自宅に届いた『惑星開発キット』で、社畜SEは異世界工場の管理者になる ―United States Route― 作:パラレル・ゲーマー
ニューヨーク州北部。緑豊かな丘陵地帯に広がる、マクドウェル・エステート。
アメリカの軍産複合体の中核を担うタイタン・グループの総帥、アーサー・マクドウェルが所有するこの広大な邸宅は、現在、極秘の医療要塞と化していた。
屋敷の奥深く。
かつては広大な書斎だった部屋が、完全に無菌化されたICU(集中治療室)へと改修されている。
無機質な電子音が一定のリズムで響く中、ベッドに横たわっているのは、一人の少年だった。
ノア・マクドウェル。十七歳。
劇症型のALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症してから数年。
彼の身体は、もはや彼自身の意思では一ミリも動かすことができなかった。
自発呼吸すら不可能となり、気管切開によって繋がれた人工呼吸器だけが、彼の肺に酸素を送り込んでいる。
わずかに制御できるのは、眼球の動きだけ。
しかし、恐ろしいことに、彼の意識は完璧に明晰だった。
自分の身体が少しずつ、だが確実に機能を失い、死へと向かっていく過程を、優れた頭脳を持ったまま、閉じ込められた内側から全て理解し続けてきたのだ。
ベッドの傍らには、いつものように祖父のアーサーが座り、動かないノアの手を握っていた。
だが、今日の祖父は違う。
何年も見せたことのない「期待」の表情。
そして何より、それを失うことを酷く恐れているような、脆い顔をしていた。
ノアは、モニターに取り付けられた視線入力装置を使って、画面に文字を打ち込んだ。
『WHAT HAPPENED?(何があったのですか?)』
アーサーは、短く息を吐いた。
「……治療法が、見つかったかもしれない」
ノアの瞳の動きが、ピタリと止まった。
『FOR ALS?(ALSの治療法が?)』
「そうだ」
アーサーの後ろから、白衣を着たNIHの神経科医が一歩前に出た。
「ノアさん。正確には、治せるかどうかは、まだ分かりません」
医師は、先日行われたマクラーレン軍曹の症例について、端的に説明を始めた。
爆傷による四肢の喪失。多臓器の深刻なダメージ。
それらが、未知の液体を投与したことで、完全に再生したという事実。
「しかし」
医師は言葉を濁した。
「軍曹で確認されたのは、あくまで物理的な損傷の修復と、末梢神経を含む身体組織の再構築です」
それに対して、ALSは根本的に異なる。
中枢神経系——脳幹と脊髄の運動ニューロンが変性し、死滅していく病だ。
神経が「切断された」のではなく、システムそのものが「腐って消えつつある」。
「この薬が、マクラーレン軍曹の時のように、中枢神経にまで同じように働く保証はありません」
医師の説明が終わると、アーサーがタブレットをノアの目の前に掲げた。
マクラーレンの治療映像だ。
四肢を失った軍人に薬が投与される。
損傷した内臓が修復される。
ゼリー状の組織から骨が伸び、筋肉が編み上げられ、腕が再構築されていく。
脚が生える。
そして最後には、新しく生えた自分自身の指を、自らの意思で動かし、涙を流す。
ノアは無言のまま、視線だけでその映像を何度も繰り返し見た。
フェイク動画ではない。
アメリカ軍とNIHのトップが確認し、そして祖父が信じた事実だ。
「ノア」
アーサーが、絞り出すように言った。
「無理に受ける必要はない。危険性も全く分かっていないのだからな」
ノアは視線を動かし、文字を入力した。
『I WANT IT.(私は受けたいです)』
