暇潰しにどぞ!
昏い。
光の一片すら存在しない、絶対的な虚無の深淵だった。
その暗黒のただ中で、一つの矮小な人間の魂が、頼りなく漂っていた。
男には名前があったはずだった。現代という、血の匂いから最も遠い平穏な世界で、日々の糧を得るためだけに無為に時間を費やしていた、どこにでもいるただの一般人。彼の唯一の慰みは、画面の向こう側に構築された、虚構の物語を消費することだけだった。
その彼の魂が、何らかの強大な「器」に引き寄せられ、急速に凝縮していく。
それと同時に、男の貧弱な魂の回路へ、到底受け止めきれないほどの質量を持った『情報』が逆流してきた。
それは、一人の男の生涯の記憶。
戦場を埋め尽くす死臭。他者の追随を許さぬ圧倒的なチャクラの奔流。千手という宿敵への憎悪と執着。そして、世界のすべてを偽りの夢へ誘おうとした、壮大なる狂気の計画。
(うちは……マダラ? 嘘だろ、これ、マダラの記憶……!?)
男の魂は、恐怖よりも先に、オタク特有の狂喜に震えた。
神話の領域に達した忍界の頂点。その肉体と力が、今、自分のものになろうとしている。現代の知識と、マダラの規格外の力があれば、どのような世界へ転転生しようとも、神の如き絶対者として君臨できるはずだ。運命を、世界を、思いのままに支配できる。
(ハハッ、最高だ! 俺がマダラに転生したんだ! 俺が――)
だが。
一般人の魂が、そのあまりの都合の良さに歓喜の絶頂を迎えた、まさにその瞬間だった。
その暗黒の深淵の、さらに底。
男が「自分のものになった」と錯覚していた強固な精神の檻の奥から、すべてを圧殺するほどの凶暴な『本尊』が、冷酷にその眼を見開いた。
『……やはり、つまらん羽虫が紛れ込んだな』
(え――?)
歓喜は一瞬にして、魂の根源を凍りつかせる絶望へと塗り替えられた。
男は致命的な勘違いをしていたのだ。自分が「うちはマダラに転生した」のではない。何らかの次元の因果の悪戯によって、ただの一般人の魂が、第四次忍界大戦の果てに眠りについた「うちはマダラ」の精神世界へ、不用意に迷い込んだに過ぎなかったのだ。
うちはマダラという、一世の最高傑作。
その精神は、ただの凡夫が乗っ取れるほど、安価でも、脆弱でもない。
『消えろ』
言葉ですらなかった。それは、ただの明確な「拒絶」であり、「捕食」の意志だった。
マダラの強靭極まる自我の波が、男の矮小な魂を全方位から圧殺する。憐れみも、怒りすらもない。ただ、自室の机の上を這う不快な虫を、無造作に払い落すかのような、絶対的な格の違い。
「あ、が――ッ!? や、止め、て、俺は、俺は――ッ!!」
男の魂は、悲鳴を上げる暇さえ与えられなかった。
マダラの強大な精神の顎(あぎと)が、一般人の自我を容赦なく噛み砕き、咀嚼し、その存在の核を跡形もなく喰らい尽くしていく。現代人でしかなかった男のプライドも、思考の癖も、人間性も、すべてがマダラの魂の糧として消化され、消滅した。
後に残されたのは、ただの『情報の残骸』だけだった。
だが、強引に咀嚼されたその記憶は原型を留めておらず、砂となって崩れるように、マダラの精神の海へと沈んでいった。
何か、水の球体。青い衣装の少年。巨大なクジラのような化け物。ベースボールに似た球技。そして、南方の寺院で祈りを捧げる、まだ何者でもない『従召喚士』の少女……。
そんな不確かな、いくつかの映像の残像。
それらの曖昧な記憶の澱(おり)を脳の片隅に残したまま、男は静かに、重い瞼を持ち上げた。
「……ふん。他愛のない雑魚めが」
長い黒髪の隙間から覗くその瞳は、深淵の如き漆黒。
己に入り込んできた異物を完全に喰らい尽くし、その知識だけを都合よく奪い取って覚醒した、正真正銘の「うちはマダラ」が、そこに立っていた。
ザザァ、ザザァ、と。
絶え間なく繰り返される、穏やかな波の音が鼓膜を叩いた。
肌を撫でる風は生温かく、忍界のどこよりも強い塩の香りが鼻腔を突く。マダラはゆっくりと上体を起こし、周囲を冷徹に鋭い眼で睨みつけた。
