紫のノート   作:ゆずみかん#HQ

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お待たせいたしました。福永招平視点です。


#2 あの日、俺の言葉は殺された

さっきまで真夏の太陽光が差し込んでいた病室が、暗闇に塗り替えられていく。

重い腰を上げて紫織に背を向け、一歩一歩歩きだす。

いつもの如く、「生き地獄」が再開する。

 

「あ、こんにちはー今日も来てたんだね。毎日本当に、妹想いのいいお兄ちゃんね。」

 

廊下を歩いていた看護師さんが、笑顔で話しかけてきた。

あ…ダメ。

咄嗟に目のやり場を探し、看護師さんの背後にある掲示物に目線を向けた。

 

『いえいえ、いつも紫織がお世話になっています。』

 

今言うべき言葉は、頭の中ですぐに完成された文章として浮かんでくるのに。

...言葉にしようと必死になればなるほど、俺の喉は締まっていく。

そして…嫌でも視界に入ってくる看護師さんの笑顔に、ついに俺は限界を迎えた。

 

俺はその笑顔が視界に入らないように、深くお辞儀をした。

言葉を置いていく前に、その場を立ち去った。

 

病院の静かな廊下を灯すような、微かな笑い声。

外の世界で響く、デート中のカップルや、子連れのお母さんに、部活終わりの中高生たちの談笑の声。

それが俺の中で歪に重なっていくほど、俺のスピードは勝手に速まる。

逃げても逃げても、俺の背中にまとわりついて消えてくれない。

 

段々息の吐き方さえも分からなくなる。

それでも止まらない足。

反射的に人気のない暗闇を求めて飛び込んだ。

自宅近くの公園。

この時間なら、もうほとんど誰も人が来ない。

やっと手に入れた、束の間の休息の場。

俺の背中を追いかけてくる恐怖に耐えられなくなるといつも、ここで荒くなった呼吸を落ち着けてから帰宅する。

 

...何してるんだろう。

早く、帰らなきゃ。

 

「あはははwお前、何言ってんだよw」

 

ふと遠くで響いた、誰かの高い笑い声が俺の鼓膜を突き刺す。

反射的に耳をふさぐ。

 

『お、福永。今なんて言った? もう一回言ってよw』

 

遠い日の教室の湿った空気が、喉の閉塞感を思い出させる。

俺を笑いものにしたあの時の声が、今もこうして、街の喧騒の中に溶け込んでいる。

俺の言葉は、とうの昔に殺されたんだ。

教室の真ん中で、クラス中の視線を浴びながら。

 

吃音っていうらしい。

物心ついた頃に発覚した、「しゃべりにくさ」の正体。

自分の意志とは裏腹に、言葉の頭が喉に引っかかり、滑らかに出てこない。

たまたま持って生まれた、単なる喉の奥の小さな故障。

誰のせいでもない。

俺の言葉は、ただ世界と少しリズムが合わないだけ…のはずだった。

 

小学校に上がってから少しずつ、このズレは致命的なものなのだと知った。

 

「なあ福永!生麦生米生卵って言ってみろよw」

「…なっめ……っぐぎっ…んぐっ」

「あ?ナメクジにしか聞こえねーよwほらもう1回w」

「いやあ、何回聞いても飽きないわw最高のエンタメをありがとなw」

「ナっ…メ…クジ!」

「うわあ似てるわwやめろよw」

 

これが、俺のクラスメートとの会話。

俺が他の人と同じように言葉を発せないことを知ったやつらが、俺をあらゆる手段で揶揄う。

大声で真似され、また笑いが起こる。

 

「じゃあ次!福永、この行読んでみろ。」

「…っわ…たしっ……は…」

「おい、ふざけてないで早く読んでくれないか。授業が止まるんだ。」

 

これが、授業でたまに起こる光景。

たまに俺の事情を知らない先生が授業をしに来ると、こんな風に急かされて怒られる。

担任の先生は…いつの間にか俺を指名しなくなった。

 

「あ、次の委員会、福永くんは無理に喋らなくていいからね。私が代わりに報告書読むから!」

「…うん。」

 

これが、俺が喋る必要に迫られたときに言われるセリフ。

この子は多分、喋るのが苦手な俺を気遣って代役を名乗り出てくれたんだ。

分かっているけど…同時にどうしようもなく、「俺はここに居てはいけない」という思いに心が締め付けられた。

 

医者は『脳の情報の伝達が、ほんの一瞬だけ迷子になっているんだ。』と言う。

でも…その一瞬の迷子を繰り返す中で、俺は学習してしまった。

 

『俺が音を出すことは許されない。』

 

音を出せば、周りに気を遣わせ、イライラさせ…笑われるから。

脳は警告を発する。

喉に言葉が届く前に、猛烈な拒絶反応が心臓を握り潰す。

だから俺は少しずつ、俺の言葉を、声を、そして「福永招平」という人間を消した。

 

ある日、俺の世界で響くありとあらゆる笑い声が、俺を恐怖に叩き落とす刃へと変わった。

それは自分に向けられたものに限らない。

テレビの中で響く笑い声や、全く関係ない通行人が発する微笑、そして俺がふと発する笑い声すらも。

とにかく、「笑い」そのものが不謹慎で、残酷で、生理的に受け付けないものになってしまった。

―これが、俺の中に起こったもう1つの故障…「笑われ恐怖症」だ。

 

喋れないだけならまだ「存在を消す」だけで済んだのに。

あらゆる「笑い」まで怖くなってから、俺の世界はどこにも逃げ場がなくなった。

 

