笠松に戻ってきたマーチとフラワーは、今日もトレーニングを続けていた。
いや――これは、トレーニングというよりリハビリと呼ぶべきなのかもしれない。
走る。
フォームが崩れる。
立ち止まる。
原因を探す。
そして、もう一度走る。
それを何度も繰り返す。
かつて二人は、スキルという名のカードを何枚も何枚も積み重ねることで才能の差を埋めた。
まるでトランプタワーのように。
一枚。
また一枚。
慎重に、絶妙なバランスで。
そうして積み上げたスキルは、二人に本来なら届かなかった領域の走りを与えてくれた。
だが――
その代償として、二人の走りは極端に脆くなった。
ほんの少しの刺激。
ほんの少しのズレ。
たった一つの歯車の狂い。
それだけで、積み上げてきたものが全て崩れてしまう。
有馬記念で限界を超えて走ったことで、そのトランプタワーは完全に崩壊してしまった。
だから今、二人はもう一度ゼロから積み上げている。
一つ一つの動作を身体に覚え込ませる。
自分の身体が、どう動けば最も効率よく走れるのか。
それを一から探していく。
気の遠くなるような作業だった。
焦ってはいけない。
急げば、また崩れる。
だから、地道に。
少しずつ。
今日できることを、明日も繰り返す。
そんな忍耐と集中力を必要とするリハビリだった。
それでも――
二人の顔に、諦めの色はなかった。
走れる。
必ず、またレース場に戻ってみせる。
その強い意志だけは、決して揺らいでいなかった。
「今日のメニューはこれで終わり」
市川が時計を見る。
「二人とも、よく頑張ったな」
「はい!」
「まだまだこれからだ」
マーチが汗を拭いながら答える。
「そうだな」
市川は二人を見て微笑む。
「さあ、戻って食事にしよう」
「はい!」
――そして。
二人には、新たな仲間も増えていた。
ブリッジコンプだ。
有馬記念の後。
彼女は、もう一度市川に尋ねた。
自分は、本当にモブだったのか、と。
今度は答えを聞くまで帰らない。
そう言って、真正面から市川に向き合った。
そして、市川の口から語られた言葉を聞いた。
自分がどう見られていたのか。
なぜ、あんな育成をされたのか。
そして――
市川自身が何を考えていたのか。
全てを知ったブリッジコンプは、しばらく黙っていた。
それから、一言。
「……私も、行きます」
そう言って、笠松までついてきた。
マーチとフラワーのリハビリにも参加している。
「私だって、普通に走れるくらいにはなりたいからね」
本人は、そう言って笑っている。
確かに、ブリッジコンプ自身も走りを取り戻す必要がある。
だが――
「ここ、昨日のデータと比較すると……」
「うん。そこはまだ無理に直さなくていい」
「でも、この数値ならこっちの動きを――」
「ああ、それなら――」
気がつけば、夜遅くまで市川と二人でトレーニングデータを確認している。
翌日のメニューを組み。
記録を整理し。
市川が見落とした部分を指摘する。
もはや助手と言ってもいい立ち位置になっていた。
もちろん、本人は認めない。
「別に、二人のためじゃないからね」
そう言いながら、誰よりも熱心に二人のことを考えている。
そんなブリッジコンプを見ながら、フラワーは少しだけ頬を膨らませた。
(私たちのことを思ってくれているのは分かるけど……)
市川の隣に座るブリッジコンプ。
顔を寄せて、一緒に資料を覗き込んでいる。
(トレーナーさんとの距離が、近すぎませんか……?)
「……フラワー?」
「えっ!?」
「どうした?
