念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
トトトトトトトトトトトトッ!
凄まじいスピードでまな板を叩く包丁の音が、古い日本家屋の広い台所に響き渡っている。
今、目の前で繰り広げられている信じられない光景に、私は思わず口を半開きにして立ち尽くしていた。
「ええっと、大根はこれくらいで足りますかね? 次はお豆腐を切って、それからネギを……ああっ、お味噌汁のお鍋が吹きこぼれそう!」
金髪のショートヘアを揺らしながら、風林寺美羽さんがまるで分身しているかのようなスピードで台所を駆け回っている。
右手に持った包丁で大根を千切りにしながら、左手で飛んできたお玉をキャッチし、足のつま先でコンロの火力を調整するという、雑技団も真っ青の神業だ。
「……これは、いくらなんでも量が尋常じゃないわね」
私は、割烹着の紐を背中でキュッと結び直しながら、目の前に広がる台所の惨状に呆れ声を漏らした。
一般家庭のキッチンというより、給食センターや相撲部屋の厨房と呼ぶべきスケールの機材たち。
私の膝丈ほどもありそうな巨大なアルミ製の寸胴鍋の中では、大量のお味噌汁が地獄の釜のようにボコボコと煮え滾り、三台の業務用ガス釜が猛烈な勢いで白い湯気を吹き上げている。
その隣で、風林寺美羽さんが、身の丈に合わない巨大な菜箸を握りしめ、山のような野菜の切り出しと格闘していた。
「あ、二乃さん!」
私の声に気づいた美羽さんが、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら振り返る。
「すみません、お客様なのにこんな台所の奥まで……! 庭の組手、終わったんですか?」
「ええ。あいつ……八雲が、ボロ雑巾みたいになって長老さんに捕まってたわ。それにしても、あの達人さんたちの規格外の動きを見たら、これくらいの食事量が必要なのも納得できるわね。私も手伝うわ。料理には自信があるの」
「本当ですか!? ありがとうございます、今日は特にみんなお腹を空かせているみたいで、一人だとギリギリだったんです……!」
美羽さんはパァッと顔を輝かせ、まな板のスペースを半分空けてくれた。
私は腕まくりをして手洗いを済ませると、あらかじめ用意しておいた八雲の手土産の紙袋から、厳重に保冷された包みを取り出した。
「まずは、これをメインに据えましょう。八雲が持ってきた、特選の黒毛和牛よ」
竹の皮を模した包みを開くと、中から見事な霜降りの薄切り肉が幾重にも重なって現れた。赤身と純白の脂が織りなす大理石のような模様に、美羽さんが「わぁっ……!」と感嘆の声を上げる。
「す、すごいお肉……! こんな高級品、うちの食卓に並ぶのなんて何年ぶりでしょう……!」
「せっかくだから、一番ご飯が進む味付けにしましょう。男の人って、結局甘辛い味が一番好きなのよね。すき焼き風の肉鍋にするわ」
私は備え付けられていた出刃包丁を手に取り、まずは大量の長ネギと白菜、焼き豆腐の下ごしらえに取り掛かった。
トトトトトトッ、と、まな板を叩くリズミカルな音が台所に響く。
私の淀みない包丁捌きを見て、横で大根を剥いていた美羽さんが目を丸くした。
「す、すごいです二乃さん! まるでプロのシェフみたい……! その細切りの均一さ、手首の返し、ただ者じゃありませんね!」
「大げさね。これくらい、毎日あいつの胃袋を満たすために作ってれば嫌でも身につくわよ」
私は照れ隠しにふんっと鼻を鳴らし、火にかけた巨大な平鍋に牛脂を引いた。
ジュワァァァッ! という食欲を暴力的に刺激する音とともに、上質な和牛の脂が溶け出し、甘く香ばしい匂いが台所いっぱいに広がる。
そこへ醤油、みりん、酒、砂糖で作った黄金比の割下を一気に流し込むと、さらに濃厚な香りの爆弾が弾けた。
「いい匂い……! お腹が鳴っちゃいそうです」
美羽さんがごくりと喉を鳴らす。
私と美羽さんの連携は、初対面とは思えないほどスムーズだった。私が肉鍋の味を整え、出汁を効かせた副菜の卵焼きや野菜のお浸しを同時進行で作る間、美羽さんは巨大なガス釜の白米を完璧な水加減で炊き上げ、手際よく盛り付けの準備を進めていく。
火の熱気と、立ち上る湯気。二人で汗をかきながら、私たちはものの小一時間で、大人十数人分はあろうかという豪華な夕食を完成させた。
