学園中に設置されたベルが、一斉に鳴り響いた。
カランカランカランカラン……ッ!!
ただごとではない音の群れに、廊下を走るウマ娘たちが足を止める。
ヤエノ「な……何事ですか!?」
バンブー「学園中のベルが、全部鳴ってるっス!」
その瞬間、更衣室のシャワー、給湯室の蛇口、グラウンドの水たまり、そして校舎の屋上に設置されたスプリンクラーから、一濁りの黒い水が噴き出した。水は重力を無視して蛇のように身をくねらせ、壁や天井を黒く染めていく。
そして、その水面すべてから、あの歌声が響き渡った。
マーメイド『〜〜♪ 〜〜〜♪』
モブウマ娘「いやあぁぁぁっ! 水が……水が襲ってくる!」
たづな「皆さん、水に触れないでください! 建物の上層階へ避難を!」
秋川理事長「なんという猛威っ! 学園全体が怪異の底へと沈もうとしているのか!」
漆黒の水が足元をかすめるたび、意識を失ってその場に崩れ落ちるウマ娘たち。彼女たちの表情は、苦しみではなく、どこか穏やかで、満ち足りた夢を見ているかのようだった。
トレーナー「ミラ子だけじゃない……みんなを夢に閉じ込める気か!」
ダンツ「そんなの……そんなのダメです!」
水浸しの廊下を駆け抜け、薬売りとダンツたちは再びプールの前へと辿り着く。
そこはすでに現実のトレセン学園ではなかった。水面はどこまでも広がり、空には歪んだ月が浮かび、水墨画のような黒い異形——『マーメイド』が、水底からぬうっとその巨躯を持ち上げていた。
その姿は、昔、誰もが絵本で見たような人魚姫とは遥かに程遠い、正に怪異と呼ぶに相応しい異形だった。
裂けた口から、甘く、切ない歌声が溢れ出す。
マーメイド『帰らなくていい……走らなくていい……。ここなら、誰も負けない……誰も傷つかない……。あの輝いていた日々のまま、永遠に……』
水底の暗がり。そこに沈むヒシミラクルは、うっすらと目を開けていた。
ミラ子「……そっか……。ここなら……もう頑張らなくていいんだ……。レースで負けて悔しい思いもしないし……怪我の心配もない……ずっと……みんなと笑っていられる……幸せな…………日常に」
ダンツ「ミラ子先輩っ!!」
結界の向こうから、ダンツフレームが叫ぶ。
ダンツ「ダメです! 目を覚ましてください! 確かにレースは辛いし、いつか終わりは来ます……! 卒業だって、引退だってある! でも……終わりがあるから、今一緒に走るこの一瞬が、こんなに愛おしいんじゃないですか!」
水底のミラ子は顔を上げる。
ミラ子「ダンツちゃん……」
ダンツ「『普通』が好きだっていいんです! でも、諦めて立ち止まるための『普通』なんて、ミラ子先輩の走りじゃない!!」
マーメイドが威嚇するように、キィィィンと高開調の悲鳴をあげる。
漆黒の髪が蛇のように蠢き、ダンツへ向かって解き放たれる。
だが——
カツン……。
薬売りがその前に立った。
大きな箱から漂う煙。薬売りは静かに目を細め、怪異を見下ろす。そして、目の前に無数の札を展開し、マーメイドの攻撃を防いだ。
薬売り「……なるほどねぇ。負けるのが怖い。終わるのが怖い。いつか走れなくなる未来が怖くて……だから、一番幸せだった思い出の中に閉じ込め、進むことをやめさせた」
薬売りは退魔の剣を静かに構える。
薬売り「去っていった者たちの未練。そして、今を生きる者が抱いた『終わりの恐怖』。それらが結びつき、永遠の停滞を望んだ悲しき執着……」
薬売りの声が、低く、重く響き渡る。
薬売り「これが——お前の『理(ことわり)』だ」
ガキンッ!!!!
退魔の剣の鍔に刻まれた鬼の顔が、激しい金属音とともに固く口を閉ざした。
薬売り「形・真・理……解明☆」
その瞬間、世界から一切の音が消えた。
薬売り「形、真、理――三つが揃い、示された!」
頭巾が外れ、白い神装が光の中に顕現する。
薬売り「言の葉を――解き放つ」
兌の剣『解き放つ!!』
――――――――――――――――――――――――
ファサ……。
薬売りが頭に被っていた古風な頭巾の結び目が、ふわりと解けた。
金色の髪がパラリと肩にこぼれ落ちる。
次の瞬間、退魔の剣から眩いばかりの『真紅と金の光』が爆ぜた。
“変身”の旋律が空間を満たす。
光の帯が、まるで少女漫画やプリキュアの変身シークエンスのように薬売りの全身を包み込んでいく。
頭巾が完全に弾け飛ぶと、金髪が光を浴びて神々しく逆立ち、光の粒が華やかに舞い散る。
着物とロングコートが光の渦の中で分解され、再構築されていく。
薬売りの肌——頬、首筋、そして両腕へと、サイケデリックな極彩色の幾何学模様が、生き物のように滑らかに浮かび上がっていく。目のような模様を形成し、四肢や頬、額にも同じような目玉模様の入墨が入る。
爪が鮮やかに染まり、瞳が琥珀色の輝きを放つ。
光の粒子が収束し、そこに立っていたのは——普段の気楽な訪問販売の姿ではない。
異国の神義を纏いし、超然たる存在。
「神儀化・薬売り」
その手に握られた『兌の剣』は、まばゆい光の刃を伸ばしていた。
その瞬間、兌の剣は水面を蹴って駆け出す。その時、マーメイドは口を開き、歌声を放つ。
それは耳から聞こえる音ではなかった。
水面を伝い、空気を震わせ、聞く者の心の奥底へと直接染み込んでいく歌。
一瞬、兌の剣の視界に、穏やかな水辺の景色が浮かんだ。
誰も傷つかず、誰も悲しまず、永遠に満ち足りた夢を見続けられる世界。
しかし、兌の剣には届かない。
兌の剣「美しき歌声。されど我には届かぬ」
彼女が指先を振るう。
その周囲に、無数の札が出現した。
札は扇状に広がり、それぞれに八卦の紋様が浮かび上がる。
次の瞬間、マーメイドの歌声が札の壁に激突した。
バァァァンッ!!