「危険性も分からない」
『I KNOW.(分かっています)』
そして、文字が続く。
『THIS IS MY DECISION.(これは私が決めることです)』
アーサーは言葉を失った。
ノアはさらに視線を動かす。
『WITHOUT IT, I WILL DIE.(これがなくても、私は死にます)』
『THEN I WANT TO CHOOSE THE POSSIBILITY.(ならば私は、可能性のある方を選びたいです)』
十七歳。
だが、その決断は、自分の死と何年にもわたって静かに向き合い続けてきた人間の、極めて理性的で冷徹な判断だった。
◆
ホワイトハウス地下、シチュエーション・ルーム。
マクドウェル邸の医療区画からのライブ映像が、巨大なスクリーンに映し出されていた。
ウォーレン大統領、ダグラス首席補佐官、エレノア・バーンズCIA長官。
そして、HHS、NIH、国防総省の関係者たち。
前回のマクラーレン治療の時のような、半信半疑の空気はもうない。
全員が、あの薬の効果を知っている。
だからこそ、今回彼らを支配しているのは、「効くわけがない」という疑念ではなく、「一体どこまで効いてしまうんだ?」という、未知への恐怖だった。
「今日は騒ぐなよ」
ウォーレン大統領が、低い声で釘を刺した。
彼の視線の先には、前回「一千億ドルでも安い!」と狂乱した国防側の高官がいる。
「……努力します」
「努力ではなく、約束しろ」
画面の中で、医師がノアに最後の確認を行っている。
『ノアさん。最後に確認します。同意されますか?』
ノアの瞳が動く。
『YES.(お願いします)』
アーサーは震える手で、ノアの冷たい手を包み込んだ。
防護服を着た医師が、あのエメラルドグリーンの液体が満たされたインジェクターを、ノアの首筋に押し当てる。
カシュッ。
圧縮空気が解放される微かな音。
奇跡の液体が、少年の体内に投与された。
一秒。
何も起こらない。
二秒。
三秒。
マクラーレンの時のように、心拍数が急上昇することもない。
だが。
ピッ、ピッ、ピピピピピ!
モニターの波形が、突然、一気に変化した。
心拍、血流、そして何より——脳波と神経活動のグラフが、激しく跳ね上がった。
「始まった!」
シチュエーション・ルームのNIH研究者が、画面に食い入るように叫んだ。
今回のナノマシン群の動きは、前回とは全く異なっていた。
マクラーレンの時は外傷の修復が優先された。
だがノアには、目立った外傷はない。
ナノマシン群は一切迷うことなく、一直線にターゲットへと向かった。
脳幹。脊髄。運動ニューロン。
ALSによって変性し、完全に死滅した領域への集中投下。
「……待て」
現地の神経科医が、リアルタイムのMRI画像を拡大し、絶句した。
「脊髄前角の運動ニューロンが……」
「何だ?」
「増えている」
前回の会議で、「末梢神経を繋ぐのとは訳が違う」と豪語していた科学者たちが、目の前のデータに凍りつく。
中枢神経そのものが、画面上でみるみるうちに戻っていく。
「あり得ない……」
「死んだ神経細胞を蘇らせているんじゃない。
ゼロから、新しく作り直している……!」
しかも、ただ無闇にニューロンを増殖させているわけではない。
正しい位置。正しい種類。正しい接続。
そして何より恐ろしいのは、ノア本人が本来持っていたはずの複雑な神経回路へ、完全に、一寸の狂いもなく接続(マッピング)されていることだ。
「どうやって?」
シチュエーション・ルームの研究者が、震える手で頭を抱えた。
「中枢神経系をこれほどの規模で再構築して、なぜ記憶が保たれている?