「毎日本当に、妹想いのいいお兄ちゃんね。」

 

突如走馬灯のように駆け抜けた、小学校時代の記憶。

その中で、先ほど掛けられた看護師の言葉が、耳の中で反響する。

 

『妹想い』

 

そんなふうに言われるたび、自分の顔が醜く歪んでいく気がする。

 

…違う。

俺は、そんなふうに言ってもらえる人間じゃない。

 

「笑い」という、本来幸せの象徴になるはずのものが「恐怖の対象」へと変わったあの日から。

どんな場所だろうと、そこに「笑い」がある限りは生き地獄と化した。

家庭という、唯一落ち着けるはずだった場所さえも。

 

吃音という名の故障を抱えていても、俺を「ただの人間」として扱ってくれた両親や妹の紫織。

彼らの笑顔でさえも、恐怖の対象となってしまった。

だから俺は、家族と向き合うことから逃げ、籠もるしかなかったのだ。

 

それにも関わらず今の俺は...。

もう何年も顔すら殆ど合わせてなかった紫織の元に、なぜか今更毎日通っている。

 

ある日何となく紫織の様子が気になって、病室に来てみた。

何年かぶりにちゃんと見た紫織の顔は、目を真っ赤に腫らして、病室の白い壁に同化するみたいにそこにあった。

 

俺が知ってる紫織は、もっと普通に笑っていたはずなのに。

その笑顔が消えた顔はどうしようもなく切なくて、でも同時に俺にとっては安心材料にもなってしまった。

 

妹のそばにいたい気持ちが、ないわけじゃない。

これからも当たり前のようにそこにあると思っていた紫織の存在が急にタイムリミット付きのものになってしまった以上、できる限り一緒の時間を過ごしたいと思ってしまったのも本当だ。

 

でも…それだけじゃない。

ここは静かだし、紫織も俺に深く干渉して来ない。

喋らなくていいし、笑われないし、笑わなくていい。

俺がちゃんと向き合わなくても、紫織はそこにいる。

…都合が良すぎて吐き気がする。

 

…最低だろ?

妹を想っているから来るんじゃなくて、自分のためでもあるんだ。

死に向かっていく妹の存在が今更気になり出た。

それに今まで目を背けてきた後悔と罪悪感を、ここなら少しだけ安全に埋められる。

だから、姿を現しているだけだ。

しかも、あんなに俺を受け入れてくれているバレー部からも逃げ出して。

そして、病院の面会が許可されていない午前中に部活があるとき、つまり土日だけコートに立つ。

その僅かな練習で、平日部活をサボっている罪悪感をごまかそうとしている。

チームメイトにこれ以上ないくらい失礼で、合わせる顔がない。

 

バレーは、中学から始めた。

理由はそんな大層なものではない。

部活が強制だったのと、小学校の体育の時間に人より少しだけ上手くできて、その時だけは賞賛してもらえたから。

そして、バレーをしている間に褒められると「俺も存在していいんだ」と、少しだけ思えた。

だから高校でも何となく続けた。

 

でも…

高1の頃は、まだ隅に居られたからよかった。

人と距離を取れるし、あの眩しい熱量を真正面から浴びなくて済む。

でも…高2に上がると、そうもいかなくなった。

時間が経ちチームの結束力が上がり、その上レギュラーとして試合に出られるようになった。

喜ぶべきことなのは分かっている。

でも、同時に喜びの共有や笑顔や熱い掛け声を求められ、そして青春の熱気の中心に置かれる。

でも俺は、試合に勝っても笑えないし、皆と一緒に喜べない。

俺はこの場に、いつしか耐えられなくなった。

 

「お前、勝ったのに嬉しくないの?…変なやつだな。」

 

中学の時、チームメイトにそう言われた。

『違う、嬉しいに決まっている。でも…俺は「笑われ恐怖症」だから、笑い自体が怖いだけなんだ。』

 

そう言えるはずもなく、ただ首を振る。

言葉は、最低限しか発さない。

中学以降、俺が抱えた2つのバグはひたすら隠し通し、1人で青春の輪からそっと距離を置いた。

それは高校になってからも、変わらなかった。

 

喋れない。

笑えない。

 

この事実が、自宅の1人きりの自室でさえも俺を追い詰める。

今日も、廊下で山本が話しかけてくれたのに。

黒尾さんが「福永、最近なんで部活来ないんだ?なんかあるなら言えよ?」って心配してくれたのに。

 

こんな俺を大事にしてくれる存在がいて、俺は幸せだ。

なのに、俺は逃げた。

2度とやってこない高2の青春から。

 

こんなふうにチームの空気を悪くすることしかできないのなら、きっぱり辞めればいいのに。

それでも俺は、失うのが怖くてバレーを手放せない。

 

こんな中途半端な逃げ方しか出来ないただの臆病者が、どのツラ下げて死に向かう妹の時間を奪いに行っているんだ。

 

…「いいお兄ちゃん」?

ふざけるな。

喉の奥で、言えない言葉がまた一つ、鉛のように沈んでいく。

 

ああ、誰か俺を笑ってくれ。

「そんな理由でここにいるのか」と、誰か俺を指差して笑い飛ばしてくれたら、少しは楽になれるのに。

 

いや、違う。

一番怖いのは、やっぱり笑われることだ。

 

終わりの見えない孤独と恐怖と罪悪感から逃れるように、夜が明ければ俺はまた向かうんだ。

紫織の病室に。

 

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