――夢を、見ていた。
トレセン学園には、数え切れぬほどの夢があった。
一番速くなりたい。
あの舞台に立ちたい。
あの子に勝ちたい。
誰かに憧れられるウマ娘になりたい。
仲間と一緒に、ずっと走っていたい。
夢を叶えるために、この学園へ来た者たち。
そして――夢を胸に抱いたまま、学園を去っていった者たち。
卒業。
引退。
進路。
故障。
敗北。
あるいは、自らの意思で選んだ別れ。
理由は、それぞれ違った。
けれど。
去った者たちの胸には、ひとつだけ共通するものがあった。
――「もう一度、あの頃に戻れたら」
誰もいなくなった教室。
机の上に残された、古い写真。
使われなくなったロッカー。
走り慣れたトラック。
夕暮れのグラウンド。
そこには、かつて誰かが抱いていた夢の名残だけが残されている。
「……楽しかったな」
「もう一度だけ、走れたら」
「もし、あの日に戻れたなら」
「まだ……終わってない」
その声は、誰にも届かなかった。
けれど――
届かなかった想いは、消えるとは限らない。
誰かに聞いてほしかった言葉。
諦めたくなかった夢。
終わってほしくなかった時間。
叶わなかった未来。
それらは、静かに、静かに積もっていく。
まるで海の底へ沈んでいく砂のように。
ひとつ。
また、ひとつ。
そしていつしか――
誰のものだったのかも分からぬほど多くの「夢」が、ひとつの情念となっていた。
その夜。
トレセン学園のプールから、歌が聞こえた。
誰もいないはずの場所から。
水面には、月が映っている。
その水面に――
ぽつり。
ぽつり。
と、波紋が広がった。
歌は、美しかった。
悲しいようで。
懐かしいようで。
聞いていると、胸の奥にしまった何かを思い出してしまうような歌だった。
そして、その歌を聞いた者は皆、同じことを思った。
――もう一度、夢を見たい。
――あの頃へ帰りたい。
――あの夢の続きを、見たい。
水面の向こうで、何かが笑った。
人魚とは程遠い。
墨を流したような黒い身体。
魚とも獣ともつかぬ異形。
水に濡れた長い髪。
裂けたような口。
その姿は、まるで水墨画から這い出してきた怪物だった。
それでも。
その歌声だけは、どこまでも美しかった。
そして――
その日から、トレセン学園では奇妙な噂が囁かれるようになった。
夜の水辺で歌を聞くと。
自分が一番望んでいた夢を、もう一度見られる。
ただし。
一度その夢を見た者は――
なかなか、目を覚ますことができない。
―――――――――――――――――――――――
もうすぐ7月になる。トレセン学園は現役ウマ娘は全員夏合宿に向かう時期になる。
夏の猛暑の中で、一人のウマ娘がため息を吐きながら学園の門を潜る。
ミラ子「はぁ。嫌だなぁプール」
ヒシミラクル。普通を自称し、普通の人生を望むウマ娘だ。他の皆と違い、走るのは好きでもレースとして生きる事にはかなり希薄だ。それでも菊花賞、天皇賞・春、宝塚記念を征した実力を持つウマ娘なのだが、彼女はカナヅチで、プールが特に嫌なのだ。
トゥインクルシリーズを終えてドリームトロフィーリーグに、トレーナーに流されるがままに移籍する事になるらしい。
ミラ子「ドリームトロフィーリーグに移籍かぁ。トゥインクルシリーズ終わればもう辞められると思ってたのになぁ」
ミラ子はそう言いながら玄関口に向かう。すると、背後から分厚いブーツの靴音が響いた。
カツン………カツン………。
ミラ子は背後を振り返る。其処には、かなり現代人とは思えない格好をした女性が立っていた。金色の髪。頭には、どこか古めかしい頭巾。和装を思わせる着物に、現代風のロングコート。そして何より目を引くのが、背負っている大きな箱。どう見ても、トレセン学園の関係者には見えない。というか、夏場なのにロングコートというのがそもそもおかしい。
ミラ子「……怪しい」
思わず口に出た。すると、彼女はミラ子の視線に気が付いて手を振ってきた。
薬売り「あっ、どもー」
ミラ子「あっ、どうも」
彼女はミラ子に微笑みかける。
薬売り「ここがトレセン学園で合ってる?」