そこは、見渡す限りのエメラルドグリーンの海に囲まれた、小さな無人島だった。
白い砂浜と、見たこともない奇妙な形をした熱帯植物が鬱蒼と生い茂る岩場。戦場の硝煙も、終末の光も、千手との血の臭いも、ここには一切存在しない。
「……俺は、死んだはず。柱間の腕の中で、確かにすべてを終えたはずだ」
俺は自身の大きな掌を見つめ、それから胸に手を当てて体内の状態を確認した。
全盛期の肉体。溢れんばかりの膨大なチャクラ。それは間違いなく、かつて忍の頂点として世界を恐怖させた己のものだ。
ただ、肺に吸い込んだこの世界の空気が、奇妙な拒絶反応を起こしていた。
(……いや、空気ではないな。大気中に満ちているエネルギーの質が、根本的に異なる。これは『幻光虫』という霊的な粒子か。これほど濃密なエネルギーが空間に飽和している。これほどの密度では、チャクラを練り上げる際、体内の経絡系に僅かな摩擦が生じるな)
俺はゆっくりと立ち上がった。
身体が重いわけではない。全盛期の力は完全にこの肉体に満ちている。だが、忍界と同じ感覚で大忍術を発動させれば、この世界の未知のエネルギーと衝突し、術の精度が僅かに狂う可能性がある。
何より、周囲の気配を探る限り、世界を滅ぼしかけたような大技をわざわざ使う必要性など、どこにも見当たらなかった。
俺が背中に手を回すと、そこには寸分の狂いもなく、俺の魂の半身である「うちはの団扇(軍配)」が静かに鎮座していた。己の強大なチャクラが、この世界の霊的な粒子を巻き込んで自然と具現化したものだろう。使い慣れたその重みに、自然と唇が不敵に吊り上がる。
その時、俺の脳裏に、先ほど喰らい尽くした羽虫の記憶が、うっすらと、陽炎のように浮かび上がった。
(……スピラ? ビサイド島……? 従召喚士……。チッ、まとまらん。あの羽虫の記憶、細部が酷く掠れておるな。だが、どうやらここは、俺の知る世界ではないことだけは確かだ)
断片的な単語が頭を過るが、それが何を意味するのか、今の俺にはさっぱり分からなかった。
ただ、何か酷く歪んだ、欺瞞に満ちた世界であるという漠然とした不快感だけが、胸の奥に燻る。さらに、すぐ近くにあるビサイドという島には、まだ正式な召喚士にすらなれていない『従召喚士(じゅしょうかんし)』の見習い娘が、まやかしの希望を背負わされて祈りを捧げている……という、酷く抽象的なイメージだけが残っていた。現在から数えておよそ二年後に、何かが動き出すのだということだけが、酷くうっすらと伝ってくる。
「まあいい。どのような世界であろうと、俺のやるべきことは変わらん」
俺はフッと冷酷に笑った。まずはこの島を調べ、この世界の情報を集める。そして、この肉体を世界の理に完璧に馴染ませる。それだけだ。
その時だった。
背後の原生林の奥、そして頭上の青空から、複数の不穏な気配が同時に迫った。
俺の鋭敏な感覚が、明確な「殺意」を捉える。
まず草むらを割って姿を現したのは、鋭い牙を持つ四足獣の魔物――『ディンゴ』が二頭。
そして頭上からは、大きな翼を広げ、鋭い鉤爪を研ぐ怪鳥――『コンドル』が一羽、俺を獲物と定めて急降下してきた。
俺は逃げる素振りすら見せず、ただ冷ややかに彼らを見据えた。
その瞳は未だ黒い。万華鏡写輪眼を晒すまでもない、圧倒的な強者の佇まい。
「なるほど、挨拶代わりというわけか。――だが」
俺は背中から「うちはの団扇」を静かに引き抜くと、眼前の怪物たちへと、一歩、ゆっくりと歩を進めた。その顔には、圧倒的な落胆と退屈が浮かんでいた。
「ただの砂利か。術を使うまでも無い」
ガルルルッ!
二頭のディンゴが同時に砂を蹴り、左右から俺の喉元を噛み千切ろうと躍りかかってきた。その動きは俊敏だが、俺の眼には止まっているも同然だった。
俺は一歩も引かない。
ただ、左側から迫るディンゴの頭部へ、右手の団扇を無造作に、横一文字に振るった。
パァンッ!!!