感情も、自我も、言語中枢も、全く乱れていない。
人格(パーソナリティ)に一切の損傷を与えずに、脳と脊髄を『新品に交換』しているなんて……どうやってやってるんだ!」
答えはない。
人類の知性が及ぶ領域ではないからだ。
画面の中。
最初に反応を示したのは、横隔膜だった。
長年、微動だにしなかった呼吸筋に、新しい神経信号が到達する。
ピッ。
「自発呼吸の波形!」
「横隔膜が動いてる!」
人工呼吸器の強制的なポンプの動きに依存していたノアの胸郭が。
ほんの僅かに、自力で上下した。
もう一度。
今度は、はっきりと大きく、胸が膨らむ。
「……ノア?」
アーサーが、震える声で呼びかけた。
しかし、医療用キットの「修復(リセット)」は、まだ終わらない。
ALSの根本原因を治しただけでは、長年ベッドに縛り付けられていた身体は動かない。
だが、ナノマシンはそこで止まらなかった。
萎縮した筋肉の繊維を太くし、骨密度の低下を補い、固まった関節を滑らかにし、弱った心肺機能と消化器系を、次々と再構築していく。
ただ健康にするだけではない。最適化(オプティマイズ)だ。
十七歳のノアが、もし病気を発症せず、十分な栄養を摂り、十分な運動をし、十分な睡眠を取り、最高の健康状態で成長していたならば到達できたはずの「本来の完成形」。
そこへ、一気に肉体のステータスが引き上げられていく。
筋肉が不自然に膨れ上がるような、ハリウッド映画のミュータントではない。
あくまで、ノアという個体が持つ遺伝的・先天的素質の範囲内。
だが、その素質の100%。
完全なる健康体が、ベッドの上で構築されていく。
ノアの右手。
その細かった指先が、ピクリと動いた。
アーサーは、息を止めた。
もう一度。
人差し指。中指。親指。
ゆっくりと、まるで錆びついた機械に油が回るように、指が曲がっていく。
何年もの間。
アーサーが、ただ冷たくなっていく孫の手を一方的に握るだけだった。
だが今、ノアの指が。
ゆっくりと、アーサーの大きく節くれだった手を、握り返した。
「…………」
老人は、完全に固まった。
何も言えなかった。
ただ、目から熱い涙がボロボロとこぼれ落ちていく。
「ノア……」
ノアは、もう一度。
祖父の手を、力強く、しっかりと握りしめた。
「自発呼吸、100%安定。血中酸素濃度、正常」
「肺活量、正常値を上回っています」
「喉の筋肉、声帯、嚥下機能、すべて正常化しました」
医師たちが、興奮を押し殺しながら慎重に補助装置を外していく。
そして最後。
気管切開カニューレが外される。残っていた気管切開部の孔も、医療用キットによってすでに完全に閉鎖され、新しい皮膚に覆われていた。
スゥ。ハァ。
スゥ、ハァ。
ノアは、何度も、何度も、自分の意思で空気を吸い込み、吐き出した。
自分の肺が膨らむ感覚。
冷たい空気が喉を通る感覚。
そして。
「……お祖父様」
最初は、掠れた小さな声だった。
だが、確かにノア自身の声帯が震えて出した、言葉だった。
アーサーは、そのままベッドに崩れ落ち、声を上げて泣いた。
アメリカの影の支配者と呼ばれる冷酷な男が、子供のようにしゃくり上げている。
シチュエーション・ルームでも、誰もその姿を笑う者はいなかった。
「すぐに立ち上がるのは危険です。まずは——」
医師が制止しようとしたが、ノアの身体検査のデータは、全てが「正常」どころか「最高水準」を示していた。
筋力、平衡感覚、神経伝導速度。
ノアは、医師二人に軽く支えられながら、ベッドからゆっくりと脚を降ろした。
裸足の足裏が、冷たい床の感触を拾う。
一歩。
足に体重をかける。
膝が折れない。太ももの筋肉が、しっかりと体重を支えている。
止まる。
もう一歩。
歩ける。
ノア自身が、呆然と自分の身体を見下ろした。
