃぃっ!! 殺されるぅぅぅぅぅぅっ!!」
悲鳴の主は、どうやら十代の少年のようだ。
涙と鼻水が混ざったような、命の危機に瀕した人間の、心の底からの叫び。
俺は嫌な予感を抱えながら、そっと門の隙間から中を覗き込んだ。
広い庭の真ん中を、一人の少年が這うようにして逃げ回っていた。
気弱な表情、短い髪、全身泥だらけの道着。
そして何より異常なのは、彼が背中に、樹齢百年はありそうな巨大な丸太と、タイヤを三つもロープで縛り付けて引きずっていることだ。
重量に換算すれば、数百キロは下らないだろう。
そんなものを背負わされながら、少年は涙と鼻水を撒き散らし、必死に地面を這いつくばっている。
「あ、あれ……何……? 拷問……?」
二乃が俺の肩越しに中を覗き込み、顔面を蒼白にしている。
「いや、あれはたぶん、基礎体力のトレーニングだな。朝の準備運動くらいのものだろう」
俺が冷や汗を流しながら答えた、その瞬間。
空から、巨大な影が降ってきた。
身長二メートルは優に超えるであろう、浅黒い肌の巨漢。タイのキックボクサーのような格好をした男が、少年の背後へと着地する。
「アパパ────ッ!!!」
巨漢が無邪気な声を上げると、地面を這っていた少年がビクゥッと肩を跳ねさせて振り返った。
その絶望に染まった顔面に向けて、一切の手加減を知らない純粋な前蹴りが放たれる。
「よそ見しちゃダメだよ、ケンイチ! アパ──ッ!」
ドゴォォォォン!!
タイヤごと蹴り飛ばされた少年──兼一は、まるでボールのように宙を舞い、庭の端にある分厚い土壁に激突した。
土壁がクレーターのように凹み、砂煙が舞い上がる。
兼一は壁にめり込んだまま、完全に白目を剥いてピクピクと痙攣していた。口からは一筋の魂のようなものが抜け出ているように見える。
「あわわわ……ケンイチ、また気絶しちゃった。アパチャイ、またやっちゃったー!」
巨漢は自分の頭を抱えてオロオロと走り回っている。
「ヒエッ……!!」
俺は思わず、声にならない悲鳴を漏らした。
間違いない。俺がいた頃よりも、明らかに修行メニューが悪化している。俺の時は、まだ丸太一本だったはずだ。なぜトラックのタイヤまで追加されているんだ。
インフレだ。暴力のインフレが起きている。
あんなものに巻き込まれたら、いくら力があっても精神が粉々に砕け散ってしまう。
「帰る。こんなところにいられるか! 俺は帰るぞ! 悪いが二乃、俺は一足先に新宿のパフェを食いに行くからな!」
俺は即座に踵を返し、バス停に向かって全力でダッシュしようとした。
だが。
グイッ!