「よし、完璧ね! さあ、猛獣たちに餌を与えに行きましょう!」
私が割烹着を脱いで宣言すると、美羽さんも「はいっ!」と元気よく頷いた。
*
大広間に運ばれた料理を前に、私は思わず呆然と立ち尽くした。
そこは、食事という名の戦場だった。
ちゃぶ台を三つ繋げたような巨大な食卓の周りで、先ほどのバケモノじみた達人たちが凄まじい勢いで料理を腹に流し込んでいる。
「アパパーッ! お肉美味しい! ご飯が進むー!!」
巨漢のアパチャイさんがどんぶり山盛りの白飯を文字通り「丸呑み」にする横で、傷だらけの逆鬼さんが鍋から直接肉をかっさらい、一升瓶の日本酒を水のように煽っている。
飛び交う巨大な菜箸。秒単位で空になっていく大皿。
そんな猛獣たちの檻の隅で、全身に湿布を貼った兼一くんが、ガクガクと震える手で涙目になりながら肉を口に運んでいた。
「むう……この野菜の浸し、出汁の染み込み方が実に見事だ。二乃くんの腕前は素晴らしいね」
秋雨先生と呼ばれていた優男風の達人が、目を閉じてじっくりと味わうように私の作った副菜を褒めてくれる。
「おう! 肉鍋の味付けも最高だぜ! 八雲の野郎には勿体なさすぎる嫁だな!」
逆鬼さんがガハハと笑いながら私のほうを指さした。
「嫁って……! ち、違いますから!」
私が慌てて顔を赤くして否定すると、横から馬剣星さんがニヤニヤと笑いながらお椀を差し出してきた。
「おいちゃんにも、その美味しいお肉を多めによそってね。いやぁ、このままうちに永久就職してもいいね?」
「コラ馬先生! うちの優秀なアシスタントをヘッドハンティングしようとすんな!」
端の席で、昼間のダメージを引きずって項垂れていた八雲が、慌ててツッコミを入れる。
「ワハハハ! 美味いぞい! ワシもおかわりをもらおうかのう!」
上座の長老さんが、あっという間に空になった巨大な飯櫃をドンと叩く。その圧倒的な食欲のブラックホールぶりに、私はただただ圧倒されるしかなかった。
「まったく……いくらなんでも食べ過ぎでしょ、あなたたち」
ため息をつきつつも、自分の作った料理が嵐のように平らげられていくのは、料理人として純粋に誇らしい。
「まあ、こいつの飯は世界一うまいからな。いくらでも食える気持ちはわかるよ」
隣で肉を頬張りながら、八雲が何気ないトーンでボソッと呟いた。
その言葉が、私の耳にスッと入り込む。
あいつはいつも飄々としていて本心が見えにくい男だけど、ご飯の味に関してだけは絶対に嘘をつかない。
私は顔の熱を隠すように、慌てて残りのご飯を口に運んだ。
「と、当然でしょ。私を誰だと思ってるのよ」
強がって見せたが、頬が緩んでしまうのを止めることはできなかった。
*
大量の食器洗いを手分けして片付けた後。
私は、美羽さんの自室に案内されていた。
畳敷きの清潔な部屋は綺麗に整頓されていて、彼女の真面目な性格がよく表れている。
部屋の真ん中にある小さなちゃぶ台を挟んで、私たちは温かいほうじ茶をすすっていた。
「本当に、今日は助かりました二乃さん。私一人だったら、あの倍の時間がかかっていたと思います」
美羽さんが、申し訳なさそうに、でも嬉しそうに微笑む。
「いいのよ。むしろ、あんな大家族の胃袋を毎日満たしてるなんて、美羽さんこそプロの料理人顔負けだわ」
私はそう言いながら、手元に置いてあった紙袋から、小さな美しい箱を取り出した。
「これ、食後のデザートにしようと思って買ってきたの。表参道の有名なお店で並んで買ったマカロンよ」
箱を開けると、宝石のように色とりどりのマカロンが綺麗に並んでいる。
「わぁ……! すごく綺麗……!」
美羽さんの目が、星のようにキラキラと輝いた。
その時だった。
スッ、という、衣が空気を切るごく微かな音。
見上げると、天井の太い梁の影から、一人の女性が音もなく降りてきた。
「えっ!?」
私が驚いて後ずさると、彼女は畳の上に足音一つ立てずに着地した。
鎖帷子のような忍び装束に身を包んだ、香坂しぐれさんだ。彼女の肩には、小さなネズミがちょこんと乗っている。
「しぐれさん! また天井裏に隠れてたんですか?」
美羽さんが呆れたように言うと、しぐれさんは無言でコクンと頷き、ちゃぶ台の上のマカロンの箱を、ジッと食い入るように見つめた。
