自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ―United States Route―   作:パラレル・ゲーマー

24 / 25
第22話 中国が国家の核心を差し出したので、工場長はポンプを四千台注文しました

 

 ワシントンD.C.、ホワイトハウス。

 地下の国家安全保障会議室には、ウォーレン大統領、ダグラス首席補佐官、エレノア・バーンズCIA長官、そして国務、財務、商務、国防、HHSのトップたちが席に着いていた。

 そして円卓の端には、ノア・マクドウェル。

 

 だが、今回は壁面のモニターが一つ、真っ暗なままだった。

 

「……工藤氏は?」

 ウォーレンが席に着きながら尋ねた。

 

「テラ・ノヴァです」

 ノアが淡々と答える。

「それは知っている。会議には?」

「出ません」

 

 大統領の動きが止まった。

「……出ない?」

「はい。現在、東部貨物ターミナルの拡張工事ならびに、新規列車のダイヤ調整をされておりまして。本日は欠席されるとのことです」

 

「…………」

 ウォーレンは額を押さえた。

「ノア。君、今日の会議が『中国との正式な条件交渉』だと、ちゃんと彼に伝えたのか?」

 

「はい、お伝えしました」

「で?」

「『いいですね。条件がまとまったら教えてください』と」

「本当に、それだけか?」

 

「その後、ポンプの納期について質問されました」

「……分かった。いつもの工藤氏だ」

 ダグラスが眼鏡を押し上げながら溜息をついた。

 

 明確になった。

 工藤創一は、地球側の外交と政治交渉を完全に委任(アウトソーシング)することを覚えたのだ。

 彼が設定した『OFFWORLDER PRINCIPLE』というルールの中でなら、アメリカが世界とどう交渉しようと、彼自身は「工場の拡張」にしか興味がない。

 地球の政治はアメリカ政府とノアが回し、テラ・ノヴァの工場は彼が回す。その分業体制が、本格的に機能し始めていた。

 

 ◆

「では、中国からの正式なオファーの内容を確認しましょう」

 エレノアがモニターに文書を表示した。

 

 表面上は、極めて洗練された外交文書である。

 だが、その実質は、中国という超大国が提示した《DIVINE DROP》一滴に対する『入札書(ビッド)』だった。

 

【中国側要求】

 《DIVINE DROP》一滴。

 それ以上は要求しない。まずは、一滴。

 

【中国側提示条件】

 第一:『OFFWORLDER PRINCIPLE』の正式受諾。

(※これは対価ではなく、取引の最低参加資格に過ぎない)

 

 第二:テラ・ノヴァ向け『中国産業専用調達枠』の設定。

 指定された民生用産業製品について、中国政府が国内主要メーカーを束ね、国家の威信をかけて優先的に生産・供給する。

 

 第三:指定された重要鉱物・中間材についての『長期供給保証』。

 候補として、ガリウム、ゲルマニウム、黒鉛、希土類(レアアース)加工品、永久磁石など。

 

 第四:一部品目についての『政治的理由による輸出停止を行わない』長期契約。

 これが、中国にとって最も痛い譲歩だ。

 

 第五:テラ・ノヴァ向け製品についての、米国側の仕様への完全適合。

 ロット追跡、品質保証、第三者機関による検査、抜き取り試験などを、中国政府自身が責任を持って保証する。

 

「……本気ですね」

 商務長官が、思わず息を呑んだ。

「本気どころではありません」

 財務長官も同意する。

 

 中国が、自分たちの最大の武器である「巨大供給網(サプライチェーン)」と「重要鉱物」を、自ら交渉のテーブルに載せてきたのだ。

 安さだけではない。国家の心臓部を動かして、テラ・ノヴァを支援すると言っている。

 

 だが。

 ウォーレン大統領は、厳しい顔を崩さなかった。

 

「かなりの条件だと思いますが」

 ダグラスが言う。

 

「かなり、では困る」

 ウォーレンは首を振った。

「中国が提示しているものの大半は、ただの『商売』だ」

 

「はい」

 商務長官が頷く。

「専用生産枠の提供と言っても、我々が代金を支払えば、中国企業には莫大な利益が落ちます」

 

「神の雫一滴の対価としては、それだけでは足りん」

 大統領の言葉は冷酷だった。

 以前ウォーレン自身が示した方針。「相手が最も差し出したくないものを差し出させる」。

 

