薬売りの静かな一言が、保健室の空気を氷のように凍りつかせた。
薬売り「……お聞かせ願いたく、候」
「奪う」――その重い言葉に、キタサンブラックも、サトノダイヤモンドも、ヴィルシーナも、誰一人として即座に言葉を返すことができなかった。
走る者にとって、勝利とは自らの足で掴み取るものだ。他者から「奪う」ものではない。
だが……今、シュヴァルグランが求めているのは、まさに他者の輝きを力尽くすまで吸い尽くす『侵略』そのものだった。
キタサン「アタシは……! 奪いたくなんて、ない……。誰かを踏みつけて勝ちたいんじゃない……! みんなで競い合って、みんなで笑顔になりたいから……だから走ってるんだよ!」
振り絞るようなキタサンブラックの発言に、サトノダイヤモンドやドゥラメンテも静かに頷く。
薬売り「そうだねぇ。それが『表』の理屈さ。けれど……」
薬売りはゆっくりと視線を落とし、ベッドの上で札を額に貼られたまま固まっているシュヴァルグランを見つめた。
薬売り「光が強ければ強いほど、その足元に落ちる影は濃くなる。君達が眩しく輝けば輝くほど……届かなかった彼女の胸の底には、泥のような『羨望』と『嫉渇』が溜まっていった」
ヴィルシーナ「シュヴァル……っ」
薬売り「自分には何も無い。届かない。認められない。その絶望が限界を超えた時……怪異は囁くのさ。『努力など要らぬ、あの黄金の輝きを奪い、お前が太陽になれ』とな」
その時だった。
――ドックン……!
突然、保健室の床全体が、まるで巨大な生き物の背中のように大きく脈打った。
ミラ子「ひぇっ!? な、何ですか今の!?」
ダンツ「地震……じゃない!? 下から……地下から響いてきます!」
たづな「皆さん、落ち着いてください! 屋外への避難を――」
たづなが叫びかけたその瞬間、ベッドの上に横たわっていたシュヴァルグランの身体から、不気味な黒い影の糸が大量に噴き出した。
糸は天井を突き破り、床を穿ち、一直線に「学園の地下深く」へと伸びていく。
ヴィブロス「シュヴァちの身体から……影が……!?」
薬売り「……ほう。本体は大人しくさせたと思っていたがねぇ。影の根っこは、とっくに学園の地下へ潜り込んでいたわけだ」
薬売りはトントン、と退魔の剣の鞘で床を叩いた。
薬売り「地上で眠っているのは、ただの『抜け殻』。彼女の本当の想い……怪異の核(コア)は、今まさに地下でウマ娘たちの情念を吸い上げて膨らんでいる」
キタサン「地下……!? じゃあ、シュヴァルちゃんを助けるには……!」
薬売り「地下へ行くしかないねぇ……覚悟はいいかい、お嬢さん方? 彼女の口から直接、隠し続けた『真』と『理』を吐き出させなきゃあ、あのモノノ怪は斬れないよ」
キタサンブラックはぎゅっと拳を握りしめ、力強く頷いた。
キタサン「行きます! アタシ、シュヴァルちゃんの本音が知りたい……! 向き合わなきゃいけないんだ!」
ヴィルシーナ「私も行くわ。お姉ちゃんとして……あの子の影から目を背けるわけにはいかない!」
薬売り「結構☆ では……案内してもらうとしようかねぇ。あの『飢えた影』の棲家へ」
薬売りが翻したロングコートの裾から、無数の札が舞い上がり、地下へと続く扉の形を形成した後、扉のようにカチャリと解き放ち、地下への道開くのだった。
――――――――――――――――――――――――
無数の札が描いた扉の奥には、どこまでも続く暗く湿った地下階段が伸びていた。
一段踏み外すたび、空気の重みが増していく。
地下に漂うのは、冷たい鉄と、どこか甘く熟した血の匂い。
たづな「ここ……普段は立ち入り禁止の地下配管室へと続く道です……しかし、こんな空気、聞いたこともなありません……!」
ヴィルシーナ「……ッ!気をつけて!下から何か来るわ!」
ドッ……!!
階段の底から、漆黒の液体が津波のように逆流してきた。
ただの水ではない。それは無数の『黒い蝙蝠の群れ』へと姿を変え、鋭い牙を剥き出しにして薬売りたちへ襲いかかる!
蝙蝠『『ギャギャギャギャッ!!』』
キタサン「ひッ……!?」
薬売り「おっと」
薬売りは顔色ひとつ変えず、懐から一握りの札を空中へ撒き散らした。
風に舞った札は、金色の光を放ちながら一瞬で巨大な『八卦の陣』を描き、空中へ展開される。
バババババンッ!!
