念能力者が行く多重クロス世界 作:匿名のななし
チュン、チュン、と。
清々しい小鳥のさえずりが、澄み切った朝の空気に響いている。
都心の喧騒から遠く離れた山奥の朝は、肺の中が浄化されるような冷たくて美味しい空気に満ちていた。
普通なら、温かい布団の中で二度寝を決め込みたくなるような、最高に平和なシチュエーションだ。
「ひぎぃぃぃぃぃっ!! む、無理ですぅぅ! もう足の感覚がないですぅぅぅ!!」
「アパパ! ケンイチ、足が止まってるよー! 朝ごはんはまだまだ先だよー!」
ズドォォン!!
ズザザザザザッ! という、重い金属の鎖が砂利を削り取る不快な音が庭から響いている。
俺は渋々体を起こし、軋む肩を回しながら縁側のほうへと歩いた。
障子を少しだけ開けて外を覗き込むと、そこには霜が降りた冷たい庭を、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら走る白浜兼一君の姿があった。
その背中には、昨日よりもさらに一回り大きくなったような巨大なトラックのタイヤが、太いロープで縛り付けられている。
いや、よく見るとタイヤの上に、漬物石のような岩まで乗っているじゃないか。
「……兼一君、よく生きてるな」
俺は半分本気で感心しながら、吐く息の白さに身を震わせた。
早朝の冷気は、刃物のように鋭く肌を刺してくる。だが、その冷たさ以上に、この梁山泊という敷地内に充満している『気』の密度が、常人なら息苦しさを覚えるほどの重圧を生み出していた。
ふと視線を横にずらすと、庭の片隅にある吹き抜けの板張り道場に、二つの人影があった。
一人は、淡いオレンジ色の動きやすいジャージに身を包んだ風林寺美羽ちゃん。
もう一人は、俺の相棒であり、俺の胃袋を完全に掌握している中野二乃だ。二乃も部屋着用のスウェットに着替えており、長いピンク色の髪をポニーテールに結び上げている。
「……何やってんだ、あいつら」
俺は寒さを誤魔化すように腕を擦りながら、道場の方へと歩み寄った。
道場の隅にある太い柱に背中を預け、二人のやり取りに耳を傾ける。
「二乃さん、八雲さんみたいな危ないお仕事を手伝っているなら、少しでも自衛の手段を知っておいた方がいいと思うんです」
美羽ちゃんが、その美少女っぷりからは想像もつかないほど引き締まった表情で提案している。
「力のない女性でも、相手の力を利用して無力化できる『合気』の手解きをしますね」
「ええ、お願いするわ。あいつ、いざという時は頼りになるけど、基本ヘタレだから自分の身くらい自分で守れないと不安だしね」
二乃は強気に笑いながら、コクリと頷いた。
おい、聞こえてるぞ。ヘタレで悪かったな。
素人の二乃に怪我をさせるようなヘマはしないだろうが……。
俺は胸の内で呟きながら、目を細めた。
思えば、3年前に揉め事処理屋を開業したばかりの俺に助けられ、事務所に居候するようになった二乃は、ある日突然「私もそれができるようになりたい」と言い出した。
俺がチンピラを追い払った、あの得体の知れない力に興味を持ったのだ。
そして、紆余曲折を経て『オーラ』が扱えるようになった二乃。
そんな彼女が今、達人から直々に護身術を教わろうとしている。
「それじゃあ二乃さん、まずは力の流し方の型からやってみましょうか」
美羽ちゃんがゆっくりと動きの手本を見せる。
二乃も見よう見まねで、何度かその動作を繰り返して手首の返し方を確認していた。
「……こんな感じかしら?」
「はい、筋がいいですね二乃さん! じゃあ、今度は実際に私に向かって打ち込んでみてください。いつものように……そうですね、八雲さんをドツク時みたいな感じで、思い切り!」
「わかったわ。いくわよ」
二乃がスッと右足を踏み出し、美羽ちゃんに向かって手のひらを突き出した。
その瞬間。
俺の背筋に、ゾワリと冷たいものが走った。
美羽ちゃんの立ち姿には、一切の無駄も、予備動作も存在しなかった。
完全な脱力状態でありながら、どこから攻撃されても完璧に対処できる洗練され尽くした達人の構え。素人の二乃には、ただ「無防備に立っている」ようにしか見えないはずだ。
だが、二乃の体は違った。
俺がこの数年間、あの混沌とした街で彼女に刷り込んできた『脅威に対する防衛本能』が、理屈ではなく無意識に弾けさせたのだ。
「っ!」
打ち込む瞬間、二乃の小さな唇から鋭い呼気が漏れた。
彼女の全身から、陽炎のような揺らめきがブワッと噴き出す。むき出しのオーラの奔流。
ボフッ!