手。脚。身体のすべて。
何年も微動だにしなかった鉛のような檻が消え去り、すべてが自分の意思通りに、滑らかに動く。
ほんの数メートルの距離。
だが、彼にとっては、何年かかっても届かなかった距離。
ノアは支えを離れ、自らの足で歩き出した。
そして、泣き崩れている祖父の元へ歩み寄り、その広い背中を抱きしめた。
「お祖父様」
アーサーは声にならない声を上げ、孫をきつく抱きしめ返した。
◆
感動だけで終わらせるわけにはいかない。
NIHの専門チームによる、徹底的な検査が始まった。
ALSの完全消滅。
異常タンパク質の蓄積、神経の変性、運動ニューロンの障害。その痕跡すら残っていない。
筋萎縮なし。臓器障害なし。長期療養に由来するあらゆる合併症の問題も、すべてクリアされていた。
そして。
神経科医が、ある違和感に気づいた。
「認知テストを行わせてください」
ノアは、タブレット端末を使って様々なテストを受けた。
記憶力、論理思考、空間認識、処理速度、言語能力、注意力、作業記憶(ワーキングメモリ)。
正答。正答。正答。
また正答。
研究者が、顔をしかめながら問題の難易度を上げる。
また正答。
「……テストの内容を変更しろ。もっと高度なものを」
さらに複雑な推論問題や、複数の変数を同時に処理するタスク。
結果は——測定上限到達(カンスト)。
誤解してはならないのは、ノアが「知識を注入された」わけではないということだ。
彼は、知らなかった高等数学の公式を突然閃いたり、学んだことのない外国語をペラペラと話し始めたりしたわけではない。存在しない記憶が植え付けられたわけでもないし、人格は以前の彼と同じままだ。
ただ、考える能力(スペック)そのものが、完全に研ぎ澄まされているのだ。
自分が元から知っている知識へのアクセス速度。演算能力。推論。学習。集中力。感覚情報の処理。
すべてが、ノア本人が持つ潜在能力の100%で稼働している。
「どう感じますか?」
医師が尋ねる。
ノアは少し考え、正確な言葉を選んだ。
「……頭の中が、静かです」
「静か?」
「はい。考えたいことに、思考がそのまま、一切の抵抗なく届きます」
以前も、彼は知性を失ってはいなかった。
しかし今。
頭の中に常にあった霧。疲労。肉体の苦痛から来るノイズ。神経系のエラー。
それらが完全に消え去った。
「世界が、以前よりずっと鮮明に見えます」
◆
ホワイトハウス、シチュエーション・ルーム。
最終報告が行われた。
ALS、完全治癒。中枢神経の再生確認。人格・記憶、正常。
身体機能の完全回復。そして——脳機能の大幅な最適化。
沈黙。
誰も口を開けない中、またしても誰かが呟いた。
「Holy shit……」
「今日は一回までだ」
ウォーレン大統領が、即座に釘を刺した。
「大統領」
「私だってそう言いたい気分だ」
NIHの責任者が、震える声で報告を総括した。
「大統領。やはり、これは治療薬などという代物ではありません。
人間そのものを、最適な状態へ『復元(リストア)』する装置です。
病気を個別に治しているわけではありません。人間を観測し、異常を判定し、本来の正常状態へ戻している。
しかもノアの場合、病気になる直前ではなく、この少年が本来持つポテンシャルまで、完全に引き出している」
「……待ってください」
NIHの責任者が、ふいに顔を上げた。
「この最適化がノアだけの現象でないなら、マクラーレン軍曹にも同じ処理が行われているはずです」
「軍曹の認知機能検査を、直ちにやり直してください」
数時間後、速報値が届いた。負傷前の記録と比較して、反応速度、作業記憶、注意制御など複数項目で明確な改善が確認された。知識そのものが増えたわけではない。マクラーレンもまた、本人が元から持っていた能力を最大限発揮できる状態へ最適化されていた。