「中国自身も、それは分かっています」

 エレノアが文書の末尾を指した。

「中国の文書には、『追加的な戦略条件について協議可能』とあります」

 

 つまり、最初からアメリカが『核心』を要求してくることを前提としたオファーなのだ。

 

 ウォーレンは少しだけ笑った。

「李志遠か」

「おそらく。こちらに値切らせる余地を残しながらも、他国を出し抜いて『一番乗り』の取引実績だけは確実に取りに来ています」

 

 ◆

 では、アメリカは何を要求するか。

 

「単純に『中国製品を安く買える』という条件では弱すぎる」

 ウォーレンが円卓を見渡す。「土地を寄越せというのも非現実的だ。金でもない。では何か?」

 

「資源そのものではなく、資源を『武器』として使う能力を削るべきです」

 国防総省の長官が提案した。

「続けろ」

 

「例えば、重要鉱物の輸出。アメリカが中国と政治的に衝突した際、中国は必ず『輸出規制』を外交カードとして使ってきます。ならば、DIVINE DROP一滴で、そのカードの一部を十年間、完全に封じるのです」

 

 アメリカ側のカウンター案が形作られていく。

 《Strategic Supply Guarantee(戦略的供給保証)》

 

 指定品目について、十年間。

 一定数量までは、政治・外交・経済摩擦などを理由とした対米供給の停止を禁ずる。

 天災、物理的生産不能、戦争などによる不可抗力は例外とするが、「アメリカが気に入らないから輸出を止める」という嫌がらせを完全に無効化する。

 

「中国にとっては、相当痛いですね」

 財務長官が唸る。国家の主権の一部を制限するに等しい。

「だからこそ、価値があるのです」

 エレノアが言う。

 

「薬一滴の値段だ」

 ウォーレンが頷いた。

 

 ただし、アメリカも取りすぎない。

「すべての鉱物を、永久に、無制限に保証しろ」といった無茶な要求はしない。それをやれば中国も絶対に飲めないし、「次の一滴」を売るための余地(カード)がなくなってしまう。

 

「一滴で、中国の喉を全部切る必要はない」

 ウォーレンは冷静だった。

「今回欲しいのは、『一本目の契約(実績)』だ」

 

 対象は、数種類の特にアメリカにとって重要な素材と加工品に絞る。期間も十年。数量にも上限を設ける。

 これなら、李志遠も痛いが、DIVINE DROP一滴と『OFFWORLDER取引国の第一号』という称号のためなら、ギリギリ飲めるはずだ。

 

 絶妙な線引きだった。

 

 ◆

 最終交渉は、ワシントンと北京を結ぶ安全回線(ホットライン)で行われた。

 すべてを首脳同士でやると重すぎるため、実務レベルの折衝を経て、最終段階のみ、ウォーレン大統領と李志遠国家主席が直接言葉を交わした。

 

『十年間、ですか』

 李の静かな声が響く。

「十年間だ」

『対象範囲が、少し広すぎます。もう少し狭めましょう』

 

 水面下での激しいやり取り。数量。対象品目。期間。品質保証のスキーム。

 そして、最終的な合意が形成された。

 

【中国】

 ・指定重要鉱物および加工品の10年間供給保証。

 ・合意数量内では、政治的理由による輸出停止を禁ずる。

 ・Terra Nova向け専用の製造コンソーシアムの設立。

 ・米側仕様による完全な品質保証および、優先的な生産枠の提供。

 

【アメリカ側】

 ・DIVINE DROP一滴を、中国政府へ正式譲渡する。

 

 ここで、李が一つだけ確認した。

 

『……使用者については?』

 

「中国の問題だ」

 ウォーレンは即答した。

「研究に使おうが、患者へ使おうが、最高指導部で分け合おうが、我々は一切の条件を付けない」

 

 これが、OFFWORLDER PRINCIPLEの思想だ。供与後の利用については、受領側の裁量とする。

 

 李は、少し間を置いた。

『……随分と、信用しますね。我々がそれをリバースエンジニアリングして、世界を支配するかもしれないのに?』

 

「信用ではない」

 ウォーレンは少しだけ笑った。

 

「OFFWORLDERが、その問題に全く興味を持っていないのだ」

 

『……なるほど』

 李の声には、少しの戸惑いがあった。彼には、その真意が完全には理解できていないようだった。

 