鈍い音とともに、美羽ちゃんの体がタタタッ、と数歩後ろに弾かれた。
道場が、水を打ったように静まり返った。
美羽ちゃんは自分の両手を見つめ、驚愕に目を見開いている。
「えっ……!? 今、手が弾かれ……っ」
二乃の素人同然の一撃に対する反応は、美羽ちゃんだけにとどまらなかった。
縁側で、のんびりと茶をすすっていたはずの師匠たちの空気が、一瞬にして変貌したのだ。
先ほどまでの長閑な空気は完全に消え失せ、針の筵に放り込まれたかのような、ヒリヒリとした濃密な闘気が道場に向かって一斉に指向される。
眠っていた猛獣たちが、未知の獲物の匂いを嗅ぎつけて一斉にカッ! と目を見開いたかのような感覚。
俺の額から、冷たい汗がツーッと流れ落ちた。
「ほう……これは驚いたな」
静寂を破ったのは、秋雨先生の静かな声だった。
縁側に座ったまま湯呑みを置き、その哲学的な細い目を鋭く見開いて、二乃を、そして俺を射抜くように見つめている。
「てめえ八雲……」
その隣で、逆鬼至緒先生が首の骨をゴキッと鳴らしながら立ち上がる。
顔には獰猛な笑みが浮かんでいたが、その目の奥には明らかな警戒と探求の光が宿っていた。
「そのお嬢ちゃんに何を仕込みやがった? 今の、普通の『気』の練り方じゃねえぞ」
逆鬼先生の言葉に、俺は引きつった愛想笑いを顔に貼り付けるしかなかった。
やってくれたな、二乃ちゃん。
よりによって、この達人たちの目の前で『オーラ』を顕現させてしまうとは。これでただの「一般人のお嬢さん」という言い訳は完全に通用しなくなった。
「あ、あれ……? 美羽さん、ごめんなさい、私、何か変なことしたかしら?」
当の二乃本人は、自分のしでかしたことの重大さに全く気づいていない様子で、不思議そうに腕を下ろしていた。
「アパパーッ!! ヤクモ! ヤクモもこっち来て一緒に走るー!!」
張り詰めた空気をぶち壊すように、アパチャイの無邪気な声が庭の奥から響いてきた。
「えっ、俺!? いや、俺は別にいいだろ! 筋肉痛だし!」
「ダメー! ケンイチだけじゃつまらない! ヤクモもタイヤ引っ張るー!!」
ドスドスドスッ! と地響きを立ててアパチャイが迫ってくる。
俺は逃げる間もなく、その巨大な腕に首根っこを掴まれ、そのまま庭の砂利道へと引きずられていった。
「うわぁぁぁぁっ! 二乃、助けてくれぇぇぇっ!」
*
朝の冷たい空気に、あいつの情けない叫び声が虚しく吸い込まれていく。
私は呆れながら、砂煙を上げて連行されていく八雲の背中を見送った。
「もう、相変わらず騒々しいんだから……」
「いやはや、驚いたねぇ」
背後から声をかけられ、私は振り返った。
縁側のほうから、馬さんが、ニヤニヤとしたいつもの笑みで私を見つめていた。
その横には、秋雨さんや逆鬼さんたちも揃って、何かを探るような目で私を観察している。
「お嬢ちゃん、さっきのあの不思議な気配……八雲くんに教わったのかい?」
「ええ、まあ。護身術代わりに少しだけ」
私は縁側に進み出ながら、素直に頷いた。美羽さんに手首を弾かれた感触はあったけれど、達人たちの前で隠し立てしても無駄だろう。
「なるほどね」
秋雨先生が、顎に手を当てて納得したように頷く。
「我々の使う『気』とは似て非なる、特異な力だ。八雲くんのそばで命の危険を潜り抜けるうちに、お嬢ちゃんもあの力の扱いを体に染み込ませたのだろうね」
「へえ、大した適応力じゃねえか。さすがはあいつの相棒だな」
逆鬼さんが面白そうに笑って、私に温かいほうじ茶を差し出してくれた。
湯呑みを受け取りながら、私はちゃぶ台を囲む達人たちをぐるりと見渡した。
ここには、八雲の過去を知る人たちがいる。ずっと気になっていたことを聞くには、あいつがいない今が絶好のチャンスだ。