「……健康な人間に使っても、“健康以上”の意味があるのか」
ウォーレンが低く呟く。エレノアは「そのようです」と静かに答えた。神のテクノロジーという言葉を、もう誰も笑えなかった。
◆
マクドウェル邸。
一連の検査が終わり、数年ぶりに普通の服に着替えたノアは、書斎のソファに座っていた。
もう車椅子すら不要だ。
向かいには、祖父アーサーと、CIA長官エレノア・バーンズが座っている。
「私を治した薬について、教えていただけますか?」
ノアの質問に、エレノアは工藤創一の簡易ファイルを彼に手渡した。
一枚の写真。
ノアはそれを見た。
普通だ。あまりにも普通の中年男性。
「この方が?」
「この方が、薬を送ってきました」
「医師ですか?」
「いいえ」
「研究者?」
「いいえ」
「では?」
エレノアは、少しだけ言い淀んだ。
「一か月ほど前まで、カリフォルニアのIT企業で、古いシステムの運用保守をしていました」
「…………」
ノアは無言で写真を見つめた。
隣でアーサーが、深く頷いている。その反応はよく分かる。
「いくら支払ったのです?」
「支払っていません」
「……では、何と交換で?」
「何も。無条件です」
ノアは、まっすぐエレノアを見た。
「私に? 私を名指しで?」
「はい」
「なぜです?」
「本人によれば」
エレノアは正直に答えた。
「『雇い主が気にかけているらしいから』。彼はそれしか知りません」
ノアは、自分の手を見た。
立ち上がり、歩く。呼吸する。考える。
数日前には、二度とできないと思っていたこと。その全て。
一人の見知らぬ男が、対価も求めず、一本の薬で返してくれた。
ノアからすれば、それは文字通り、神の御業に等しい。
「会わせて下さい」
ノアが、静かに言った。
「工藤創一氏に?」
「はい」
ノアはエレノアを見据えた。
「私に薬をくださった神に、直接会わせて下さい」
「ノア」
アーサーが制止しようとしたが、ノアは真剣だった。
「お祖父様。私は、あの方から命だけを救っていただいたのではありません。
未来を返していただきました。
これから私が生きる時間も、学ぶものも、築くものも、本来なら存在しなかったものです。
……ならば私は、私の全てをもって奉仕するべき存在だと思います」
アーサーは、しばらく孫を見つめ、やがて深く頷いた。
「……私は止めん」
「お祖父様」
「私も同じ気持ちだ」
タイタン・グループ。
その巨大な資産。工場、造船、航空、軍需、電子、物流、そして政治力。その全て。
「工藤創一が必要としている物があるなら、タイタンは出す。全力を挙げてな」
◆
シチュエーション・ルーム。
報告を聞いたウォーレン大統領は、またしても頭を抱えていた。
「……また一人、厄介なのが増えた」
「何がです?」
ダグラスが尋ねる。
「工藤創一へ、自発的に全資産を差し出したがる人間です」
エレノアが淡々と答えた。
「……否定できないのが腹立たしいな」
ウォーレンは深く息を吐いた。冗談めいた言葉とは裏腹に、その視線はすでに次の判断へ向いていた。
「タイタン・グループが丸ごと、彼のパトロンになるつもりだ。
……エレノア。すぐに工藤へ繋げ。彼が何を望んでいるか、直接私が話す」
場面転換。
惑星テラ・ノヴァ。
工藤創一は、防衛隊のヘビーアーマーを着込んだまま、敷設途中の線路の上で枕木を並べていた。
「よーし、ここ直線!」
『マスター。地球側から通信です』
イヴが告げる。
「誰から?」
『ホワイトハウスです』
「えっ」
創一は慌ててスマートフォンを取り出した。
暗号化された回線。
「もしもし」
『工藤創一さんか』
「はい」
『ロバート・ウォーレンだ』
「…………」
創一はスマホの画面を二度見した。
「大統領!?」
『ノア・マクドウェルについてだ』