首の後ろが、強烈な力で引っ張られた。
「げふっ!」
「どこに行く気よ、八雲」
二乃が俺のジャケットの襟首を、万力のような握力でガッチリと掴んでいた。
「ちょっと待って、二乃! 見ただろ今の! あれは人間が踏み入っていい領域じゃないんだよ! あそこの敷居を跨いだ瞬間、俺もあの白目剥いてる少年の隣に並べられるんだぞ!」
「情けない声出さないの! まだ誰にも会ってないじゃない! 腹括って、ちゃんと正面から入って挨拶しなさい!」
「無理無理無理! 離せ二乃、俺は命が惜しいんだ!」
二乃は俺の襟首を掴んだまま、ズルズルと俺を門の内側へと引きずり込んでいく。
「やめろぉぉぉっ! 助けてくれぇぇぇっ!」
俺の悲痛な叫びは、虚しく山の中にこだました。
引きずられるようにして門をくぐり、庭先に足を踏み入れる。
砂煙が晴れた庭の中央では、まだ男が兼一をつついている。
そこへ、母屋の縁側からパタパタと軽い足音が聞こえてきた。
「兼一さん! 大丈夫ですか! またアパチャイさんが手加減を忘れて……!」
現れたのは、長い金髪をなびかせた、抜群のプロポーションを誇る少女だった。
風林寺美羽。
梁山泊の長老の孫娘であり、この異常な空間で唯一のオアシスとも呼べる存在。
とはいえ、彼女もまた、その細い体の中にとんでもない武術の才能を秘めているのだが。
美羽は壁にめり込んでいる兼一の襟首をヒョイッと片手で掴み、まるで羽毛布団でも扱うかのような軽さで引き剥がした。
「兼一さん、しっかりしてください! ほら、気付け薬ですよ!」
美羽が兼一の鼻先に何か強烈な匂いのする小瓶を近づけると、兼一は「ングァッ!」と奇声を上げてビクンと跳ねた。
「ゲホッ、ゴホッ……! ぅあ、あ、あれ……? おじいちゃんが……川の向こうで……手を……」
「しっかりしてください。修行はまだ始まったばかりですよ」
美羽がにっこりと笑う。その笑顔の奥にあるスパルタな一面に、虚ろな目の兼一はヒィッと身をすくませた。
その時、美羽が庭の入り口に立っている俺たちに気がついた。
「あれ……? その顔、もしかして……」
美羽の大きな青い瞳が、俺の顔を捉える。
俺は咳払いをして、なるべく平静を装いながら前に進み出た。
「よ、よお美羽ちゃん。久しぶりだな。元気だった?」
俺が引きつった笑顔で片手を上げると、美羽はパァッと顔を輝かせた。
「えっ……? 八雲さん!? 本当に八雲さんですね! まあ、本当にお久しぶりです!」
美羽が小走りでこちらへ駆け寄ってくる。
相変わらずの美少女っぷりだ。歩くたびに、その規格外の胸が豊かに揺れる。
俺がその揺れに一瞬だけ目を奪われかけた、その時。
グサッ。
背後から、氷の刃のような鋭い視線が俺の後頭部に突き刺さった。
振り返らなくてもわかる。二乃だ。
彼女から発せられる無言のプレッシャーが、俺の背筋を凍らせる。
「ちょっと八雲。こんな道場に、こんな……スタイルのいい子がいるなんて聞いてないんだけど?」
二乃が低い声で俺の脇腹をギュッとつねってきた。
「い、いや、彼女はこの道場の長老の孫娘で、俺がいた頃の唯一のオアシス……というか、良心だったんだよ。いつもご飯を作ってくれてて」
「へぇー……。オアシスねぇ。美羽『ちゃん』、ねぇ」
二乃の目が完全に据わっている。
彼女はスッと俺の隣に並び立つと、見せつけるように俺の腕にギュッと自分の腕を絡ませた。
柔らかい感触と同時に、絶対に怒らせてはいけない種類のプレッシャーが密着した腕から伝わってくる。
美羽も、二乃の存在に気づき、少しだけ不思議そうな顔をした。
「八雲さん、そちらの方は?」
「あ、ああ。紹介するよ。こっちは中野二乃。俺の……仕事の相棒みたいなもんだ。で、二乃。こっちは風林寺美羽。この道場の娘さんだよ」
俺が慌てて紹介すると、二乃と美羽は互いに視線を交わした。
「初めまして、風林寺美羽です。八雲さんには昔、道場でご一緒させていただいて。相棒さんなんて、八雲さんも立派になられたんですね」
美羽が屈託のない笑顔で頭を下げる。
二乃は愛想笑いを作りながらも、美羽に向かってはっきりと告げた。
「中野二乃です。今は私が、八雲の食事から仕事の管理まで、全・部・面倒を見てますので」
皮肉交じりの口調だが、その仕草は無意識に『今の同居人は私だ』と宣言しているようだ。
腕を強く引き寄せられながら、俺の背中には変な汗が流れた。
と、とりあえず、この場を丸く収めなければ。
俺はすかさず、紙袋の中からこの時のための命綱──丁寧に風呂敷に包まれた桐箱と、のし紙がついた分厚い封筒を取り出し、土下座せんばかりの勢いで美羽の前に差し出した。
「そ、それより美羽ちゃん! これ、挨拶代わりの手土産だ! つまらないものだが、受け取ってくれ!」
「ええっ!? そんな、気を使わなくてもいいのに……」
美羽は遠慮しつつも、桐箱と目録の文字を見た瞬間、その瞳にキラキラと眩しい星が輝き始めた。
中には、表参道の高級和菓子店の詰め合わせと、さらに『特選黒毛和牛サーロイン肉十キロ・目録』という熨斗紙が入っている。
梁山泊の苦しい台所事情を一手に引き受けている美羽にとって、高級食材は最も有効なワイロだ。
「八雲さん……! こんなに高価なものを……! 助かります! 今月も食費がピンチだったんです!」
美羽は目録を胸に抱きしめ、俺に向かって深々と頭を下げた。
よしっ! チョロい!
