次回以降は福永招平視点(1話のみ研磨)で進みます。
「っ...し、...お、り。こ、れ...。」
真っ青な晴天の夏空から与えられた、ギラつく太陽光。
それとは正反対の静寂に包まれた、無機質な真っ白い空間に差し込む。
そんな中、いつものように私の目の前に現れた、半袖のYシャツを着た背の高い人影。
「ん...ありがと、お兄ちゃん。」
お兄ちゃんが手渡してくれた百均の袋。
中には、「買ってきて」とお願いしていた画材と、何故か追加してくれた杏仁豆腐...私の大好物。
…普通の白いのじゃなくて、敢えてマンゴー味を選んだのだろうか。
そこだけが残念だな。
でもそんなわがままは言えなくて、一旦ベッドサイドの小さなテーブルに置く。
「んぐっ...具合、...ど...?」
男子高校生にしては柔和な顔が、私の凪いだ目を覗き込んだ。
...まるで、喉に詰まった何かを無理やり押し込むような、曇った声と共に。
猫みたいな大きな目が見開かれるも、そこに感情は一切見えない。
「...今日は、良い。...いただきます。」
私の返事に少し安心したのか、お兄ちゃんはグッドサインを見せてくる。
そしてまた表情を一切変えずに、窓の外の澄み切った青を見つめている。
私はその横顔を見て、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
それを無視するように、袋の中をなんとなくいじる。
本当はあのノートに絵でも描きたかったけど、恥ずかしいからお兄ちゃんには見られたくない。
仕方なく、今の私の相手は杏仁豆腐にした。
...あと何回、お兄ちゃんが買ってきた杏仁豆腐、食べられるのかな。
私は福永紫織、中学1年生...のはずだった。
毎日着るはずだったセーラー服は、今は...押し入れの奥で眠っている。
そして今はただの、入院患者。
拡張性心筋症。
余命半年。
心臓移植しない限り、根治はほぼ不可能。
ドナーを見つけるのは、極めて難しい。
ちょっと息切れがひどいなと感じて病院に行っただけの私を待っていたのは、こんな小説みたいな現実。
両親の顔はみるみる絶望の黒に染まっていき、お医者さんに色々言っていた。
でも私の心はスッと白く染まっていって...何も記憶したり感じたりする余裕もないまま、病室に運ばれた。
中学1年生の6月某日...最後に制服を着たのは、教室じゃなくて診察室になった。
ちょうど初めての衣替えが終わった頃だった。
まだ…友だちと夏服の写真撮ってないのに。
9月の運動会ではチアガールの衣裳着て応援合戦やろうねって決めてたのに。
音駒中女子バレー部のユニフォーム、まだ着てないのに。
もう私は、思い描いていた普通の中学生にはなれない。
初めて絶望が襲い、身体中の水分が尽きるほど涙を流したその日。
真っ赤になった私の目を真っ先に捉えたのは、1人でお見舞いに来たお兄ちゃん。
何でこのタイミングで来るのよ、ムカつく。
でも彼は私の小さな怒りを微塵も察すことはなかった。
いつものポーカーフェイスで私の隣、背もたれのない丸椅子にそっと腰を下ろした。
お兄ちゃん...招平は、音駒高校のバレー部にいる...一応。
その日から、彼の本拠地はバレー部じゃなくて、私の病室に変わってしまったみたいだ。
平日の夕方は本来、体育館で汗を流しながらボールを追いかけている時間のはずなのに。
なんで、こんな静かな病室の、冷たい空気の中で彫刻と化しているのか。
特に今年、2年生になってからはフルで試合出してもらえるはずだったのに。
今は、病院の面会可能時間と被らない午前に部活がある時...つまり、土日しか部活に行っていない。
…バカじゃないの。
私が失った青春を味わえる権利を持っているくせに、お兄ちゃんはそれを私の目の前でドブに捨てている。
ふと襲ってきた兄への嫉妬心。
それを抑え込むように、私は空になった杏仁豆腐の容器を見つめながら静かに言った。
「お兄ちゃん...部活、行かないの?」
聞きたいことは山ほどある。
でも、お兄ちゃんに投げる質問は大体「はい」か「いいえ」で答えられるもの。
「っん...う...っ...るさい、とこ...好きじゃ、ない...し、勉強...大事っ...」
またまた、何かを押し込むような、苦しげな声。
「喋る」...フツーの人には当たり前のことが、お兄ちゃんにとっては喉を苦しめられる苦行なのだ。
だから、お兄ちゃんが来てもわざわざ話さない。