ウォーレンは、本題から入った。
創一は途端に真面目な顔になった。
「どうでした?」
『完全に治った』
一拍。
創一の顔がパッと明るくなった。
「おおっ!」
『ALSも、長期間の筋萎縮も、すべて消えた』
「やった! よかったー!」
彼は本当に、心底嬉しそうに喜んだ。
そこに政治的な計算などゼロだ。ただ、病気の少年が治ったという事実だけを喜んでいる。
『それだけではない』
「?」
『脳機能まで異常なほど向上している。医師によれば、本人が持つ潜在能力そのものを最大限に引き出しているらしい』
「へえー」
「…………」
電話の向こうで、ウォーレンが沈黙する。この温度差だ。
「まあ、医療用キットですからね。そういうオプション効果もあるんですね」
創一は軽く流した。
『そのノアが』
「はい」
『君に会いたがっている』
「俺に?」
『薬をくれた神に会わせてほしい、と言っている』
「神!?」
創一は素っ頓狂な声を上げた。
『さらに、自分の全てをもって奉仕するべき存在だとも』
「ええ……」
思ったより重い。
「あー」
創一は、目の前に伸びる線路を見た。
「そのうちでいいですか?」
『…………そのうち?』
「はい」
『彼はタイタン・グループの後継者だぞ』
「そうなんですか?」
『知らなかったのか?』
「名前しか」
シチュエーション・ルームの全員が、天を仰いだ。
大統領の胃痛が加速する。
『彼は君に、直接礼を言いたがっているんだ』
「いや、まあ、そのうち会いますよ」
『いつ頃だ?』
創一は工具を手に取りながら答えた。
「今ちょっと鉄道作ってるんで、それ終わってから?」
ノアの人生。タイタンという巨大軍産複合体。数百億、数千億ドル規模の話。
対して、鉄道の線路敷き。
工藤創一にとって、優先順位は圧倒的に後者だった。
「あ、それより大統領」
『……何だ』
ウォーレンは嫌な予感しかしない。
「すみません。とりあえず、人材と資材が欲しいんですけど」
ウォーレンは静かに目を閉じ、エレノアは小さく頷いた。
やはり、来たか。
「工場、大きくなってきて一人だと色々と面倒なんですよ」
創一は要望を口にした。
「電気技師、機械技師、溶接工、建設作業員、重機オペレーター、化学プラントの経験者、物流担当、倉庫管理、安全管理、設備保全。
最初は二十人とか三十人くらい?」
アメリカ側は拍子抜けした。
「それだけ?」
国家規模で数千人を用意する覚悟だったのだ。
「あとは、大型のフォークリフト、クレーン、トラック、コンテナ。
工具、電線、配管、建材、測定機、工作機械、安全装備。
そのへん、まとめてお願いします」
『……用意しよう』
「マジですか! ありがとうございます!」
創一の声が弾む。
『ただし、こちらからも一つ頼みがある』
「何です?」
『自宅ガレージでゲートを開くのをやめてほしい』
「え?」
完全に予想外の言葉に、創一は固まった。
「なんでですか?」
『惑星間検疫の問題だ』
ウォーレンは説明した。
未知の微生物。胞子。寄生体。エイリアンのような生物。
あるいは逆方向に、地球の生物をテラ・ノヴァへ持ち込んでしまう生態系汚染の危険。
それらが、何の検疫ゲートもない一般のガレージを通じて行われていることは、国家安全保障上の大問題だ。
「でも俺、一か月以上ずっと往復してますよ? 全然大丈夫ですけど」
政府側は沈黙した。知っている。だからこそ彼らは胃が痛いのだ。
『君が健康であることと、生態系レベルで安全であることは別問題だ』
「イヴも危険ないって言ってますけど」
『それでもだ。工藤さん』
大統領の声が強くなる。
「……分かりました」
あっさりと折れた。
ウォーレンは逆に拍子抜けした。
『……いいのか?』
「だって、代わりの場所用意してくれるんでしょ?」
『当然だ』