家計を握る美羽を味方につければこっちのものだ。これでお茶を濁して帰ることができる。
「いやぁ、喜んでもらえてよかったよ。じゃあ俺たちはこれで失礼するよ。師匠の方々にもよろしく伝えておいてくれな!」
回れ右をして二乃の手を引いて逃げようとした、その瞬間だった。
空気が、完全に凍りついた。
「ほう……手土産とは殊勝な心掛けだが、挨拶は拳でするのが梁山泊の流儀でね」
背筋に、氷柱をねじ込まれたような悪寒が走った。
声は、俺の背後からではない。
見上げると、柔術着姿の男が、門の瓦屋根の上に静かに立ち下ろしていた。着地の音はおろか、気配なんて微塵もなかった。いつの間にそこにいたんだ。
「げっ……秋雨先生……」
俺が声を震わせると、今度は後ろのほうから野太い声が響いた。
「おいおい、下山してから少しは骨のある男になったか確かめてやるぜ」
気がつけば、退路を塞ぐように逆鬼至緒の巨体が影を落としている。
さらに、庭の茂みの中から、ヒョイッと小柄な男が顔を出した。
「ほほう、ずいぶんと可愛いお嬢さんを連れてきたねぇ。おいちゃん感激あるね! カシャッ!」
「きゃっ!? なにこのおっさん!」
強烈なフラッシュ。二乃の背後の地面に這いつくばるようにして、馬剣星がカメラを構えていた。二乃が咄嗟にハイキックを放つが、馬剣星はスライムのような動きでヌルリとその蹴りを躱す。
そして。
スッ……。
いつの間にか、俺の真横。手の届く距離に、鎖帷子のような装束の女──香坂しぐれが音もなく立っていた。
肩にはペットのネズミを乗せている。彼女は一言も発しない。ただ無言で、腰に帯びた愛刀の柄に手をかけている。
その冷たい瞳が、俺の首筋をじっと見つめている。いつでも斬れる、と言わんばかりに。
「アパ! 八雲と組手するー!」
とどめとばかりに、先ほどの巨漢が両腕を天に突き上げて歓喜の声を上げた。
完全に、包囲された。
前後左右、そして頭上。逃げ道はすべて塞がれた。
俺は引きつった顔で、必死の命乞いを試みた。
「ま、ちょっと待ってくれよ! 高級和牛持ってきたじゃん! 活人拳の教えはどうしたんだよ! 教えはっ!」
「肉は肉。挨拶は挨拶だ。さあ、構えたまえ、八雲くん」
屋根の上の男が、逃がさんとばかりにカッと目を開く。
後ろの大男も酒瓶を置き、首の骨をボキボキと鳴らしながら立ちふさがった。
カメラの男は機材を懐にしまい、スッと掌底を構える。女は刀の鯉口をカチャリと切った。
「八雲……これ、どういう状況……?」
二乃が俺の背中に隠れ、震える声で尋ねる。
「……どうやら、俺の胃袋じゃなくて、俺の命が今日の晩飯にされるらしい」
俺は覚悟を決めた。
殺気。五人の達人から放たれる、物理的な重圧すら伴う圧倒的な気迫が、俺の全身を押し潰そうとしてくる。普通なら、この殺気を浴びただけで呼吸が止まり、気を失うだろう。
だが、俺はもう、昔の俺じゃない。
「……しゃあねえ」
小さく息を吐き出し、体内のエネルギーのスイッチを全開に押し込む。
心臓の鼓動が跳ね上がり、血液が沸騰する。全身の毛穴からブワッと『オーラ』が噴き出し、全身を覆い尽くした。
「二乃、そこは危ないから、離れていてくれ」
俺の体が発する熱気とプレッシャーを感じ取ったのか、二乃は無言でコクンと頷いた。
「行くぜ、八雲ォ!!」
地を蹴る音すら置き去りにして、大男が踏み込んでくる。
右の正拳突き。空気を圧縮し、破裂させるような轟音を伴った一撃が、俺の胸ぐらを一直線に狙ってくる。
俺は両腕を胸の前で交差させ、そこに体中のオーラを集中させる。
ゴォォォォンッ!!