さっきからこっち見てるけど」
「な、なんでもありません!」
「そうか?」
「はい!」
慌てて目を逸らすフラワー。
その隣では、マーチが二人を見ていた。
「……フラワー」
「なんですか、マーチさん」
「気にするな」
「何をですか?」
「何でもない」
「……?」
マーチは小さく笑った。
どうやら、フラワーだけが気付いていないらしい。
そして――
「市川トレーナー」
ブリッジコンプが、真剣な顔で資料を指差す。
「明日のメニューなんですけど、ここをもう少し――」
「ああ、それは俺も気になってた」
「ですよね!」
二人の会話は、まだまだ続きそうだった。
フラワーはそんな二人を見つめながら、小さくため息を吐く。
(……まあ、いいです)
今は。
自分たちが再び走るために、力を貸してくれている仲間なのだから。
それに――
(私だって、負けていられません)
いつかまた、レース場で。
オグリと。
そして、マーチと。
胸を張って走るために。
フラワーは、もう一度トレーニングシューズの紐を結び直した。
夕食を終えた後
寮へ戻ろうとする二人だったが、マーチがふと足を止めた。
「フラワー」
「はい?」
「少し、話さないか?」
「……いいですよ」
二人は人の少ない公園のベンチに腰を下ろした。
しばらく、夜空に浮かぶ月を眺める。
やがて、マーチが口を開いた。
「私はな、お前やオグリが羨ましかった」
「……私が?」
「ああ」
マーチは苦笑した。
「入学した頃、私は周りから褒められた。
幼い頃から努力して、身体をバランス良く鍛えてきた。
フォームも綺麗だ。
完成度が高いってな」
「実際、すごかったですよ」
「そう言ってくれるのは嬉しい。
けど……何のことはない」
マーチは自分の手を見つめる。
「私は、そうするしかなかっただけなんだ」
「……え?」
「お前たちみたいな、強烈な武器が何もなかったからな」
フラワーは黙ってマーチを見る。
「オグリには、圧倒的な脚力があった。
お前には、最後方から一気に他を抜き去る末脚がある」
「……」
「私は違う。
これだけは誰にも負けない、というものがなかった」
だから、全部を鍛えた。
速く走るために必要なものを、一つずつ。
スタミナも。
パワーも。
スピードも。
コーナリングも。
フォームも。
何もかも。
「だから私は、何でも出来るようにした。
器用貧乏ってやつだ」
「……マーチさん」
マーチが少しだけ笑う。
「だから、お前が羨ましかったよ」
「私が?」
「ああ」
今度はフラワーが苦笑する。
「私も……マーチさんが羨ましかったですよ」
「……そうなのか?」
「はい」
フラワーは自分の胸元を見つめた。
「私は不器用ですから」
「そんなことは――」
「ありますよ」
フラワーが笑う。
「物覚えだって良くありません。
トレーナーさんに何度も同じことを教えてもらいました」
「……」
「それなのに、マーチさんは後から訓練に参加したのに、私よりたくさんのスキルを覚えたじゃないですか」
「それは……」
「すごいと思ってました」
マーチは少し照れたように顔を逸らす。
「だが、それは私が器用だからというだけだろう」
「そうかもしれません」
フラワーも笑う。
「でも、その器用さがマーチさんの武器だったんですよ」
「……武器?」
「はい」
フラワーは、これまでのレースを思い出す。
「マーチさんは、いろんなスキルを使えたからこそ、いろんな走り方ができた」
「……」
「タマモクロスさんにもなれた」
マーチが目を見開く。
「オグリさんにもなれた」
「……ああ」
「私には、出来ないことです」
フラワーは笑った。
「だから、私もマーチさんが羨ましかったんですよ」
「……そうか」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
やがてマーチが小さく笑う。
「おかしな話だな」
「はい」
「私はお前が羨ましかった」
「私もマーチさんが羨ましかった」
「自分にないものを持っている相手を見て、羨ましがっていたわけか」
「隣の芝生は青い、ってやつですね」
「そのようだな」
二人は顔を見合わせる。
そして――同時に笑った。
「でも」
マーチが立ち上がる。
「今は、少しだけ分かる気がする」
「何がですか?」
「自分が持っているものの価値だ」
マーチは拳を握る。
「私は、何かに秀でているわけじゃない。
だから、何でも出来るようになるために努力してきた」
「はい」
「だったら、それを武器にすれば良かったんだな」
フラワーも立ち上がった。
「私も、自分の武器をもっと磨きます」
「そうだな」
二人は並んで歩き出す。
まだ完全には走れない。
以前のような力もない。
けれど――
失ったものばかりではない。
今まで積み重ねてきたもの。
互いに羨ましいと思っていたもの。
それらが、今は確かな自信になっている。
「マーチさん」
「なんだ?」
「次にオグリさんと走る時は……」
「ああ」
二人は顔を見合わせる。
「今度こそ勝とう」
「はい!」
笠松の夜空に、二人の声が響いた。
これにて完結になります。
インスピレーションが沸いて一気に書き上げてしまいました。