「じゃあいいです」
話が早かった。
政府が用意した新しいゲート拠点は、カリフォルニア州内の人里離れた連邦政府管理施設を再整備したものだ。
巨大ハンガー。資材倉庫。車両搬入口。洗浄区画。検疫。医療。研究。警備。通信。宿泊設備。
さらに将来の物流量増大を見越した拡張余地。
これが、地球側における《テラ・ノヴァ前線物流基地》の原型となる。
「ハンガーあるんですか?」
『ある』
「大型フォークリフトは?」
『用意する』
「クレーン?」
『ある』
「トラック入れる?」
『大型車両対応だ』
「倉庫?」
『複数棟ある』
「最高じゃないですか!」
創一は諸手を挙げて喜んだ。
ウォーレンは、ようやく理解した。
この男に何を与えれば喜ぶのか。一千億ドルよりも、フォークリフトなのだ。
「大統領」
エレノアが横から囁く。
「工藤創一への交渉として、過去最高の反応です」
「一千億ドルよりフォークリフトか……」
「少なくとも、現時点では」
ダグラスが苦笑する。
『工藤さん』
通話を切る前、ウォーレンは言った。
「はい」
『マクラーレン軍曹と、ノア・マクドウェルを救ってくれたことについて。……合衆国大統領としてではなく、一人の人間として礼を言う。ありがとう』
創一は少し照れくさそうに頭をかいた。
「いやぁ……。治ってよかったです。本当に」
この一言に嘘はなかった。
「じゃ、人材と資材、よろしくお願いしますね!」
『……任せろ』
電話が切れた。
ウォーレンはスマホを下ろし、息を吐いた。
「どうでした?」
ダグラスが尋ねる。
「本当に、工場しか見えていない」
「すでに何度も確認した事実です」
エレノアが同意する。
◆
テラ・ノヴァ。
作業に復帰した創一は、ふと手を止めた。
「あ、そうだイヴ」
『はい』
「アメリカ政府、絶対に医療用キットをもっと欲しいよな?」
『確実です』
「今の在庫、いくつだっけ?」
UIに表示される。
【医療用キット】
完成品在庫:10
「十個しかないじゃん」
創一はそこで、ふと嫌な記憶を思い出した。
「……あれ? 俺、マーサーさんに『あの薬、いくらでもあげる』って言わなかった?」
『おっしゃいました』
「…………やべ」
「いや、でも材料さえあれば作れるんだよな?」
『はい。製造不能ではありません。ただし現時点の完成品在庫は十個で、追加生産にはバイオマターが必要です』
「じゃあ嘘ではないな!」
『数量制約を説明していなかっただけです』
「それを世間では何て言うんだろうな……」
創一はレシピを開いた。救急キット、木材、生魚。この辺りは地球でいくらでも調達できる。問題は一つ。
『マスター。今後、米国政府へ医療用キットを継続供給するのであれば、製造量に制約があることは開示するべきです』
「レシピ全部教えるの?」
『その必要はありません。テラ・ノヴァ由来の特殊な生体資源であるバイオマターが一単位必要であり、現在の入手先は敵性生物バイターの討伐である、と伝えれば十分です』
「バイオマターかぁ……」
創一は嫌そうに顔をしかめた。
「それ教えたら、アメリカ軍がバイター倒したがらない?」
『極めて高確率です』
「……でも」
『はい』
「倒してもらえばよくない?」
『合理的です』
「だよね!」
アメリカ軍からすれば、バイターを倒してバイオマターを確保することが、そのまま誰かを完全に治療できる医療用キットの増産へ繋がるということだ。
前線に立つ兵士たちの士気が、どれほど異常な跳ね上がり方をするか。創一にはまだ想像がついていなかった。
『なお、医療需要の全てを医療用キットで賄う必要はありません』
イヴが補足する。
「ん?」
技術ツリーの医療カテゴリを見る。
そこには、初期技術として義手、義足、人工臓器、人工心肺、神経接続型補綴装置などが並んでいる。
「あ」