乾いた破裂音が響く。
チャクラなど、練る必要すら無い。ただの肉体の剛力。それだけで生み出された団扇の重量と風圧が、迫るディンゴの頭骨を正面から叩き潰した。ディンゴは悲鳴を上げる間もなく砂浜に叩きつけられ、そのまま淡い光の粒子――『幻光虫』となって、一瞬にして霧散した。
「……ほう? 屍が残らんか。エネルギーの塊か」
右側から迫るもう一頭のディンゴの飛びかかりを、俺は半身を僅かにかわすだけで完全に無力化する。通り過ぎざま、その背中に向けて左の裏拳を軽く叩き込んだ。それだけで、二頭目もまた骨を砕かれ、幻光虫の光へと変わって消えた。
キィィィンッ!
頭上からコンドルが鋭い爪を突き出し、俺の脳天を狙って肉薄する。
俺は跳躍すらしない。ただ、手首のスナップだけで、うちはの団扇を上方へと扇いだ。
団扇の面が空気を激しく圧縮し、目に見えない「空気の刃」となって打ち上げられる。
ドッ!!!
凄まじい風圧の刃が、急降下してきたコンドルを正確に叩き落とした。それもまた、血を流すことなく、青白い幻光虫の光へと変わり、南国の空へと溶けて消えていく。
「フン……やはり、手応えがなさすぎるな。やはり砂利は砂利か」
だが、気配はそれで終わりではなかった。
砂浜の波打ち際から、ベチャ、ベチャと、奇妙な音が響く。
振り返ると、そこにいたのは、ゼリー状の青い巨体を持った軟体生物――『ウォータプリン』だった。
こいつは骨も肉もない水の塊であり、通常の物理攻撃をほとんど受け付けない、スピラの嫌らしい魔物の一種だ。プリンは奇妙な声を上げながら、その巨体を揺らして俺へとにじり寄ってくる。
「……ふむ。水、いや、粘液の塊か。面白いな」
物理が効かぬという本能的な気配を感じ取り、俺の唇が僅かに吊り上がる。
通常なら雷や火の術で消し飛ばすのが道理だろう。だが、俺はあえて、背中のうちはの団扇を強く握り直した。
こんな砂利を相手に、わざわざ術を練るなど、うちはマダラのプライドが許さない。
「物理が通らぬと言うなら、通るほどの『質量』で叩き潰せばいいだけの話だ」
俺の足が、砂を捉える。
ドン、と大地が鳴った瞬間、俺の姿はその場から掻き消えた。ただの圧倒的な脚力による高速移動。
一瞬にしてウォータプリンの目の前に現れた俺は、うちはの団扇を両手で上段に構えた。
チャクラは使わない。だが、俺の肉体が持つ、一撃で巨岩を粉砕する「純粋な腕力と、団扇の圧倒的な質量」が、その風圧だけで周囲の砂浜を丸く陥没させる。
「――潰れろ」
ドゴォォォォォンッッ!!!!!
凄まじい衝撃音が無人島を震わせた。
ウォータプリンの軟体は、俺の団扇が持つ絶対的な破壊力と、それを伝う超質量の圧力に耐えきれず、衝撃を吸収する間もなく、その構造そのものを一瞬で粉砕された。
青い粘液は周囲に飛び散ることすら許されず、団扇が地面に激突した凄まじい風圧によって、そのまま一気に淡い幻光虫の粒子へと分解され、消滅していった。
静寂が、再び無人島を包み込む。
海風に吹かれながら、俺は団扇を平然と背中に収めた。
一連の動作において、俺の呼吸は一つも乱れていない。
「やはり、手応えがなさすぎるな」
俺は髪をかき上げ、遥か彼方の水平線を見つめた。
この世界の魔物の実力は知れた。だが、彼らが消えた後に残るあの光の粒子(幻光虫)の性質、そして脳の片隅で眠る『従召喚士』の記憶。この世界には、俺の退屈を紛らわせるだけの、巨大な『歪み』が確実に存在している。
「スピラ、と言ったか。よし……俺がその螺旋とやらを、見極めてやる」
原作が始まる2年前。
誰もいない名もなき無人島で、うちはマダラは、己の肉体をこの世界の理に完全に調和させながら、次なる獲物(情報)を求めて、静かに動き出すのだった。
読んでくれてありがとうございました!