その大きな瞳から、「食べたい」という強烈な意志が放たれている。
「あ、あの……しぐれさんも、一緒にどうですか? お茶、淹れますから」
私が遠慮がちに勧めると、しぐれさんは再び力強く頷き、ススッと私の隣に正座した。
「……ありがとう」
ポツリと短く呟き、彼女はピンク色のマカロンを一つ手に取ると、リスのように小さく口を動かしてモグモグと食べ始めた。
肩に乗っていたネズミ──『闘吉』という名前らしい──が、チョロチョロと私の膝の上に飛び移ってきた。
「あら、可愛い」
私が闘吉の鼻先に砕いたクッキーの欠片を差し出すと、小さな両手でそれを受け取り、カリカリと美味しそうに頬張り始めた。そのまま私の膝の上で丸くなる。
温かいお茶と甘いお菓子。さっきまでのカオスな食卓が嘘のように、この部屋には穏やかで平和な『女子会』の空気が流れていた。
「それにしても二乃さん、本当にすごいですね。あのお料理の手際もそうですし、八雲さんと一緒に危険なお仕事をされているなんて」
美羽さんが感心したように言う。
「私はただのアシスタントよ。面倒な依頼のスケジュール調整をしてるだけで、現場で暴れるのは全部あいつの役目だから」
私が苦笑いして答えると、美羽さんは好奇心に満ちたキラキラとした目で私を見つめてきた。
「あ、あのっ、その……二乃さんと八雲さんって……やっぱりお付き合いされているんですか?」
ブフォッ!!
私は思わず、飲んでいたほうじ茶を吹き出しそうになった。
「な、なに言ってるのよ急に!」
「だって、さっき八雲さんが、二乃さんのご飯は世界一だって、毎日作ってもらってるってすっごく自慢げに話してましたし! 一緒に住んでて、危ないお仕事まで手伝っているなんて……普通じゃ考えられません!」
美羽さんの青い瞳が、期待に満ちた光を放って私を射抜く。
私は顔から火が出そうになるのを必死に堪え、湯呑みをガチャンと卓に置いた。
「ち、違うわよ! ただの仕事の相棒! あいつ放っておくとすぐだらけるから、私が見張り役として付いてるだけなの!」
早口で否定の言葉を並べ立てる。
「それに、あんなすぐ『痛いのは嫌だ』って泣き言を言うようなヘタレ男、誰が好きになるもんですか!」
私が腕を組んでプイッとそっぽを向いた、その時だった。
「……でも」
隣でマカロンを齧っていたしぐれさんが、静かな声を落とした。
「……夕ご飯の時も。八雲のこと……ずっと、優しい目で……見てた。言葉は……きついけど。心は……隠せてない」
ピタリ、と。私の思考が停止した。
しぐれさんの無表情な、しかし本質を射抜くような鋭い瞳が、私を真っ直ぐに見据えていた。
自分の心の奥底、絶対に隠しておきたい一番柔らかい部分を、寸分の狂いもなく覗き込まれたような感覚。
嘘がつけない。取り繕おうとする表面上の言葉なんて、この達人の前では紙切れ同然に透けて見えてしまうのだ。
「ほらぁ〜! やっぱり! しぐれさんもそう思いますよね!」
美羽さんが満面の笑みでバンバンと手を叩いて追撃してくる。
「八雲さんに『世界一うまい』って言われた時の二乃さん、すっごく嬉しそうでしたもん! もう、完全に恋する乙女の顔でしたよ!」
「あ、あ、あああああっ……!!」
私は湯呑みを両手でギュッと握りしめ、俯いた。
心臓がうるさく鳴っている。こんな風に暴かれるのは悔しいけれど、ここで適当な嘘を吐き続けるのは、私らしくない。中野二乃という女のプライドが許さない。
私はゆっくりと顔を上げ、耳の先まで熱くなっているのを感じながらも、二人を真っ直ぐに見つめ返した。
「……そうよ。好きよ、文句ある?」
強がった声ではなく、はっきりとしたトーンで言い切る。
「だらしなくて、ヘタレで、すぐに痛い痛いって逃げ回る男だけど……いざって時は、誰よりも頼りになるんだから。あいつの隣は、私だけの特等席なの」
言ってから、私はもう一つだけ、胸につかえていた本音を吐き出した。
「それに……さっき入り口で、あいつが美羽さんのこと『オアシス』だなんて言うから、ちょっと……ううん、かなりイライラしてた。私だけがあいつの一番近くにいるって思ってたのに」
堂々とノロケてやった。
恥ずかしさで爆発しそうだったが、口に出してみると、なんだか少しだけスッキリした。
「わぁっ……! 素敵です……! 応援します!」