こうして出来上がった、人の声が消えた無の空間。
この方が、無理に声を発して反応する必要に迫られなくて、お兄ちゃんも楽だと思うから。
...前は、お兄ちゃんと2人きりは居心地悪かったけれど。
でも今は...長く喋ったり笑ったりすると、肺が少し圧迫されてちょっと苦しくなるから。
この「無だけど独りじゃない」空間は、一切何も求められない安心感を与えてくれる。
そう、感じるようになってしまった。
外がいつの間にか暗くなっている。
もうそろそろ、面会終了だ。
お兄ちゃんは参考書を閉じると、どこか遠い世界を見るような目を、外の暗闇に向けた。
...お兄ちゃんは、時々こんな目をする。
まるで、私とは別の世界に居るみたいに。
「じゃ、...ま、た、...明日っあっ...」
そう言って背中を向けて病室を去っていく。
今日もいつも通り、ラリーの少ない会話を幾つかして終わった。
お兄ちゃんの目が、一体どこを見ているのか、私には分からない。
兄妹だけど、あの無表情の裏に何があるのかも分からない。
ふとベッド脇に置いていたスマホに通知が届く。
お兄ちゃんからだ。
「明日は何が欲しい?」って書いてある。
まだ出て行ってから1分も経ってないのに。
明日は白い杏仁豆腐買ってきてくれるかな、なんて期待しながら「そんなに毎日持ってこなくていいよ。お金ないでしょ。」と送る。
すぐにグッドサインのスタンプが送られてきて、何故か少しだけ残念な気持ちになった。
…グッドサインで全部伝わるとでも思っているのだろうか。
お兄ちゃんの中には何か、「伝えられない言葉」があるのが、なんとなく分かる。
それがもう何年分も喉に溜まって、出せずにいるのだろう。
でも今この瞬間も、私の心臓は少しずつ形を変えている。
本来の役目を少しずつ忘れて、ただ薄く広がることに必死になっているらしい。
...言葉を思うようにコントロールできないお兄ちゃんに、どんどん似ていく。
そして私には、お兄ちゃんの「言葉」を聞ける未来はやって来ない。
病室の消灯と共に、見えない黒い霧に視界を遮られるような、そんな気分になる。
でも、明日になって、またお兄ちゃんが無表情でここに現れたら。
私もまた、ただ残りの時間が過ぎるのを待つだけ。
今日と同じような日が、あと半年続く。
それなら...。
私はスマホのブルーライトを頼りに、あのノートとボールペンを取り出した。
真っ白いページに綴る、私への最後の挑戦状。
ペンが立てる乾いた音が、病室の静寂を支配する。
「7月25日
お兄ちゃんが杏仁豆腐を持ってきてくれた。
マンゴー味じゃなくて普通の白いのが良かったけど、これはこれで美味しかった。
○これからやってみたいこと
・もう一度制服を着ること
・人生最後の絵のテーマ決め
・お兄ちゃんが毎日ここに来る理由を見つけること」
最後の1行には薄紫の下線を引き、すぐ目につくようにした。
私の好きな紫色の表紙をしたこのノートは、本当は2冊目の数学のノートになるはずだったのだけど。
今は落書き帳兼日記帳…だけど、タイトルも名前も書く気はない。
これは私の残りの人生の道しるべ。
私が生きている間はひたすら私を支え、その時が来たら私と一緒に消える存在。
親やお兄ちゃんに見られるのは嫌だから、ちゃんと最期は看護師さんに頼んで捨ててもらおう。
時間がただ過ぎていくのを待つよりは、何かしらアトラクションがあった方がいい。
私に残された最後の半年間を、この小さな挑戦が少しだけでも彩ってくれたら。
この黒い霧も、きっと少しは晴れてくれるだろう。
私はそっと、ノートをしまった。
そして夜の闇の中、ベッドに沈み込む。
...横になると苦しいから、ベッドを少し起こした状態で。
(お兄ちゃんが最後に笑ったのって...いつだったかな。)
ふと浮かぶ、幼い頃の色のない想い出たち。
ごく普通の兄妹だった私たちが、いつからこんなに遠く、踏み込めない存在になってしまったのか。
何故彼は青春の象徴である放課後の体育館を捨てて、毎日死に行く者のいるここに来るのか。
お兄ちゃんの世界は、固い南京錠がかけられている。
ただの妹でしかない私に、それを1mmでも動かせる保証なんてないけれど。
「この人の背中の裏に何があるのか」
この謎解きが、私の人生最後のアトラクションだ。
誰にも見せないこのノートに、ひっそりと正解を書き込むその時まで。
私は、あと半年の暇を潰そうと思う。