「じゃあ、手足ない人は義手義足でよくない?」
『用途によっては十分です』
「腎臓なら人工腎臓」
『はい』
「それで駄目な人だけ、医療用キット使うってことで」
『資源効率上は、極めて合理的です』
「解決じゃん!」
地球側からすれば、その義手義足や人工臓器も、現代医療の常識を破壊する超技術なのだが、本人は気づいていない。
『ただし、別の問題があります』
「まだあるの?」
『今後、米国政府の支援を受けて地球側での物流量が増加すれば、完全な秘匿維持は困難になります。いずれ他国政府が、マスターまたは関連施設の異常へ到達する可能性があります』
「えー……めんどいなー……」
創一は心底嫌そうな顔をした。
別に国家外交がしたくて工場を始めたわけじゃない。
「……でもなぁ」
『はい』
「ノア君は、雇い主から助けてくれって言われてたから、これで終わっただろ?」
『はい』
「あと」
創一は記憶を探る。
「サクラちゃんだっけ?」
『はい』
日本にいる、もう一人の救助対象。
どんな病気なのか、なぜ雇い主が気にしているのか、詳しいことは知らない。
だが、日本にも最低一本は薬を持っていく必要があるのは事実だ。
「じゃあ、また日本の研究所とか病院に匿名で郵送する?」
『推奨しません。現在のマスターの状況で同様の行為を行えば、米国政府、日本政府、双方に不要な混乱を発生させます』
「……外交かぁ」
『はい』
「俺、工場作りたいだけなんだけど。国家間調整とかしたくない」
『そのために、アメリカ政府にバックオフィスを依頼したのでは?』
創一の動きが止まる。
「あ」
そうだった。
「じゃあ、アメリカ政府に頼めばいいじゃん」
『合理的です』
「日本政府との話、向こうにしてもらおう!」
完全に、外交までアウトソーシングする気だ。
◆
その頃。復活したノア・マクドウェルは、自室のパソコンに向かっていた。
何年ぶりかに、自分の手でキーボードを叩く。
その速度は、猛烈だった。
政府から許可された範囲の資料を読み込み、工藤創一の経歴、要求、テラ・ノヴァ、医療用キット、そして「国家規模のバックオフィス」というキーワードを結びつける。
元から非常に優秀だった頭脳が、医療用キットによる100%最適化を受け、恐るべき処理能力を発揮していた。
「どう思う?」
背後からアーサーが尋ねる。
「極めて単純な方です」
「単純?」
「はい。工藤様は、欲しい物を全て口にしています。何も隠していません」
工場、人材、資材、物流。面倒を避けたい。それだけ。
ノアは、タイタン・グループの資料を展開した。
軍需、重工業、航空宇宙、車両、工作機械、ロボット、物流、化学、建設、エネルギー。
「お祖父様」
「何だ」
「私たちの得意分野ですね」
ノアは、ほんの僅かに笑った。
「政府より、良い仕事をしましょう」
アメリカ政府とタイタンで、どちらが工藤に便利か競争する。
工藤からしたら、ありがたいだけの話だ。
◆
テラ・ノヴァ。夕方。
創一は敷設途中の線路の上に立ち、医療用キットの在庫、バイオマターの残量、政府から来る予定の人材、新しいゲート拠点、そして日本のサクラのこと……全部を考え合わせた。
「……よし」
『はい』
創一はスマホを取り出した。
「明日、大統領に相談しよう」
『何をですか?』
「日本に薬一個、持ってっていいですか、って」
イヴは、数秒間沈黙した。
『……また大統領の胃痛が悪化すると予測します』
「なんで!?」
創一本人にとっては、病気の女の子へ薬を一本届けるだけの話だ。
しかしアメリカ政府から見れば。
ついに始まるのだ。
奇跡の医療技術の、コントロールの利かない国外供給(日本への持ち込み)が。
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