エボンの僧兵三人を、指一本触れずに物言わぬ廃人へと変えた赤漆の具足の男。その背中を、ジクは全身の毛穴から冷や汗を流しながら、必死についていくことしかできなかった。
(な、なんなんだ、この人は……! 魔法も使わずに、ただ眼が赤くなっただけで、あの屈強な僧兵が倒れた……。アルベドのどんな機械(マキナ)だって、あんな真似はできないぞ……!)
ルカの賑やかな大通りへ出ても、マダラから放たれる圧倒的な威圧感は、言葉を交わさずとも周囲の群衆を無言で引き裂いていた。腰まで届く長い黒髪を風に揺らし、背中に巨大な団扇を背負った男の姿に、すれ違う市民たちが本能的な恐怖を感じて潮が引くように道をあける。
だが、今のマダラの瞳に、かつて忍界を血で染めたような狂暴な殺意は宿っていない。
第四次忍界大戦の果て、千手柱間の腕の中で目を閉じ、すべての因縁と和解したその魂は、どこか静かで、世界の理を冷徹に見下ろす達観した余裕(温厚さ)を孕んでいた。
やがて二人がたどり着いたのは、ルカの中心に鎮座する巨大な円形闘技場――ブリッツボールのスタジアムだった。
宙に浮かぶ巨大な水の球体(スフィアプール)の周りを何万人もの観客が埋め尽くし、狂熱的な歓声を上げている。
「おい、見たか! 今年のゴワースの調子は最高だぞ!」
「十年前のナギ節からずっと、このブリッツボールとルカ・ゴワースだけが俺たちの救いだ!」
耳を聾するほどの歓声を見上げながら、マダラは腕を組み、静かに鼻で笑った。
(ふん……『シン』への恐怖から民の目を背けさせるために、寺院が与えた安価な玩具か。愚民どもを飼い慣らす檻としては、よく出来ているな)
「あ、あの……マダラ様」
ジクが、自分の短い舌を必死に動かしながら、カタコトの共通語で話しかけてくる。
「おれ、共通語、すこしだけ。世界のむずかしい話、わからない。でも、おれの仲間に、共通語、すごく上手な女の子、います。その子なら、マダラ様のききたいこと、全部、話せる……! 情報、いっぱい持ってる!」
「……ほう。その砂利はどこにいる」
「すぐ、連れてきます! ここで、待っててください!」
ジクは蜘蛛の子を散らすような勢いで、スタジアムの地下へと続くアルベドの連絡通路へ走っていった。マダラはただ一人、観客席の最上段から、水の球体の中で球を追いかける人間どもを、退屈そうに見下ろしていた。
その頃、スタジアムの地下に広がる薄暗い通路では、一人の少女がジクに必死に追いかけ回されていた。
タッタッタッと、湿った石畳を激しく叩く無骨なブーツの足音。ついにしびれを切らした少女が、勢いよく振り返って頬をぷっと膨らませた。
「も〜!! 朝からうるさーい!! ジク! さっきから一体なんなのさ〜!!」
甲高い声で怒鳴ったのは、頭に大きなゴーグルを載せ、黄金の髪を二つの束に元気に結った少女――リュックだった。まだ13歳ほどの細い体躯だが、その瞳にはアルベド族特有の渦巻き状の虹彩がくっきりと浮かび、天真爛漫な活発さを全身から放っている。
「ソテマ ダセコオババ! カ、カサザハフ!(あれは化け物だ! た、頼むから!)」
ジクは額から滝のような汗を流し、息を切らせながらリュックの両肩を掴んでぶんぶんと揺さぶる。
「フミ、アハタハ ユピラニミハ ヌヘテトセ?(リュック、あんたは共通語が喋れるだろ?)あの人の言葉が分からないと、俺たち全員、本当に船ごと消されるんだよ!」
「ええっ!? 共通語!? もーっ、分かった、分かったから揺らさないでよ〜っ! 行けばいいんでしょ、行けば!」
リュックは腰のポーチをポンと叩くと、ジクに急かされるようにして、スタジアムの最上段へと続く長い階段をバタバタと駆け上がっていった。
(ったく、ジクの奴、朝から大袈裟なんだから。どうせどっかの流浪の用心棒が、ちょっと偉そうにしてるだけでしょ……)
そう思いながら、階段を登りきり、観客席のまばゆい陽光のなかに飛び出した、その瞬間だった。
「……っ!?」
リュックの足が、石の床に張り付いたようにピタリと止まった。
視界に飛び込んできたのは、スタジアムの手すりに寄りかかり、眼下の熱狂を冷ややかに見下ろしている、一人の男の背中だった。
赤漆の禍々しい具足。夜の深淵を切り取ったかのような、腰まで届く長い黒髪。一点の隙もない強固な佇まい。
何より、その男の周囲の『空気』がおかしかった。大気中に満ちている幻光虫が、その男の存在そのものを恐れるかのように周囲から綺麗に弾き飛ばされ、歪な真空地帯を作り出している。
(な、なに……あれ。人間、なの……?)