 こうして、人類史上初の「神の薬」の国家間取引が成立した。

 日本のサクラの件は、人道的な個別治療という名目だ。

 だが今回は違う。国家が国家として、巨大な戦略的対価を支払い、一滴を取得したのだ。

 

 この情報は、即座にロシア、EU、日本など各国へ(非公式ルートで)速報された。

 

 モスクワでは、ボグダノフが中国側の合意内容を最後まで読み、資料を机へ戻した。

「……十年か」

 高いとも安いとも言わなかった。ただ、原子力、宇宙、重工業の担当者たちへ視線を向ける。

「我々の値札を作れ」

 

「これで、市場価格の基準(ベンチマーク)が一つできましたね」

 ダグラスが言う。

 

「いや」

 ウォーレンは、手元の契約書を見つめた。

「最低価格だ」

 

「大統領。もう一点あります」

 エレノアが、新しい資料を開いた。

「もし中国が今回の一滴を高齢者へ使用した場合、彼らは我々が持っていない症例データを、世界で最初に取得することになります」

 

 ウォーレンが顔を上げる。

「共有義務は?」

「ありません。今回の契約では、使用方法にも、その結果得られた医学データにも条件を付けていません」

「……要求しなかったな」

「はい」

 

 ウォーレンは数秒だけ考え、やがて契約書を閉じた。

「今さら一本目の契約を書き換えるな。これはこれで履行する」

「では、次回以降は?」

「その時に考える。相手だって、自分で金を払って得たデータを無料で差し出す理由はない」

 

 エレノアは静かに頷いた。

 最初の一滴は、薬そのものだけではなく、その使い方によって生まれる未知の情報にまで値段を付け始めていた。

 

 ◆

 テラ・ノヴァ。

 東部貨物ターミナルでは、建設ロボットが乱舞し、レールと貨車とクレーンとパイプが複雑に絡み合う巨大な物流網が構築されていた。

 

 創一はヘルメットを被り、ホログラムマップで信号の配線をチェックしていた。

 

『工藤様』

 ノアからの通信が入る。

「お、ノア君。早いですね」

 

『中国との交渉が、先ほどまとまりました』

「どうなりました?」

 

 ノアは、合意内容を詳細に説明した。

 戦略鉱物。十年間の供給保証。政治的停止の禁止。テラ・ノヴァ向けの専用生産枠。品質保証。

 

「なるほど」

 創一は頷いた。

『何か、ご意見はありますか?』

 

「それで、中国から何を買えるんです?」

 

 ノアの言葉が、一瞬だけ止まった。

『……ええ。かなり多くのものを、確実に買えるようになりました』

 

 創一の目の色が、パッと変わった。

 

「イヴ。地球から(中国から)買った方が早いもの、一覧出して」

『了解しました』

 

 HUDに、【MAKE OR BUY ANALYSIS(自作か購買かの分析)】が表示される。

 テラ・ノヴァ内部で生産可能ではある。しかし、わざわざ作る意味が薄い『大量の汎用品』のリストだ。

 

 産業用ポンプ。三相モーター。インバーター。工業用バルブ。ケーブル。配電盤。ベアリング。フィルター。汎用配管部品。センサー。ボルト・ナット類。コンテナ。汎用工具。

 

 全部、創一の工場で作れる。

 でも、それを作ろうとすると、鋼材、銅板、組立機、工場スペース、電力、そして建設ロボットの手間を無駄に食う。

 

「買えるなら、地球で買おう」

 以前ソーラーパネルを大量輸入した時と同じ思想の、さらなる拡張だ。

 

 創一は、次々と数字を入力していく。

「じゃあ、中国への最初の発注(オーダー)ね」

 

【INDUSTRIAL PROCUREMENT BATCH CN-01(産業用調達バッチ 第一号)】

 ・産業用ポンプ 4,000台

 ・三相誘導モーター 12,000基

 ・可変速ドライブ(インバーター) 8,000台

 ・工業用バルブ 50,000個

 ・電力・制御ケーブル 2,400km

 ・大型ベアリング 20,000セット

 ・各種配管継手 大量

 

『……ポンプ四千台、ですか』

 ノアが少し驚いたように聞き返す。

 

「最初はね」

『最初』

 

「うん。人口二万人まで増やす予定だし、工業用水も農業ドームも冷却系も、どんどん増えるからね。絶対すぐ足りなくなるよ。あ、あと予備も含めて」

『予備はどの程度です?』

「もちろん三割」

 