「あの、お師匠様方。前々から気になっていたんですけど、一つ聞いてもいいですか?」
私は少し身を乗り出し、声を潜めて尋ねた。
「あいつ……八雲って、昔ここで修行してた時はどんな感じだったんですか? 辛いから逃げ出したって本人は言ってましたけど」
私の問いかけに、師匠たちは顔を見合わせ、やがてドッと笑い声を上げた。
「逃げ出した、か。まあ、確かにその通りじゃな!」
上座に座る長老さんが、豪快に白い髭を揺らす。
「あやつはとにかく痛いことや苦しいことが大嫌いでな! 少しでも気を抜けば、すぐにズルをしてサボろうとするような不真面目な弟子じゃったわい!」
「ああ。どうすれば自分が傷つかずに済むかばっかり考えてやがったな」
逆鬼さんもおかしそうに笑う。
やっぱり。ヘタレで、痛がりで、サボり魔。私の知っている八雲と少しも変わっていない。
「ふふっ、サボり魔だったのはよく分かりました。でも……」
私は湯呑みを両手で包み込みながら、核心を突く質問を投げかけた。
「そんなあいつの『本当の実力』って、達人のあなたたちから見てどうなんですか?」
「ふむ……八雲の実力、か。そうさね」
秋雨さんは顎に手を当て、解剖学者が標本を観察するようなトーンで語り出した。
「ケンイチ君のように、不器用ながらも泥臭く技を突き詰める執念は、彼には薄い。技のキレや武術の型そのものは、我々から見れば正直に言って『普通並み』だね。基礎から先の武の理には、彼は自ら足を踏み入れなかったから」
逆鬼先生がニヤリと笑う。
「あの短期間で俺たちの地獄のメニューに耐え抜いただけの基礎体力は本物だ。まあ、俺たちの足元くらいには届いてるぜ。そこらの半グレが何十人束になろうが、あくびしながら制圧できるくらいにはな」
達人の足元。
この超人たちの基準で言えば、それはかなりの高評価だ。
「だけどね、お嬢ちゃん」
馬さんが人民帽の鍔をクイッと持ち上げ、ニヤニヤとした笑みを消して私を見た。
「武術の腕はともかくとしてだ。八雲くんや、お嬢ちゃんが今朝見せたあの得体の知れない『気』……あれだけは、ちょっとばかり厄介な代物ね」
「厄介……?」
私が小さく息を呑むと、秋雨さんが言葉を引き継いだ。
「そうだ。我々の使う『気』とは似て非なる、ひたすらに圧倒的な暴力。達人の目から見ても、あれは完全に異質の代物だ。あの理不尽なまでの強度……正面からぶつかれば、我々も骨が折れるだろうね」
静かな声が、縁側に響き渡る。
彼らはたった数度の手合わせと観察だけで、あの異能の厄介さを正確に測り切っていた。
「……じゃあ」
私は、湯呑みを握る手にギュッと力を込め、真っ直ぐに師匠たちを見据えた。
「もし……もしあいつが本気であなたたちと戦ったら、どっちが勝つんですか?」
空気が、一瞬で凍りついた。
鳥肌が立つほどの、ピリピリとした静寂。私自身、なんて恐ろしい質問をしてしまったのだろうと、背中に冷たい汗が伝う。
だが、師匠たちは顔を見合わせ、やがて中心に座る長老さんが、腹の底から響くような豪快な笑い声を上げた。
「ワハハハハッ!!」
その笑い声だけで、庭の木々の葉がザワザワと音を立てる。
「さて、どうかのう! 実際にやってみねば分からんわい!」
長老は白い髭を揺らしながら、底抜けに明るく、しかしその奥に絶対的な強者の凄みを滲ませて言い放った。
「フッ……戦いとは、単純な力の足し算ではないからね。時の運や相性、様々な要素が絡み合う」
秋雨さんもまた、微笑を浮かべながら煙に巻くように答えた。
「まあ、俺たちもおいそれと負ける気はねえけどな」
逆鬼さんが好戦的な笑みを見せる。
達人としての、底知れない余裕。
彼らは「俺たちが勝つ」とも「八雲が強い」とも明言しなかった。だが、その態度そのものが、彼らの途方もない格の高さを示していた。