群がる蝙蝠たちが札の壁に激突し、激しい火花とともに弾け飛ぶ。
ダンツ「す、すごい……! 札が壁になって防いでる……!」
薬売り「安心するのはまだ早いよぉ。あのお嬢さん、招かれざる客に随分とお怒りのようだねぇ」
ガキィィィンッ!!
爆音とともに、札の陣に大きなヒビが入った。
黒い蝙蝠たちが合体し、巨大な『血の刃』となって陣を外側から力任せに叩き割ったのだ。
薬売り「ふむ……想いが深い分、力任せな攻撃はお得意と見える」
薬売りは軽やかにバックステップを踏み、崩れ落ちる階段の天井をかわす。
退魔の剣の鞘を巧みに回しながら、目の前に次々と新しい札を投げつけるように叩きつけていく。
札が四方へ飛び、空間を歪ませて衝撃波を相殺する。
しかし、地下の奥底から届く「怒り」と「飢え」は留まることを知らない。
無数の黒い血管のような触手が壁を突き破り、まるで槍のように薬売りたちの身体を狙って貫こうと突き出してきた。
ヴィルシーナ「くっ……! シュヴァル、やめなさい!!」
ヴィルシーナが庇うように前に出るが、触手は容赦なく襲いかかる。
キタサンブラックが間一髪でその腕を引っ張り、鋭い刺突を間一髪でかわした。
キタサン「ヴィルシーナさん、危ない! ……シュヴァルちゃん、本当に届いてないんだ……アタシたちの声が……!」
二人が必死に触手を回避する横で、薬売りは流れるような身ごなしで触手の密林を掻い潜っていた。
指先から放たれる札が触手に貼り付くたび、チィィィン……!と甲高い音を立てて怪異の肉を焼き切っていく。
だが、斬っても斬っても、地下の闇からは無限に新たな触手と血の刃が生み出されていく。
薬売り「流石は『吸血鬼』。他者の熱を吸い上げている分、回復力と威力が跳ね上がっているねぇ」
跳躍した薬売りが着地したのは、広大な旧地下配管室の最奥。
そこは、まさに血と影の巣窟だった。
天井からは無数の血管が脈打ちながら垂れ下がり、学園のあちこちから集められたウマ娘たちの「焦燥」と「嫉妬」の熱気が赤黒い光となって管の中を流れている。
そして、その中心。
巨大なコウモリの翼に包まれた繭が、脈打つ音とともに左右へと開き――
『――来ないで』
地響きのような声が空間を震わせた。
翼の中から現れたのは、漆黒のドレスのような影を纏い、鮮血の瞳と鋭い牙を剥き出しにした、完全異形化のシュヴァルグランであった。
シュヴァル『来ないでって言ってるんだ!! 僕の……僕の邪魔をするなぁぁぁっ!!』
シュヴァルが腕を振るった瞬間、空間全体を切り裂くほどの血の斬撃が薬売りたちへ向かって放たれた。
ドカァァァンッ!!
薬売りが咄嗟に展開した十数枚の札の盾が、一瞬で木々に粉砕される。
あまりの風圧と衝撃に、キタサンたちも壁際まで吹き飛ばされた。
ダンツ「くっ……強い……! マーメイドの時と全ぜん違う……!」
薬売り「当然だね。逃避の海と違って、こちらは『強奪の闇』。力で押し潰すことこそが、あのお嬢さんの望む『圧倒的勝利』の形なんだからねぇ」
煙煙と立ち込める衝撃のなか、薬売りは乱れた着物の裾を静かに整え、琥珀色の瞳をシュヴァルへ向ける。
薬売り「でもねぇ、お嬢さん。いくら威力を増したところで、己の心を隠し通せるわけじゃない」
薬売りは横に構えた退魔の剣の鞘を、ゆっくりと指先で叩いた。
薬売り「荒れ狂う攻撃の裏に透けて見えるよ。……お前が本当に奪いたかったのは、『勝利』という結果そのものじゃない……違うかい?」
シュヴァルの血走った瞳が、ぴくりと跳ねた。
薬売り「形は『吸血鬼』。力づくで暴れ回る怪異の牙……これにて、一筋の『真』の端緒とさせてもらおうかねぇ」
薬売りはそう言うと、周囲に無数の札を展開して、壁一面を札で覆い尽くしていく。
薬売り「シュヴァルを此処までの異形に変える程の情念。吸血鬼よ。お前の『真』は何処にある?そして、お前の『理』は何かな?」
吸血鬼化したシュヴァルは周りを見渡す。
周囲の空間を覆い尽くした無数の札が、目と模様を浮かばせた色の光を放ち、無数の札も同じ模様の光を放ち始める。