 元SEの職業病だ。予備部品(スペアパーツ)は絶対に切らしてはいけない。

 

「ノア君。ポンプって地味ですけど、工場のどこにでも使うんですよ」

 創一は真剣に語った。

「給水、排水、冷却、化学プラント、農業、消防、燃料、魚の養殖、そして将来の原子力設備の冷却水。……止まると全部止まるんです」

 

『なるほど』

 ノアは深く理解した。

『高級な未知の技術にリソースを割くより、既製品を大量に買い集めた方が、今の工場のボトルネックを最速で潰せるということですね』

「そういうことです!」

 

 ◆

 ホワイトハウス。

 テラ・ノヴァから、中国向けの発注リストが転送されてきた。

 

 ウォーレンは、そのリストを読んで絶句した。

 

「……ポンプ四千台」

「はい」

「モーター一万二千」

「はい」

「バルブ五万」

「はい」

 

「…………」

 大統領はダグラスを見た。

「中国から、十年間の戦略資源保証という世界史級の外交成果を引き出した結果、彼が最初に欲しがったのが……ポンプなのか?」

 

「大統領」

 ダグラスが静かに言った。

「工場ですので」

 

 ウォーレンは、しばらく黙り込んだ後。

「……そうだったな」

 

 大統領の疲れ切った声に、会議室に少しだけ笑いが起きた。

 

 だが、商務長官は真剣な顔で頷いた。

「理に適っています。これら膨大な汎用品の生産を地球に任せれば、テラ・ノヴァの組立ラインは、より高度な未知技術の製品へと生産力を集中させることができます」

 

 つまり。

 単なる輸入ではない。地球の産業を、テラ・ノヴァの『外部サブファクトリー』として組み込もうとしているのだ。

 テラ・ノヴァの惑星工場。アメリカの防衛産業。そして、中国の巨大な製造網。

 全てが、工藤創一の生産ネットワークの一部として繋がり始めていた。

 

 ◆

 中国側にも、アメリカ政府を通じて注文書が届いた。

 

 北京。

「テラ・ノヴァ向けの第一回発注が到着しました」

 経済担当が、李志遠に報告する。

 

「何だ?」

「産業用ポンプ四千台。三相モーター一万二千基。インバーター八千台。工業用バルブ五万……」

 

「待て」

 長老の一人が遮った。

「神の薬一滴を渡した相手が、我々に欲しがったのが、これか?」

 

「違います」

 李は首を振った。

「何がだ」

「薬の対価は、我々がアメリカに差し出した十年間の『戦略的保証』の方です。これは、その保証によって開かれた商売の、ただの『最初の注文』に過ぎません」

 

 李は、注文リストを最後まで読み、指先で机を一度だけ叩いた。

 そして。

「良い注文だ」と呟いた。

 

「良い?」

「金を要求しない相手が、一体何を欲しがるのかが、これで少し見えた」

 李は、もう一度注文書へ目を落とした。

「彼ら(OFFWORLDER)は、我々の工場を奪おうとしているのではない。我々の工場を、自分たちの巨大な生産網の一部として『使おう(利用しよう)』としているのだ」

 

 中国側も、創一の本質へ少しだけ近づいた。

 ただし、「OFFWORLDERが巨大文明の産業統合戦略を開始した!」と盛大に誤解しているのだが。

 本当は、創一は「ポンプ作るライン増設するの面倒くさい」と思っているだけだ。

 

「テラ・ノヴァ向けは、通常の輸出品よりも品質保証条件が極めて厳しいです」

 産業担当が懸念を示す。

 全ロットの追跡、材料証明、抜き取り破壊試験、米側仕様への完全適合。

 

「満たせ」

 李は即答した。

「価格は?」

「二の次だ。これは中国の看板を背負って、OFFWORLDERの工場へと入る製品だ。一番良い工場を使い、最高の品質で納品しろ」

 

 中国政府としても、最初の取引で品質問題を起こすわけにはいかなかった。

 

 ◆

 テラ・ノヴァ。

 創一が一通り注文の承認を終えたところで、イヴが尋ねた。

 

『中国政府への譲渡用Medical Kitを、新規製造しますか?』

 

 現在の在庫。

 BIOMATTER STOCK:327

 DIVINE DROP STOCK:8

 

「うん。一個作って」

 

 創一の指示で、自動組立機が動き出す。

 First Aid Kit × 1

 Biomatter × 1

 Wood × 2

 Raw Fish × 1

 