お寺の鐘を至近距離で殴りつけたような、重く硬質な音が庭中に響き渡った。
足の裏が地面の土を抉り、後方へとズザーッと滑る。オーラでガードしていても、トラックと正面衝突したような衝撃が突き抜けてくる。
「アパパーッ!! 八雲、硬いね! じゃあ次!」
反動で体勢を崩した俺の横から、間髪入れずに巨漢が飛び込んできた。
長い足が鞭のようにしなり、左脇腹を狙ってミドルキックが飛んでくる。
俺は瞬時にオーラの集中を移動させ、半身を切ってそれを受け止める。
ガアァァァンッ!!
足元の敷石が衝撃波に耐えきれずにクモの巣状にひび割れ、粉々に砕け散った。
「ぐっ……!」
胃液が逆流しそうになるのを必死に堪える。息をつく暇もない。
土煙の死角、俺の右斜め下から、チャイナ服の小柄な影が滑るように入り込んできた。
「よそ見してる暇はないあるよ!」
馬先生だ。蛇のようにうねる両手が、俺のオーラの薄い関節部分や急所を的確に狙って突き出される。俺は最小限の重心移動で上体を捻り、その連撃を紙一重でかわし続ける。
だが、その回避行動すら相手の計算の内だ。
チャキッ。
頭上から、冷たい金属音が降ってきた。
見上げると、しぐれ先生が太陽を背にして逆落としに降下してきている。手には抜身の刀……ではなく、鞘のままだ。だが、放たれている殺気は完全に真剣のそれ。峰打ちだろうが鞘打ちだろうが、食らえば頭蓋骨がパカッと割れる。
俺は馬先生の突きを右足のステップで躱しつつ、頭上のしぐれ先生に向けて左手の手刀を振り上げた。
ガキンッ! と、鞘と俺の腕がぶつかり、火花が散ったような錯覚を覚える。
「……やる」
無表情のまま短く呟くしぐれ。
その僅かな拮抗の隙を、一番厄介な男が見逃すはずがなかった。
「防御ばかりでは、合気の格好の的だよ」
いつの間にか俺の懐に潜り込んでいたのは、秋雨先生だった。
秋雨先生の手が、俺の腕の関節に羽毛のような柔らかさで触れる。
力ではない。
円の動きと完璧な体重移動。俺の身体のベクトルが一瞬にして完全に掌握される。
「っと……!」
天地が逆転した。どれだけ物理的な硬度を高めても、力のベクトルを操作する合気の前では無力だ。俺の身体は完璧に宙へ放り出された。
だが、無抵抗に叩きつけられるつもりはない。
空中で半回転し、体内のオーラを足裏に集中させる。
枯葉が舞い散る庭の端に、俺は両足で音もなく着地した。
「ふむ。見事な受け身だ。昔は投げられるとそのままカエルのように伸びていたものだが」
秋雨先生が感心したように顎を撫でる。
「やられっぱなしで終わるかよ……!」
着地の勢いを殺さず、前へ踏み込む。爆発的な瞬発力を乗せ、一番近くにいた逆鬼先生の懐へと飛び込み、掌底を打ち込んだ。
だが、巨漢の逆鬼先生はそれを風のように軽く躱した。俺は直前で軌道を変え、その奥にいた秋雨先生の死角へと入り込み、左の肘打ちを放つ。
しかし、彼らはまるで俺の動きがスローモーションに見えているかのように、紙一重の動きでその攻撃をかわしていく。スッ、フッ、と空気を切る音だけが虚しく響いた。
「あ、あの攻撃を受けて……まだ立ってる……!?」
壁際で、兼一が震える声で呟いているのが聞こえた。