目に見えない衝撃が水面を揺らし、黒い波が周囲へと広がっていく。
しかし、札は一枚たりとも破れない。
マーメイドが放つ歌声を、目の前に展開した無数の札で防ぎ、更に水のように形を変えた刀身がマーメイドの歌声を押し返す。
マーメイド『ァァアアアー!!』
マーメイドが水を泳ぎ、イルカのように泳ぎ、再び兌の剣に迫る。
兌の剣「マーメイド。人の心に入り込み、終わりなき夢の底へ引きずり込む。その理、間違いではない」
兌の剣は、口元に笑みを浮かべた。
兌の剣「されど。人の心に届く言の葉は、相手が受け取らねば意味を成さぬ。この夢では、人を救う事は能わず」
彼女が剣を横に払う。
光の刀身が、液体のように滑らかに形を変えた。
刃が水流となって広がり、札の隙間を縫うように走る。
それは黒い水面を撫でるように進み、マーメイドを吹き飛ばす。
しかし、マーメイドは体勢を立て直し、大波と共に兌の剣へ迫る。
轟音。
兌の剣は刀身を盾のように広げて受け止める。
だが、衝撃までは殺しきれなかった。
彼女の身体が後方へと吹き飛び、水面を滑る。
それでも、兌の剣は片足で水面を踏みしめ、姿勢を立て直した。
兌の剣「やるな」
一瞬だけ、兌の剣は驚いた。だが、すぐに表情が変わった。
マーメイドの周囲に、無数の黒い水球が浮かび上がっていた。
それぞれの水球から、異なる歌声が響き始める。
『帰らなくていい……』
『ずっと一緒に……』
『もう、頑張らなくていい……』
声が重なる。
一つ一つは優しく、甘く、聞く者の心を包み込むような旋律。
兌の剣「……もう、十分だ」
彼女が目を開く。琥珀色の瞳が、まっすぐにマーメイドを捉えた。
兌の剣「汝が何を抱え、なにゆえこの様な異変を起こしたか、我はもう理解した」
彼女は剣を構えた。
兌の剣「故に、此度で夢を……終わりにする」
黒い大波が、彼女を呑み込む寸前まで迫る。
しかし、兌の剣は一歩も退かなかった。
そして――。
兌の剣「——解(かい)」
一瞬だった。
神儀化薬売りが退魔の剣をひと振りすると、空間を埋め尽くしていた漆黒の水とマーメイドの巨躯が、一刀のもとに両断された。
マーメイド『ア……ァアアーーーーッ……!』
マーメイドが叫ぶ。だがそれは苦痛の叫びではなかった。
切られた切り口からあふれ出たのは、黒い墨ではなく、温かな光と……無数の「歓声」だった。
『頑張れー!』
『ありがとう!』
『楽しかったよ!』
かつてトレセン学園を去っていった者たちの、本当の感謝と歓喜の声。
マーメイドの身体は無数の光の泡となり、空へ、月へと昇っていく。
ミラ子「……そっか。みんな……走りたかったんじゃない。ただ……『ありがとう』って言いたかったんだ……」
水底から解き放たれたヒシミラクルが、ゆっくりとプールサイドへ浮き上がってきた。
――――――――――――――――――――――――
ミラ子「ゲホッ! ゴホッ! ……うぅ、やっぱりプールは嫌いですー!」
現実のプールサイド。
ずぶ濡れになりながら目を覚ましたミラ子に、ダンツが飛びついた。
ダンツ「ミラ子先輩っ! 先輩っ!!」
ミラ子「うわっ、ダンツちゃん!? 苦しい、苦しいってば!」
トレーナーやヤエノムテキたちも駆け寄り、安堵の声をあげる。
学園中に広がっていた黒い水は綺麗に消え去り、倒れていた生徒たちも次々と目を覚ましていた。
ミラ子「ふぅ……なんだか、長い夢を見てた気がするなぁ……」
タオルに身を包んだミラ子は空を見上げる。夏の太陽が眩しく照りつけていた。
ミラ子「ドリームトロフィーリーグかぁ……。相変わらず面倒くさいけど……うん。もう少しだけ、走ってみようかな」
ダンツ「はい! 一緒に走りましょう、先輩!」
ふと、ミラ子はプールサイドの出口を見る。
そこにはもう、大きな箱を背負った金髪の女性の姿はなかった。
ただ、風に乗って——
チリン……。
小さなベルの音だけが、夏の空に静かに溶けていったのだった。
モノノ怪:マーメイド。おしまい
次回、吸血鬼。