美羽さんは両手を頬に当てて、目をキラキラと輝かせている。
「……ん、……がんばれ」
しぐれさんも、小さくこくりと頷き、また一つマカロンを口に運んだ。
女だけの秘密の部屋で、私は自分の気持ちに、また一つ素直になることができた。
*
同時刻。
梁山泊の母屋の奥にある、白浜兼一の私室。
四畳半の畳敷きの部屋には、強烈なミントの匂いが充満していた。
部屋の真ん中にうつ伏せに転がっている兼一の背中には、まるでモザイクアートのように、数え切れないほどの湿布がペタペタと貼られている。
「いっ、たたた……! や、八雲先輩、そこ、もうちょい右です……」
「右って、兼一君、もう貼るスペースないぞ。背中、青あざだらけじゃないか」
俺はため息をつきながら、袋から新しい湿布を取り出し、兼一の腰のあたりに空いていたわずかな隙間にピシャリと貼り付けた。
「ひやぁっ! 冷たい!」
兼一がビクッと体を跳ねさせる。
俺は指先から伝わってくる、兼一の筋肉の疲労と炎症の熱を感じながら、静かに息を吐いた。
これほどのダメージ。ただの高校生が日常的に負っていいレベルじゃない。
かつて自分がこの道場で過ごした地獄の日々が、嫌でもフラッシュバックしてくる。
「八雲先輩は……」
うつ伏せのまま、兼一がぽつりと口を開いた。
「どうして、この梁山泊に来たんですか? 先輩ほどの力があれば、修行なんてしなくても十分強かったんじゃないですか」
湿布の匂いに混じって、純粋な疑問が投げかけられる。
その問いに、俺は少しだけ目を伏せた。
神様からの転生特典として『オーラ』を操る異常な力を手に入れたはいいものの、中身は前世も今世もただの平和ボケした一般人。荒事を切り抜けるための実戦技術なんて何一つ持っていなかったのだ。
莫大なエネルギーを持て余した素人。そのアンバランスさがいつか命取りになると悟り、俺は藁にもすがる思いでこの達人たちの巣窟へと足を踏み入れた。
師匠たちも、俺のそのちぐはぐで危うい状態を一目で見抜き、力の制御を叩き込むために弟子入りを認めてくれたのだろう。
だが結局、俺はあの理不尽極まりない特訓に耐えきれず、半ば逃げるようにして下山したのだ。トラウマを植え付けられた恐怖もあるが、途中で投げ出した身として、恩ある師匠たちに対して少なからず引け目──強烈な後ろめたさを感じ続けていた。
「……力を求めて、かなぁ」
俺はあぐらをかき直し、曖昧に笑ってごまかした。
「でも、強くなるための代償があんなに辛いなんて、誰も教えてくれなかったからな」
俺が自嘲気味に笑うと、兼一は深くうなだれた。
「僕なんて、強くなりたいって思っても、毎日逃げ出すことばかり考えてて……情けないです。今日もアパチャイ師匠の蹴りで、本気で三途の川が見えましたし……」
泣き言を漏らす後輩の背中を、俺は優しく、だが少しだけ力を込めてポンと叩いた。
「いっ!」
「何言ってんだよ」
俺は兼一の目を真っ直ぐに見下ろした。
「毎日『逃げたい』『死ぬ』って泣き言を言いながらも、兼一君は逃げ出さずにここに踏みとどまってるんだろ?」
「え……?」
「俺は耐えきれずに、途中で荷物をまとめて逃げ出した男だ。あの修行の毎日に、心が折れたんだよ。……だから、毎日死にかけながらも師匠たちに食らいついてる兼一君は、俺から見たらとんでもなく凄いヤツだよ。自信持て」
俺の言葉に、兼一は目を丸くして、それからジワッと瞳を潤ませた。
「八雲先輩……!」
感極まったように声を詰まらせる兼一。
先輩風を吹かせるのは性に合わないが、こいつのこういう素直で真っ直ぐなところは、素直に尊敬できる。
雰囲気が和み、少しだけ部屋の空気が温かくなった。
兼一が上半身をゆっくりと起こし、自分の絆創膏だらけの手のひらをじっと見つめる。
「僕も……逃げずに頑張ります」
その声には、先ほどまでの情けない響きは消え、確かな芯が通っていた。
「八雲先輩みたいに……僕もいつか、大切な人を守れるようになりたいから」
真っ直ぐな決意。
俺は小さく息を吐き出し、手元にあった枕を掴んで、兼一の顔面に軽く投げつけた。
「ブフォッ!」
「生意気言うな。さっさと寝ちゃえ」
湿布の匂いと、静かな夜風。
梁山泊の夜は、あの地獄のような昼間の組手が嘘のように、平和で、温かく、そして少しだけこそばゆい空気を残しながら更けていった。