リュックの背筋に、生まれて初めて経験するような、凍りつくような悪寒が走った。
アルベドの技術が作ったどんな試作兵器よりも、父親であるシドが放つ怒号よりも、その男の背中は圧倒的で、言葉を失わせるほどの「絶対的な格」の気配を放っていた。
マダラは振り返ることもせず、低く、しかし驚くほど穏やかな声を響かせた。
「連れてきたようだな、ジク」
「ひっ……! は、はい、マダラ様! この子、リュックです!」
ジクが俺の後ろで縮こまる。
リュックは必死に奥歯の震えをハキハキとした態度で誤魔化し、胸ポケットから取り出したゴーグルを顔に装着した。アルベドの誇りと、生まれ持った天真爛漫な度胸だけは、この恐怖に負けたくなかった。彼女は腰に手を当て、身振りを交えて感情豊かに、少し声を震わせつつも元気いっぱいにマダラの背中に向かって声を張り上げた。
「……アタシはリュック! アルベド族のシドの娘だよ! あんた、ジクたちを脅して船を奪ったんだって? 一体、アタシたちに何の用なわけ!?」
マダラはゆっくりと、その巨体を反転させた。
長い黒髪の隙間から覗くその瞳は、深淵の如き漆黒。
その視線が、黄金の髪を揺らす小柄な少女を捉えた、まさにその瞬間だった。
(……ん?)
マダラの胸の奥底で、奇妙な『揺らぎ』が生じた。
魂を喰らい尽くして消滅させたあの羽虫(現代人)の記憶。その情報の残渣に、こびりつくように深く刻まれていた「このリュックという少女への強烈な好感度と愛着」の感情。それが今、マダラ自身の冷徹な精神の海へと僅かに溶け込み、奇妙な温かさとなって胸の奥を突いたのだ。
他者に対してこれほどの好感(甘さ)を抱くなど、うちはマダラの人生においては有り得ない。だが、不快ではなかった。むしろ、エボンの欺瞞を憎みながらも、自分の仲間や世界を心から大切に想い、不条理な宿命に必死に抗おうとしている少女の真っ直ぐな姿。
それは、かつて戦乱の泥泥の中で、「家族を、仲間を死なせないために理想の里を作ろう」と青臭い夢を語り合い、すべてを懸けていた若き日の俺と柱間の姿に、どこか奇妙に重なっていた。
「そう焦るな。船を奪ったのは、この世界の理を知るためだ。……お前、随分とまともに口の利ける砂利だな」
マダラは腕を組んだまま、無意識のうちにその声音を和らげ、リュックの瞳の奥にある『渦巻きの紋章』を静かに見据えた。
「俺が知りたいのは一つだ。このスピラという世界の仕組み。あるいは、お前たちが恐れている宿命の正体だ。他意はない、ただの、俺の知的好奇心だ」
マダラの口から出たその意外なほど穏やかな言葉に、リュックはパチクリと大きな目を瞬かせた。張り詰めていた肩の力が少し抜け、身振りを交えて感情豊かに言葉を返す。
「うぅーー!世界の仕組みなんて、アタシに聞かれてもわかんないよ! あんなエボンの教えなんて、アタシは1ミリも信じてないんだからっ! 昔の人間が機械を使いすぎたから『シン』が生まれたなんて、絶対に嘘だよ! でも……でもね、スピラのみんなは本当に『シン』に怯えてて、アタシたちの大事なアルベドの仲間だって、機械を使ってるってだけで寺院の奴らに酷い目に遭わされてるんだよっ!」
「エボンの教えを信じぬか。……ククク、面白いな。では、十年前、ブラスカという男が命を引き換えに『シン』を倒したのだろう? それでお前たちの言う世界や仲間は救われたのか?」
「それは……!」
リュックの顔が、一瞬にして悔しさと悲しみで大きく歪んだ。彼女は胸元で拳をきゅっと握りしめ、感情を爆発させるように語った。
「今まで何回か大召喚士が『シン』を倒して、世界には平和が訪れたんだよ! 三年間だけだけど……みんなが怯えなくていい、大切なナギ節があったんだから! でも、三年経ったら、『シン』はまた復活しちゃう……。だから、みんなまた恐怖の中で祈るしかなくて……アタシ、そんなの絶対に間違ってると思うんだよっ!」