「ちょっと……なんなの、この人たち……」
遠くへ避難した二乃も、口をポカンと開けて呆然としている。俺を圧倒的な強者だと思っていたはずの彼女が、息もつかせぬ猛攻を必死に凌ぐ光景に言葉を失っているのだ。
数分間の、永遠にも感じられる濃密な死闘。
俺の体力と精神力が限界に近づいた頃。
スッ……と、達人たちが一斉に構えを解いた。
周囲を包んでいた重圧のような殺気が、霧が晴れるように消え去った。
「ふむ……基礎は錆びついてないか。以前より気の扱いが格段に洗練されている」
秋雨先生が乱れた息ひとつ見せずに顎を撫でた。
「ああ。下界でぬるま湯に浸かってなまってるかと思ったが、なかなかいいガードだったぜ」
逆鬼先生も満足そうに腕を組む。
「はぁ……はぁ……」
俺は両膝に手をつき、肩で激しく息をした。
「死ぬ……死ぬってマジで……。1対5は……。クソゲー過ぎるって……。挨拶のハードルが高すぎるだろ……」
全身が汗と泥で汚れ、服はボロボロだ。せっかく二乃が選んでくれたジャケットも、見るも無惨な姿になっている。
「八雲! 大丈夫!?」
二乃が駆け寄り、俺の背中をさすってくれる。
「ああ……なんとか生きてる。五体満足だ……」
その時だった。
ドォォォォォン……。
庭の奥から、地鳴りのような重低音が響いてきた。空気がビリビリと震え、周囲の空間そのものが歪んでいるかのような、圧倒的な威圧感が庭を支配する。
「ホッホッホ! 良い拳を見せてもらったぞい!」
巨大な体躯に白い髭を蓄えた老人──風林寺隼人が、悠然と歩みを進めてくる。
一歩踏み出すごとに、俺が展開しているオーラが容易く掻き消されそうになる。本能が、この生物には絶対に逆らえないと強烈な警鐘を鳴らしていた。
「長老……」
俺が息を呑むと、老人は豪快に笑った。
「八雲よ、立派に育ったようじゃな! わざわざ挨拶に来てくれたその義理堅さ、見事じゃ!」
老人は俺の前に立つと、ポンッと軽く俺の肩を叩いた。
それだけで、俺の膝がガクッと折れそうになるほどの異常な質量。
「……ありがとうございます。でも、もう限界です。帰ってパフェ食べます」
踵を返そうとした俺の肩を、長老の巨大な手がガシッと掴んだ。
「何を急いでおる? せっかく久しぶりに顔を見せたのじゃ」
長老はニカッと白い歯を見せて、恐ろしい宣告を下した。
「八雲よ! 連れの可愛らしいお嬢ちゃんも一緒に、今宵は当道場に泊まっていくがよいわい! 久しぶりに、朝まで語り明かそうぞ!!」
「…………は?」
完全に思考が停止した。
「泊まり……? ここに……?」
「そうじゃ! 美羽に腕によりをかけて美味い飯を作らせるぞい! ワハハハハ!」
「はいっ、おじい様!」
高級食材を手に入れた美羽が、満面の笑みで返事をする。
長老の決定は絶対だ。拒否権など存在しない。
俺は肩をガッチリと掴まれたまま、青く澄み渡った空を見上げて絶望の涙を流した。
庭の隅へ避難していた二乃も、「えっ、お泊まり!? なにそれ聞いてないわよ!」と慌てふためいている。
ああ、神様。俺の平和な日常は、いつになったら戻ってくるんでしょうか。
明日の朝まで無事でいられることを祈りながら、俺は完全に敗北を受け入れるしかなかった。