私はただ圧倒され、小さく息を吐き出すことしかできなかった。
*
太陽が高く昇り、庭の霜もすっかり溶けた頃。
俺は全身泥だらけのボロ雑巾のような状態になりながら、ようやく解放されて縁側へと這い上がった。
「はぁ……はぁ……死ぬ。マジで、内臓が口から飛び出るかと思った……」
大の字になって畳に倒れ込む俺の横で、兼一君はすでに白目を剥いて完全に事切れていた。
「ほら、お茶。冷めないうちに飲みなさいよ。情けない顔しちゃって」
上から温かい湯呑みが差し出される。見上げると、二乃が呆れたような、でも少しだけ機嫌の良さそうな顔で俺を見下ろしていた。
「……サンキュー。五臓六腑に染み渡るぜ」
身を起こし、ほうじ茶をすする。冷え切った体に温かさが戻ってくる。
ふと見ると、二乃が妙に満足げな顔をして俺を見下ろしているし、ちゃぶ台を囲む師匠たちも、なんだかニヤニヤと面白そうな視線をこちらに向けていた。
……俺がいない間に、絶対何か俺の話をしてたな、こいつら。
深く追及すると碌なことにならなそうなので、俺は気づかないふりをして残りの茶を一気に飲み干した。
帰り支度を済ませ、梁山泊の巨大な正門前。
俺たちを見送るために、全員が集まってくれていた。
「二乃さん、美味しいお料理と手土産、本当にありがとうございました! またいつでも遊びに来てくださいね!」
美羽ちゃんが満面の笑みで手を振ってくれる。
「ええ、こちらこそ。今度は美羽さんも、うちに遊びにいらっしゃい」
二乃もすっかり打ち解けた様子で微笑み返している。
「八雲先輩……!」
全身を包帯と湿布でぐるぐる巻きにされた兼一君が、涙目で俺の前に進み出てきた。
「次回はぜひ、僕にもこの地獄で生き残るための、具体的な逃げ方のコツを教えてください!」
「もう二度と来るか! 兼一君はそのまま、武術への道を泥臭く突っ走れ!」
俺が即答すると、兼一は「そんなぁぁっ!」とその場に崩れ落ちた。
「ワハハハ! いつでも歓迎するぞい、八雲よ!」
長老が豪快に笑い、俺の背中をバンバンと叩く。
「人を守る心を忘れず、その力を使っているようでワシも安心したわい」
「……ええ。俺なりに、平穏を守るために使ってますよ」
俺が苦笑いしながら一礼し、背を向けて門を出ようとした、その瞬間だった。
「八雲くん……一つだけ、心に留めておきたまえ」
秋雨先生の声が、一段と低く、シリアスなトーンに変わった。
俺は足を止め、振り返った。秋雨先生の細い目が、いつになく厳しい光を帯びている。
「最近、この裏の世界で、外道どもが不穏な動きを加速させている」
「人を平然と殺める、殺人拳を使う者たちじゃ」
長老も、威厳に満ちた重々しい声で続ける。
「お主ほどの力を持った者が裏社会で目立った動きをすれば、いずれそういった闇に潜む連中に目をつけられんとも限らんぞい」
「この国の裏側に潜む狂気には、くれぐれも警戒を怠るなよ、八雲」
逆鬼先生もまた、真剣な顔で忠告してくれた。
ただの半グレやヤクザとは次元が違う、純粋な殺人を目的とした達人たちの世界。
背中を冷や汗が伝うのを感じながら、俺はそれでも、いつものシニカルな笑みを口元に浮かべてみせた。
「へいへい……ありがたい忠告、肝に銘じておきますよ。面倒な連中には関わりたくないんだけどねぇ……」
俺が肩をすくめてみせると、師匠たちはフッと表情を和らげた。
「ちょっと八雲、早くしないとバスが行っちゃうわよ! 置いてくわよ!」
門の外から、前を歩く二乃の声が響いてきた。
「ああ、今行く!」
俺は師匠たちにもう一度短く頭を下げ、二乃の後を追って石段を駆け下りた。
不穏な影の予感を胸の奥に押し込めながら、俺たちは再び、騒がしくも愛おしい日常へと歩き出した。