ミラ子「えっ?はい、合ってます」
薬売り「そっか。そりゃ良かった」
彼女は全身に付けたアクセサリーを揺らしながら、クスリと微笑んだ。ミラ子は怪しくも妖艶な見た目に、思わず頬を赤らめてしまう。
ミラ子「あの、学園の関係者ですか?」
薬売り「いやいや、この学園に用があって来たの。あっ、自己紹介まだだったね。ウチ、薬売りでーす」
ミラ子「薬売り?薬剤師さん?」
薬売り「いんや」
ミラ子「じゃあ、ドラッグストアの?」
薬売り「違う違う。訪問販売で薬売りまーす」
ミラ子は女性を上から下まで眺める。
頭巾。着物。ロングコート。大きな箱。そして金髪。
ミラ子「……怪しい人ですね」
薬売り「うわ、直球」
薬売りは楽しそうに笑った。
薬売り「でもまあ、そう思うよね。今の時代にこんな格好してたら」
ミラ子「いや、格好だけじゃなくてですね……」
薬売り「ん?」
薬売りが首を傾げる。すると、学園のチャイムが鳴り始める。
キーンコーンカーンコーン………
ミラ子「あっ!そろそろ行かないと!今日日直だった!」
薬売り「そっか。んじゃ、ガンバ」
ミラ子「は、はーい!失礼しまーす!」
ミラ子は学園に向かって走り去っていく。
薬売り「―――」
薬売りは学園を見上げる。口元が何かを話してるように動いている。その時、薬売りが背負う箱の中から何かがガタガタと音を立てていた。
薬売り「いるね」
薬売りは笑う。そして、気配を感じた為に学園の門を通って玄関に向けて歩き出す。すると、後ろから追ってきた一人の女性に薬売りは肩を掴まれる。
たづなさん「あの、すみません。此処は関係者以外立ち入り禁止ですよ」
薬売り「ん?ああっ、失礼。薬売りをやってる者でーす」
彼女は、トレセン学園理事長の秘書を務める『駿川たづな』。彼女は門の前に立って生徒達と挨拶したりするのだが、もう一つの理由はこうして不審者を足止めする目的もある。
たづなさん「薬売り?そんな古風なお仕事がまだ残っておられたとは…………しかし、今は物騒な時代です。それに、ホントに商売になりますか?」
薬売り「なるなるー。まっ、伝統って奴よ」
たづなさん「ハァ……というか、トレセン学園は無許可での訪問販売は禁止しています」
薬売り「えー。ん?」
すると、学園のどこからか不思議な音が響いた。深く、透き通り、しかしどこか物悲しく、それでいて深みへ引きずり込まれそうな歌。
たづなさん「ハァ………またですか」
薬売り「あの歌声、いつからあるの?」
たづなさん「ごく最近です。放送室のイタズラと思われますが、放送委員に問い質しても知らないの一点張り。しかし、ホントにアリバイもあったので………誰かのイタズラと考えられましたが………」
たづなさんも頭を悩ませていた。トレセン学園ではここ最近、歌声が時々放送されるのだ。放送委員も知らないこの異変。秘書としても見過ごせないのに、犯人が分からないのだ。
薬売り「なるほど。ご案内させてもらおっと」
薬売りが歩き出す。
たづなさん「あっ、ちょっと!ダメです!関係者以外立ち入り禁止と!」
たづなさんが肩を掴む直前、薬売りがたづなさんを向いて笑う。
薬売り「モノノ怪が、出たよ」
薬売りは一瞬だけ振り返ると、そう口にした。そして、たづなさんは薬売りを追い掛ける。
たづなさん「と、取り敢えず荷物確認だけでもさせてくださーい!」
薬売り「はいはい」
――――――――――――――――――――――
ミラ子は教室へ戻ると、黒板消しを手に取った。
ミラ子「よいしょ……っと」
黒板に残った文字を、上から下へと丁寧に消していく。黒板消しを叩けば、白い粉がふわりと舞った。
日直としての仕事を一通り終える。
それからミラ子は、自分の席へ戻った。友達も遅れてやって来て、朝のホームルームが始まるまでの雑談を始める。
ハートリーレター「いやー、今日暑くない?」
ビロンギングス「暑い。もう七月だしね」
ミラ子「夏合宿、嫌だなぁ……」
ビロンギングス「ミラ子、またプールの話してる」
ミラ子「だって嫌なんですよぉ……」
教室には、いつも通りの声が飛び交っている。
宿題の話。
授業の話。