赤黒い血の匂いと湿気で満ちていた地下空間の空気が、まるで真冬の朝のように冷たく研ぎ澄まされていく。
薬売り「形は解明したよ……だけど、力任せに荒ぶるだけでは真実は見えないもんね。吸血鬼よ、お前の『真』……その本当の姿を現してもらおうかねぇ」
薬売りが指先を鳴らすと、壁一面の札が一斉に明滅した。
光が交差する中心で、空間が水面のように揺らぎ始める。
シュヴァル『な……何をする……! 破れ……破れぇぇぇっ!!』
異形化したシュヴァルグランが狂暴に腕を振り下ろし、幾重もの血の爪痕を刻みつける。
だが、札の壁は破れない。爪が触れた瞬間、壁の光は『鏡』のように変貌し、怪異の姿ではなく――過去の景色の断片を映し出し始めた。
ヴィルシーナ「これは……昔の……?」
鏡に映し出されたのは、トレセン学園の誰もいない資料室。
そして、そこに残された古い一冊の記録簿――過去に学園で語り継がれた、あるウマ娘の凄惨な記録だった。
薬売り「……見えてきたよ。この学園の地下深くに眠っていた、最初の『渇き』の記憶がねぇ」
薬売りの静かな声が響く中、札が映し出す映像がサスペンス映画の回想のように不気味な色彩で展開していく。
―――――――――――――――――――――――
何十年も昔のトレセン学園。
そこには、才能に恵まれながらも、時代を象徴する圧倒的な『怪物(ライバル)』の陰に隠れ続けた一人のウマ娘がいた。
どれだけ死力を尽くしても、届かない。
どれだけ脚を削っても、世間が称えるのは目の前を走る勝ち者だけ。
彼女は敗北を重ねるたび、周囲の温かい慰めの言葉に殺されそうになっていた。
『惜しかったね』
『素晴らしい走りだったよ』
その言葉が、彼女にとっては「お前は一生、二番手だ」という烙印に聞こえた。
満たされぬまま引退を迎えた彼女は、去り際、誰もいない旧校舎の地下室で、己の血を吐き出すような思いでノートに遺していた。
『私のすべてを捧げても届かなかった。あいつの輝きを奪いたい。あいつの走りを……その命の熱を吸い尽くして、私だけのものにしたい』
死後もなお地下の土に染み込み、消えることなく漂い続けていた強烈な「渇望と怨嗟の念」。
それが、何十年の時を経て――現代のトレセン学園で、最も深く、最も静かに『自分への失望とライバルへの焦り』を溜め込んでいたシュヴァルグランの心と、完全に「
鏡の映像が砕け散り、黒い光となってシュヴァルグランの胸へと吸い込まれていく。
キタサン「そんな……! シュヴァルちゃんの中に、昔のウマ娘の怨念が……!?」
薬売り「違うね」
薬売りは煙管の煙をゆるりと吐き出し、琥珀色の瞳でシュヴァルグランの奥底を見据えた。
薬売り「怪異は無から生まれはしない。過去の怨念が呼び寄せられたのは……あのお嬢さんの胸の中に、全く同じ『毒』が満ちていたからだ」
シュヴァル『違う……っ! 僕のは、そんな……っ!』
薬売り「隠さなくていい。お前を吸血鬼へと変えた『真』——」
薬売りは退魔の剣の鞘を、静かにシュヴァルグランへ突き付けた。
薬売り「それは、ただの過去の亡霊ではない。『お前の胸にあったのは、誰かに勝ちたいという願い。誰かに認められたいという渇き…そして、地下に眠っていたのは、それと同じ痛みを抱え、最後には他者の輝きを奪うことを望んだ者の怨念。二つの情念が重なり、結び付いた。そうして生まれたのが、この吸血鬼という怪異さ』だよ。これが、吸血鬼の『真』!」
ガキンッ!!!!
退魔の剣の鍔に刻まれた鬼の面が、重く不気味な音を立てて、固く口を閉ざした。
シュヴァル『ア……アァァァァァッ……!!』
『真』を完全に暴かれた瞬間、シュヴァルグランの周囲を覆っていた血の影が激しく蠢き、苦悶の叫びが地下空間全体を揺らした。
ヴィルシーナ「シュヴァル……! あなた、そんなにも追い詰められて……!」
キタサン「シュヴァルちゃん……っ!」
薬売り「真、解明☆……残るは、なぜそれほどまでに追い詰められねばならなかったのか……お前が最後に望む『理(ことわり)』だけだ」
光る札の陣の中、薬売りの着物の裾が、さらりと揺れた。