「復活した、か」
マダラの漆黒の瞳が、静かに水平線へと向けられた。
(命を賭して災厄を消し去っても、数年経てば何事もなかったかのように復活する。すると、人間どもはまた同じまやかしに縋り、次の生贄を捧げる。終わりなき螺旋、繰り返されるおままごと……。この世界の『救済』とは、その程度の残酷なシステムに過ぎんのか)
マダラはフッと低く笑った。だが、その笑みは目の前の少女を嘲笑うものではなく、この世界の歪なシステムそのものを憐れむような響きを持っていた。
かつての熱かった己の記憶と、現代人の好意が混ざり合い、マダラのなかのリュックへの評価は明確に「見どころのある砂利」へと変わっていた。
「十年前のブラスカ。あるいは、いずれまた生贄となる、どこぞの『従召喚士』の娘。……ふん、実につまらん世界だ。俺と柱間がすべてを懸けて作ったあの里も、理想の果てに様々な歪みを生み出したが、このスピラという世界は、最初から理そのものが狂いきっているな」
「ちょっと、さっきからなんの話ししてるの!?」
リュックがたまらず足を踏み鳴らして叫ぶ。
「エボンのやり方は大嫌いだけど、今いる『シン』を倒すには、召喚士様が命を懸けて旅をして、究極召喚を手に入れるしか、みんなが息を吐く方法がないんだよ! アタシたちアルベドだって、機械を使って『シン』と戦う方法を、今だって必死に探してるんだからっ!」
「方法が無いなら、作ればよいだけの話だ」
マダラは腕を組んだまま、静かに、しかし絶対的な確信を込めて言い放った。
「な……何それ、簡単に言わないでよ……!」
リュックはその圧倒的な器の大きさに、思わず息を呑んだ。
(な、なんなのこの人……!? 究極召喚しかないのに、方法がないなら作ればいいって、そんなこと言えるわけないじゃん……!)
不条理な現実に対してただ必死に抗おうとしていた13歳の少女にとって、この眼の前の男の言葉は、あまりにもスケールが違いすぎて、驚愕するしかなかった。
「お前たち異端の砂利どもが鉄の玩具を弄ぶのも、寺院の檻の中で震えるのも、俺から見れば等しく『シン』という天災の家畜に過ぎん。だが……」
マダラは冷徹に、しかしどこか優しさを孕んだ声音で口角を上げた。リュックへの微かな甘さが、その眼差しを驚くほど柔らかくしていた。
「俺は、仲間を想うお前たちのその意志を無意味に踏みにじるほど、狭量ではない。……リュックと言ったな。お前、面白い。しばらく俺の情報収集に付き合え。悪いようにはせん、この世界の歪みを暴くためのな」
リュックはマダラの放つ、暴力を伴わない圧倒的な「王の格」、そして自分をどこか面白がって見守るような大人の余裕に、完全に毒気を抜かれていた。この得体の知れない大男が一体何をする気なのかは分からない。けれど、これほど大きな存在に出会ったのは初めてだった。
「……ふーん、あんたが本当にこのスピラのことを知りたいっていうなら、アタシ、手伝ってあげてもいいよ! その代わり、アタシの仲間には手を出さないこと! これ、絶対だからね!」
リュックは少し生意気に鼻を鳴らしつつも、ひまわりのような明るい笑顔を全面的に咲かせ、しっかりとマダラの瞳を見据えて人差し指を突きつけた。
「ふん、約束は守る性質(たち)だ」
マダラは不敵に口角を上げた。その顔には、かつてないほどに穏やかで愉しげな色が浮かんでいた。
「そう焦るな、スピラの螺旋とやらがどれほどのものか、俺がじっくりと踊らせてやる」
うちはマダラは、アルベドの少女リュックと対等な協力を交わし、ルカの情報をその手の中に捉え始める。エボンの欺瞞を、世界のシステムを根底から噛み砕くための『新たなる乱舞』が、ルカ・ゴワースへの熱狂の裏側で、静かに、解せぬままに加速していくのだった。