先生の話。
夏休みの話。
そして、くだらない冗談。
どれも特別なことではない。
ただの、他愛のない会話。
けれど――
ミラ子にとっては、それこそが何より大切な時間だった。
大きな夢があるわけでもない。誰よりも速くなりたいわけでもない。
ただ、こうして皆と笑って。授業を受けて。日直をして。帰り道に寄り道をして。
そんな普通の日々を過ごせればいい。
それだけだったのに。
ミラ子「……普通って、いいよねぇ」
ハートリーレター「急にどうしたの?」
ミラ子「いや、なんでも」
ミラ子は笑った。
その時だった。
ビロンギングス「そういえばさ」
ビロンギングスが、ふと思い出したように口を開いた。
ビロンギングス「最近、変な噂あるの知ってる?」
ミラ子「変な噂?」
ビロンギングス「うん。プールの辺り」
ミラ子の耳がぴくりと動く。
ミラ子「……プール?」
ビロンギングス「夜になると、どこからか歌が聞こえるんだって」
ミラ子「歌?」
ビロンギングス「そう。なんか、すっごく綺麗な歌らしいよ」
ハートリーレター「へぇ……」
ハートリーレターが興味深そうに身を乗り出す。
ビロンギングス「でも、それだけじゃないんだって」
ミラ子「何が?」
ビロンギングス「その歌を聞いた子がね……プールから上がってこなくなるんだって」
全員『『…………』』
教室が、ほんの少し静かになった。
ミラ子「え?」
ミラ子が聞き返す。
ミラ子「いやいや、どういうこと?」
ビロンギングス「そのまんま。プールに入ったあと、ずっと水の中にいるの」
ハートリーレター「え、危なくない?」
ビロンギングス「だから先生たちも注意してるらしいよ」
ミラ子「でもさ、そんなのただの噂じゃない?」
ビロンギングス「私もそう思う」
ハートリーレター「そもそも夜のプールなんて、普通入らないでしょ」
ミラ子「だよねー」
皆が笑う。
ミラ子「なんだ、怖い話かと思った」
ビロンギングス「ミラ子、怖いの苦手だもんね」
ミラ子「いや、そういう問題じゃないですって!」
再び教室に笑い声が戻る。
ミラ子も笑った。
けれど。
なぜだろう。
さっきまで聞こえていた皆の声の向こうから――
ほんの一瞬だけ。
「〜♪」
歌が聞こえた気がした。
ミラ子「……?」
ミラ子は窓の外を見る。
青い空。照りつける太陽。蝉の声。いつもと変わらない夏の景色。ミラ子が欲しい、というか返して欲しい幸せな時間。
ミラ子「……気のせいか」
ミラ子はそう呟いて、再び皆との会話へ戻った。
誰も気付いていない。
校舎のずっと向こう。
プールの水面が――
風もないのに、静かに揺れていたことを。
――――――――――――――――――――――――
ミラ子にとって、最も憂鬱な時間がやってきた。
ミラ子「はぁ……」
プールサイドに立ったミラ子は、水面を見つめて大きくため息を吐く。ミラ子は泳げないのだ。しかしスタミナを付ける為には、水泳が一番効果的なのだ。
ミラ子「なんで走るウマ娘が泳がなきゃいけないんですかねぇ……」
トレーナー「文句を言ってないで、入るぞ」
トレーナーの声が飛ぶ。彼女の才能に魅入られ、この世界に彼女を招き入れた本人だ。
ミラ子「はーい……」
嫌々ながら、ミラ子はプールへ入る。冷たい水が身体を包む。ビート板を手にして泳いでいく。
ミラ子「うぅ……やっぱり嫌だ……」
それでもトレーナーの指示に従い、ミラ子は泳ぎ始めた。
ゆっくり。必死に。水を掻く。
トレーナー「そうそう、その調子だ」
トレーナーが声を掛ける。
ミラ子は苦笑しながら前へ進んでいく。
――その時だった。
「〜♪」
ミラ子「……?」
ミラ子の耳が動いた。どこからか、歌が聞こえた。
よく聴くとそれは、周りから響いていない。水の中から響いてくる。
ミラ子「……歌?」
周囲を見る。他のウマ娘たちは泳いでいる。誰も歌っていない。というか、歌声に気付いてない。聴こえてないが正確だろう。
「〜♪」
また聞こえた。
深く。透き通っていて。どこか悲しい。
それなのに――不思議と心地よい。
ミラ子「……なんだろ」