 数秒後。カシャン、とエメラルド色の注射器が完成した。

 

 表示が更新される。

 BIOMATTER:327 → 326

 DIVINE DROP:8 → 9

 

 そして、地球側のアメリカ軍へ一個を移送する。

 DIVINE DROP:9 → 8

 

「完成品の在庫、結局八本のままだな」

『肯定します』

 既存の在庫を削るのではなく、新たに一つ作って渡した。資源管理としては完璧だ。

 

『工藤様。本当に、どなたに使われるかは確認されないのですか?』

 ノアが念のため確認する。

 

「中国が決めればいいんじゃないですか? 地球の話ですよね?」

 創一は、全く興味がなさそうに答えた。

 OFFWORLDER PRINCIPLE。その原則が、これ以上ないほど綺麗に貫かれていた。

 

 ◆

 ゲートを越え、アメリカの厳重な施設。

 今回は、正式な国家間取引である。

 《DIVINE DROP》一滴が、人類史上初めて「戦略商品」として地球上を移動する。

 

 軍の重武装の護送車列。国務省の官僚。CIAの監視。HHSの専門家。

 ウォーレン大統領は直接触れる必要はないが、報告を受けた。

 

「中国向けDIVINE DROP、受領しました」

「では、契約通りに渡せ」

 

 誰に使うのか。誰が生き残るのか。

 聞かない。

 それは、中国の問題だ。

 

 ◆

 数日後。北京。

 中国側の最高レベルの医療施設。

 その地下は、軍と国家安全部の特殊部隊によって完全に封鎖されていた。

 

 厳重な警備が敷かれた病室。

 そこには、党の中枢、李志遠、そして八十代後半の最長老がいた。

 ベッドの傍らには、特殊な保護ケース。

 

 カチャリ。

 ケースが開き、中から緑色の注射器が現れた。

 《DIVINE DROP》。

 

 最長老は、長いことその緑色の液体を眺めていた。

「……これ一つのために、随分と高いものを払ったな」

 

「国家としては安いくらいです」

 李が淡々と返す。

「自分が使わないから、簡単に言う」

「私の順番は、いずれ来ますから」

 

 ここで、中国の最高医療班のトップが、少し緊張した面持ちで確認を入れた。

「最長老。投与の前に、確認させてください」

 

 現在、この薬について確実に分かっていること。

 先天性心疾患の完全治癒。ALSの完全回復。失われた四肢の再生。重篤な損傷の修復。

 しかし。

 

「『高齢者』へ使用した公的な症例は、我々が確認した限り存在しません」

 医師は、慎重に言葉を選んだ。

「つまり、加齢(老化)に由来する身体機能の低下に対して、この薬がどこまで作用するのかは、全くの未知数です」

 

「視力、筋力、内臓機能、神経系が改善する可能性はあります。一方で、どの程度まで回復するかは予測できません」

「俗に言われている『若返り』について、我々には実証データがありません」

 

 最長老は、低く笑った。

「つまり。私が、最初の老人のモルモットか」

「……はい」

 

 李が、最後に確認した。

「怖いですか?」

 

 最長老は、李をじろりと睨んだ。

「馬鹿を言うな」

 彼は注射器を見た。

 

「八十年以上生きた。戦争も見た。粛清も見た。国が飢える時代も、豊かになる時代も見た」

 最長老は、シワだらけの細い手を伸ばした。

「今さら、一本の注射を怖がってどうする」

 

 医師が注射器を受け取り、最長老の腕を消毒する。

 

 李が、横からすかさず言った。

「念のため言っておきますが」

「何だ」

「元気になった場合、明後日からびっしりと予定を入れてありますので」

 

 最長老は動きを止めた。

「…………」

「お前」

「何でしょう」

「まだ結果も出ておらんぞ」

 

「先に準備しておくに、越したことはありません」

 李は涼しい顔で答えた。

 

 医師が、針を刺す。

「投与します」

 

 カシュッ。

 《DIVINE DROP》の緑色の液体が、八十代後半の老人の血管へと流れ込んでいく。

 

 モニターの電子音が響く。

 心拍。血圧。酸素飽和度。

 数秒が経過した。

 

「……?」

 医師の一人が、首を傾げた。

「待ってください」

 

「どうした?」

 李が問う。

 

 モニターの数値が、尋常ではない速度で動き始めた。

「これは……」

 

 医師たちが、息を呑んだ。

 




ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。