ミラ子は水面の下を覗き込む。そこには、青い水が広がっているだけ。なのに歌声だけは、はっきりと聞こえる。
ミラ子「…………」
ミラ子の手が止まる。
歌声が、少しずつ近づいてくる。
いや。
近づいているのではない。
自分から――近づいている。
ミラ子「……もうちょっと……」
ミラ子は、ゆっくりと身体を沈めた。
水面へ顔を向ける。
歌が聞こえる。
自分を呼んでいるような。
ミラ子「…………もう一度……あの日々に………」
水の中なのに、ぽつりと呟く自分の声がよく分かる。
そして。
ミラ子の姿が、水の中へ沈む。
トレーナー「ミラ子?」
トレーナーが呼ぶ。
だが――
水面は静かだった。
――――――――――――――――――――――――
トレーナー「ミラ子は?」
トレーナーが周囲を見渡す。泳いでいたはずのミラ子が、見当たらない。
トレーナー「さっきまでここにいたんだが……」
誰も答えない。
トレーナー「……まさか、練習が嫌になって逃げたのか?」
しかし、その時。
ヤエノ「え?」
ヤエノムテキが振り返った。
ヤエノ「ミラ子さんなら、出ていませんよ」
バンブー「そうっす!」
バンブーメモリーも頷く。
バンブー「私たち、ずっと出入口を見てたっス!ミラ子が出ていったなら、絶対に気付くっス!」
トレーナー「じゃあ……どこに?」
トレーナーがプールへ視線を戻す。
トレーナー「……まさか」
その時。
ハートリーレター「トレーナーさん!」
ビロンギング「大変なんです!」
二人のウマ娘が駆け込んできた。
ハートリーレターとビロンギングス。ミラ子の同級生であり、友人でもある二人だった。
ハートリーレター「ミラ子が!」
ビロンギングス「プールに沈んでる!」
トレーナー「……え?」
ハートリーレター「上がってこないの!」
その言葉を聞いた瞬間、プールサイドにいた全員の顔から血の気が引いた。
トレーナー「何だって!?」
トレーナーがプールへ駆け寄る。
水面を覗き込む。
青い水。
その底に、ミラ子がいた。
動かない。
ただ静かに。
水底へ沈んでいる。
トレーナー「ミラ子!!」
トレーナーや周りの皆が飛び込もうとした、その時だった。
薬売り「ちょいちょいちょい。ストーップ」
突然背中に長方形型の札が貼られて、全員の動きが止められた。
薬売り「止めておいた方が良い。そのプールに入った以上、彼女は向こう側に行ってっから」
其処に現れた、大きな箱を背負う和洋折衷の格好をした女性。ブーツのままプールサイドに現れ、プール内のミラ子を見つめている。
トップロード「だ、誰ですか貴女は!?」
トップロードが声を上げた。いつの間にか体の自由が効いている。札は剥がれてないものの、彼等の背中に貼り付いて離れない。
薬売り「しがない薬売りでーす。でも、そのプールに入らない方が良いよ」
薬売りはプール内に沈むミラ子を見る。彼女は沈んでいるが、其処に居る訳では無い。
バンブー「なんでっすか!?ミラ子、このまんまだと窒息するっすよ!!」
薬売り「今はしないよ」
ヤエノ「何故そう言い切れるんです!?」
ヤエノも声を荒げた。
薬売り「其処は既に………モノノ怪の領分だから。ヒシミラクルは其処に居るように見えるけど、水の中はモノノ怪の支配する空間。水に落ちたら皆も現実世界に帰れなくなるよ」
薬売りがそう告げた途端、薬売りは背負う箱を床に降ろした。その瞬間、薬売りの降ろした箱が開き、中の引き出しが一人でに飛び出してきた。そして、その中から無数の札でぐるぐる巻きに封印された、大きな剣が出現。しかも、
たづなさん「待ってくださーい!いきなり持ち物検査の途中で………ってえええええっ!?なんですかこの剣は!?訪問販売の薬売りさんが何故剣を持ってるんですか!?」
たづなさんは慌てる。無理もない。現代ならば銃刀法違反に当るからだ。
薬売り「斬るからだよ☆」
全員に緊張が走る。何を!?誰もがそう思っている。
それは、彼女を含めた、薬売りが常に対処し続けた、人の世を蝕む怪異。
薬売り「モノノ怪を」
バンブー「……はっ?」
全員が固まる。
なんと言った?
物の怪と言ったのか?
ミラ子のトレーナーは、沈黙の後に正気を取り戻す。
トレーナー「な、何をふざけてるんですか!?物の怪なんて不吉な事を!!」
トップロード「そうですよ!!それに、早くミラ子ちゃんを引き上げないと溺死しちゃうんですよ!?」
薬売り「今はしないと言ったよね?それに………」
薬売りはプールから見える、沈んだまま浮かんでこないミラ子を見た。
そして、先程も学園に響いた謎の歌声。
水の底へ沈むヒシミラクル。苦しそうではなく、幸せな夢を見る子供のように安らいでいる。
薬売り「水へ引きずり込み、歌で人を惑わし、沈めるように幻夢へ浸らせるモノノ怪…………モノノ怪になった妖の名は………『マーメイド』!」
その時だった。鍔に付いた鬼の顔が口を閉じて音を鳴らす。ガキン!!という激しい金属音が周囲に木霊する。
たづなさん「口が閉じた!?」
薬売り「形、解明☆」
薬売りは笑う。
ハートリーレター「す、凄い音だったよ?」
ビロンギングス「マーメイドって、人魚姫の事?」
薬売り「そっ。けど、ただの人魚じゃないよ?真と理を持った情念が、マーメイドっていう形を得て、モノノ怪になったってわけ☆」
薬売りはそう答える。
トップロード「真と理?な、なんですかそれは?」
トップロードは未だに警戒を解かない。不思議な事が沢山起きてるが、この薬売りが少なくとも怪しくても敵ではない事は理解している。
薬売りは続ける。
薬売り「そんで、こいつが『兌の剣』。別名、退魔の剣」
トップロード「兌の剣……?」
薬売り「そ。薬売りはウチ一人じゃないんよ。全部で64人。その中でも、この剣は陰陽八卦に属する業物ってわけ」
バンブー「64人!?」
薬売り「そこ気になるんだ」
バンブー「気になるっすよ!!」
そして、薬売りは剣を構えながら話を戻す。
薬売り「話を戻そっか。真と理について、だよね。それは、モノノ怪を唯一斬れる退魔の剣を抜く為の条件の内の二つだよ。そして、さっきも言った『形』が、三つ目の条件。全部示さないと、剣は抜けないし、ヒシミラクルはいずれ、ね?」
バンブー「三つの条件?」
すると、薬売りが左手を出して握り拳から、人差し指を立てる。
薬売り「一つ目は『形』。斬るモノノ怪の名前か姿を示す事。要するに何者か暴くこと。今回ならマーメイド。水に現れて、歌で人を誘って、夢の中に閉じ込める怪異。これが『形』」
中指を立てる。
薬売り「次が『真』」
ヤエノ「真……」
薬売り「うん。要するに何が本当に起きたのかってこと。誰が何をしたのか、或いは何があったのか。何が嘘で、何が本当なのか。表面だけ見ても分からない部分ね。これが『真』」
そして三本目。薬指を立てた。
薬売り「最後が『理』」
薬売りは少しだけ表情を変える。
薬売り「これが一番大事」
バンブー「大事?何なんすか?」
薬売り「どうして、そうなったのか。どうしてこの怪異が生まれたのか。どうして人を夢に引き込むのか。何を望んでるのか。何を捨てられない、又は何を捨てたのか。モノノ怪になった根幹である心情を暴く事。これが、『理』」
薬売りは水底のミラ子を見る。
薬売り「そこまで全部分かって、初めて『形・真・理』が揃い、剣を抜いて、モノノ怪を斬れるってわけ」
トップロード「……では、それが分からない限り……」
薬売り「剣は抜けない。このまんまだとヒシミラクルは本当に溺死するし、学園の誰かにも被害が及ぶ」
一同が息を呑む。
薬売り「だから、みんなに聞きたい」
薬売りはプールの水面を見つめる。
薬売り「この怪異は、何を求めてる?」
全員『『………………』』
誰も答えられない。
薬売り「そして――」
水面が、ゆっくりと揺れる。
薬売り「なんで、ヒシミラクルを連れていった?」
沈黙。
薬売りは目を細める。
そして――途中から普段の軽い口調ではなく、古風な言葉で告げる。
薬売り「それを暴かないといけない。よって皆々様の―」
そして、退魔の剣を横向きにして構える。ベルが揺れてカラカラカランと音が鳴る。
薬売り「真と理。お聞かせ願いたく候う」
今ここに、新たな薬売りの伝説が、幕を開ける。